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『再生』番外編サンプル

 
 居酒屋に入ってからも比嘉は相変わらずだった。ぺらぺらと聞かれてもいない事を喋り、そのお節介加減を爆発させて言葉巧みに橘課長にお酒を飲ませた。
 
 二時間も経つ頃には、机の上にはビールの空き瓶が五本は転がっていた。更に日本酒の徳利も三本ほど空っぽになっている。その半分以上を橘課長に飲ませたというのだから、比嘉の接待能力は恐ろしい。
 
 橘課長も最初は遠慮気味だったが、酔いが回って来てからは何処かぼんやりとした表情で宙を眺めている事が多くなった。いつもはピンと伸びている背筋が今は少し丸まっている。
 
 
「ですからぁ、俺は、あの新機種の売り出し方はもっと大々的にするべきだと思うんですよぉ」
 
 
 比嘉が芋焼酎をぐびぐびと飲みながら、呂律の回っていない声を上げる。橘課長を酔わせる代償として、比嘉の方もしこたま酒を呷った結果がこれだ。完全な酔っ払いと化してる。その隣で橘課長は日本酒を飲みながら、こくこくと小さく頷いている。
 
 
「そうですねぇ」
 
 
「売上げが予測できないから、まずは様子見なんてそんな消極的なやり方は好きじゃないんっすよぉ」
「そうですよねぇ」
 
 
 比嘉の言葉に、橘課長が繰り言のような相槌を返す。嗚呼、駄目だ。酔っ払いコンビの完成だ。そんな中、ザルの私だけが素面でいる。せめて酔いでもすれば、それを言い訳に橘課長にしなだれかかったり出来るかもしれないのに。
 腕時計へと視線を落とすと、もう夜の十時を回っていた。相変わらず中身のない会話を繰り広げる二人へと視線を向けて、私は恐る恐る声を上げた。
 
 
「あの…もう十時過ぎましたけど…」
「十時ぃ? まだ夜はこれからだぞぉ!」
「ちょっと比嘉、うるさいから三年ぐらい黙って。そういう事じゃなくて、橘課長、家に連絡とか大丈夫ですか…? 恋人さん、待ってるんじゃないですか…?」
 
 
 こういう時にこういう事を聞いてしまうから私は可愛くない女なんだろう。要らないところで気を遣ってしまう自分が嫌になる。だが、私が自己嫌悪に陥るよりも先に、橘課長の表情が目に見えて曇った。
 
 
「待ってません」
「え?」
「恋人は、待ってないんです」
 
 
 そう言い放つなり、橘課長はテーブルの上にずるずると突っ伏してしまった。常日頃きっちりとした橘課長がそんなだらしない格好をした事に、私は酷く驚いた。比嘉も一気に酔いが醒めたように目をパッチリと開いている。
 
 
「え、え、待ってないってどういう事ですか?」
 
 
 比嘉が動揺した声で訊ねると、橘課長は左頬をテーブルへと押し付けたまま、ぼんやりとした声を返した。
 
 
「一週間前に家を出て行ったんです」
「それって、別れたって事ですか?」
 
 
 自分の声が上擦るのが、不安からなのか期待からなのか解らなかった。私の問い掛けに、橘課長は少しだけ目線を上げて私を見遣った。その寂しげとも怒っているとも付かない眼差しに、微かに心臓が跳ねる。
 
 
「別れたい、と言われました。でも、僕は絶対に、死んでも別れたくない」
 
 
 死んでも、なんて酷く幼稚な言葉だ。だけど、その鈍い声音には生々しい響きがあった。別れたら本当にこの人は死んでしまうんじゃないかと思ってしまうほど。
 
 突っ伏した橘課長をそろりと覗き込んで、比嘉が訊ねる。
 
 
「あの、なんで恋人さんはいきなり別れたいとか言い出したんですか? 喧嘩でもしたんすか?」
 
 
 あまりにも無遠慮な質問に、比嘉よりも私の方が肝を冷やした。だけど、橘課長は何処か感情を覗かせない声音で淡々と答えた。
 
 
「結婚を申し込んだんです」
「けっ、結婚すか」
「はい、その場で断られましたけど」
 
 
 その言葉に、咄嗟に私と比嘉は顔を見合わせてしまった。橘課長のプロポーズを断るだなんて信じられない、というのが私たちの正直な感想だった。
 
 
「僕は、あの人に対して責任のある立場になりたかったんです。病気の時だって一番傍に居たいし、死んだ時には一緒のお墓に入りたいんです。あの人と、一生離れたくないから結婚を申し込んだのに…」
 
 
 ぽつぽつと呟いていた橘課長がゆっくりと起き上がる。手に持っていたお猪口を一息に呷ると、橘課長は大きく息を付いた。
 
 
「駄目だと言われました。結婚はどうしても出来ないって。その上、貴方ならもっと他の良い人と付き合えるはずだから、自分と別れてそういう人と結婚するべきだとか言い出したんですよ。あの人は、僕が結婚出来れば誰でもいい男だとでも思ってるんですかね」
 
 
 愚痴りながら、橘課長が空っぽになった徳利を持ち上げて「同じ物を追加で」と店員へと声を掛ける。橘課長らしかぬ荒んだ姿に、私も比嘉もぽかんと唇を半開きにしたまま茫然としていた。
 
