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01 先生と化物のはじまり

 
 私の家は、代々化け物を飼っている家だった。
 
 離れの倉に化け物を閉じ込めているという話を聞いたのは、祖母からだった。その頃、私はまだ十歳で、三歳年上の兄と二歳年下の妹と並んで客間に座っていたのを覚えている。私を挟んで兄や妹がくすくすと笑ったり小突き合ったりするのを、祖母は静かに窘めながら、酷く重々しい口調でその化け物について語った。
 
 
 化け物はとても醜くおぞましい形をしている。触れた感触は、弾力があるが粘着いている。べとりと濡れた感触がするが、掌は不思議と濡れてはいない。化け物は、生き物であれば犬猫人間関係なく何でも喰ってしまう。実際、不注意から化け物に食べられてしまった者が何人もいる。御前たちの父母も、この化け物に食われてしまった…。恐ろしく危険な化け物だ。
 
 それならば、何故私達がそんな化け物を飼い続けているのか。それは、化け物がどんな病でも喰うことが出来るからだ。末期の癌であろうが伝染病で死に掛けた者であろうが、化け物の前に連れて行けば、立ちどころに健やかになってしまう。我が沼上家は代々この化け物を使役して、何人何百人もの偉人を救ってきた。沼上家が今これほどまでに栄えているのは、この化け物を使う術に長けていたからだ。
 
 刺しても、焼いても、化け物は決して死ぬことはない。だが、痛みは感じるため、化け物を使役する際は必ず徹底的に痛め付けてから命令すること。油断をすればこちらが食われてしまうので、化け物が泣こうが乞おうが同情などする必要はない。お前達もいずれこの沼上家を継ぐことになれば解るだろう。心を持たぬ化け物に必要なのは、痛みでの躾だ。
 
 
 祖母の話は長々と続いた。数時間過ぎた頃から、私は昔話でも聞いているかのような心地になってきた。それほど祖母の話は荒唐無稽で、滑稽さすら感じさせるほど仰々しいものだったからだ。そもそも、私達の父母が死んだのも村人達からは不幸な事故だと聞いていた。
 
 わざと私達を怖がらせるようにオドロオドロしく喋る祖母の声を聞きながら、私は痺れてきた足をもぞもぞと動かした。兄や妹はすでに足を崩しており、妹に至ってはうつらうつらと船を漕いでいる状態だ。
 
 夜も更けた頃、気の強い乳母がもう眠る時間だと私達を呼びに来た。祖母はしかめっ面をしながらも、私達によく眠るようにと言い付けた。祖母は部屋の端に置いた仏壇の前に座ると、むにゃむにゃと聞き取り難い言葉を漏らした。それは念仏というよりも呪詛のように私には聞こえた。
 
 すっかり眠ってしまった妹を抱えて、乳母が廊下を歩く。兄は乳母の横を並んで歩き、私は乳母よりも数歩後ろを歩く。
 
 乳母は、私を酷く嫌っていた。私は陰鬱な子供だった。兄のように快活でもなく、妹のように子供らしい我侭も言えなかった。私は、毎日本を読むばかりで、他人と喋ることも苦手で、笑うことはもっと下手くそだった。
 
 乳母は、時々家族の目のないところで私を痛め付けた。物差しで掌を叩かれ、乳母の分厚い掌で頬をぶたれる。初めはぶたれるのに理由があったが、数ヶ月も経てば理由など必要なくなった。何もしなくても、乳母の機嫌次第で私は当たり前のように打ちのめされる。
 
 兄や妹だけはその事を知っていたが、勿論私を庇うことはなかった。兄はにやにやと笑い、妹は軽蔑の眼差しで私を見る。同じ兄弟で、私だけが潰される虫のような扱いを受ける。私はそれが悲しかったが、上手く言葉にすることは出来なかった。
 
 
 乳母に離れの倉に閉じ込められたのは、それから数ヶ月後のことだ。その日の朝、乳母は酷く機嫌が悪かった。味噌汁を吹き零して私の頬をぶち、飾られていた花瓶を落として私を腹を蹴り跳ばした。その日は親戚の法事で、祖母は家にはいなかった。それ故に、乳母は暴君と化した。
 
 私は散々ぶたれた後、引き摺られるように離れの倉へと連れて行かれた。そうして、突き飛ばされるように倉の中へと押し込められたのだ。
 
 乳母も化け物の話は知っているはずだった。だが、信じてはいなかったのだろう。兄や妹、私だってまともに信じていなかったのだから当たり前だ。
 
 重厚な扉が閉められる瞬間に見えたのは乳母の薄笑いだ。それを最後に、すべての光が遮断された。
 
 
 
 
 
 暗闇だ。まるで目蓋を固く閉じた時のような黒一色の世界が私の眼前に途方もなく広がる。私は暗闇の中心で、じっと膝を抱えてうずくまっていた。
 
 私にとって暗闇は恐怖の対象ではなかった。私は、暗闇が恐ろしくない。それよりもずっと乳母の分厚い掌の方が怖かった。暗闇は私の心をそっと慰めてくれる。日が静かに沈んでいくのを見ると、私のささくれだった心は和らいだ。それは単に日が落ちると乳母が自分の家へと帰るという単純な理由からかもしれなかったが。
 
 全身を浸していく暗闇の中で、私は静かに安堵の溜息を漏らした。途端、乳母に散々張り飛ばされた頬がぢぃんと鈍く痛んだ。小さく呻き声を漏らす。その瞬間、暗闇の奥からひび割れた音が聞こえた。
 
 
『どこか、いたいのぉ?』
 
 
 それは錆びた鉄を紙ヤスリで引っかいたような耳障りな声だった。問い掛けてくる声は『どごが、い゛だい゛の゛ぉ』と濁って聞こえる。私はハッと背筋を凍らせた。化け物の話が本当だとは信じていなかった。だからこそ、暗闇から