 日本酒の徳利が届けられると、即座にお猪口に注いで呷る。自棄っぱちな橘課長の様子を見て、比嘉が狼狽したように声を上げた。
 
 
「た、橘課長、その辺にしておいた方が…」
 
 
 比嘉が上擦った声で宥めると、橘課長は一瞬はっとした表情を浮かべて、それから疲れたように額を掌で押さえた。
 
 
「…すいません…こんな個人的な愚痴を言ってしまって…。会社の人には言わないように気を付けていたのに、今日は飲み過ぎました…」
 
 
 そう言って、がっくりと項垂れる。その姿を見ていると、何とも言えない切なさが込み上げてくるのを感じた。この人は、本当に恋人のことが好きなんだ。
 
 
「い、いや、全然愚痴ってもらって良いっすよ! むしろ、橘課長がこんな個人的な話を話してくれるとか俺ら的にはすげぇ嬉しいですし!」
 
 
 そう声を張り上げた比嘉が同意を求めるように私を見てくる。無視するわけにもいかず、私もこくりと小さく頷いた。すると、橘課長はどこか泣き出しそうな眼差しで私たちを見つめてきた。その頼りない眼差しに胸が詰まる。
 
 
「…ありがとうございます。そう言って貰えると、気持ちが楽になります」
 
 
 楽になると言いながらも、橘課長の表情は酷く曇っていた。口元に無理に笑みを浮かべながらも、微かに伏せられた眼差しが切ない。
 
 その様子を見て、比嘉は捨てられた子犬を見つけたかのような表情になった。少し浮かされた掌は今すぐにでも橘課長の頭をよしよしと撫でたそうに見える。私は、その掌を机の上へと押さえつけながら、ゆっくりと言葉を零した。
 
 
「あの、良ければ今日はたくさん愚痴っちゃって下さい。私たちは聞くぐらいしか出来ないですけど、それで橘課長の気分が少しでも晴れるんならその方がいいです」
 
 
 私の言葉を聞いて、橘課長が少しだけ微笑む。
 
 
「ありがとうございます、島田さん」
 
 
 緩く傾けられた角度で、瞳を見つめられる。その少し潤んだ眼差しに、私の心はいとも簡単に揺さぶられた。それと同時に頭の奥でよからぬ考えも浮かんだ。
 
 このまま恋人と別れさせてしまえば、私にだってチャンスがやって来るんじゃないだろうか。私は、橘課長の恋人になれるんじゃないだろうか…。
 
 だけど、それはつまらない妄想だ。チャンスがどれだけ転がっていようと、私はそれを拾う事は出来ない。私は、自分がそのチャンスを拾うに値しない女だとよく解っている。
 
 
「それにしても、恋人さんが出て行ったって…実家に帰られたんですか?」
「いいえ、実家ではなく友人夫婦の家に泊まってるんだと思います。出て行ったその日の夜に『きぃちゃんに何したんだ!』って電話が掛かって来ましたから」
 
 
 橘課長がその時の電話を思い出したように、ふふ、と小さく笑い声を零す。その言葉を聞いて、比嘉が身を乗り出すようにして訊ねた。
 
 
「『きぃちゃん』?」
「あ、はい、恋人のことです」
「つかぬことをお伺いしますが、橘課長は恋人さんとはどうやって出会われたんっすか?」
 
 
 比嘉の突っ込んだ質問に、橘課長は一瞬目蓋を伏せて、それから少し躊躇うような口調で答えた。
 
 
「…僕の恋人は、元々は僕の『きょうだい』の恋人だったんです」
「「ふおぁ!?」」
 
 
 うっかり比嘉の悲鳴と重なってしまった。比嘉が動揺も露わに縺れた声で問い掛ける。
 
 
「そ、そそ、それって兄弟の恋人を、橘課長が、う…奪ったってことっすか?」
「いえ、僕の『きょうだい』は事故で亡くなってしまって……それで遺されたあの人に、僕が無理に交際を迫ったんです」
 
 
 草食系な見た目に似つかわしくない橘課長のエピソードに、私はあんぐりと唇を開いたまま固まった。橘課長は、まるで懺悔するかのように深く俯いたまま、両手の指を組み合わせている。
 
 
「だから、元々無理があったのかもしれません」
「無理、ですか?」
 
 
 呻くような声に問い掛けると、橘課長はこくんと小さく頷いた。
 
 
「はい。あの人は、僕の『きょうだい』が亡くなった後も、ずっと死んだ『きょうだい』の事で傷付いていました。僕はそれを知ってたのに、自分の気持ちばかりを優先させて、あの人を自分のものにしたんです」
 
 
 だから、と空気のような声で橘課長は続けた。
 
 
「僕が自分勝手すぎるから、いい加減愛想が尽きたのかもしれない」
 
 
 その声は、ぞっとするくらい凍えた響きを持っていた。橘課長の顔色は紙のように白い。眼差しはまっすぐ前へと向けられているのに、何を見ているのかは判らなかった。
 
 私は、自分の残酷さを自覚しながら、こう訊ねた。
 
 
「もし本当に、恋人さんが愛想が尽きたって言ったらどうするんですか…?」
 
 
 私の問い掛けに、橘課長は視線を動かさないまま二三度ゆっくりと瞬いた。そうして、至極自然な声音で答えた。
 
 
「あの人を殺して、僕も死にます」
「ぇ…?」
「冗談ですよ」
 
 
 恐ろしい台詞を吐いた次の瞬間には、冗談だと言って仄かに笑う。橘課長は口元に柔い笑みを浮かべていた。だが、目は笑っていない。光彩が黒く澱んだ眼差しには、どろりと粘着いた執着心が浮かんでいた。その目に、ぞくりと背筋が戦慄く。
 
 

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Published in 再生

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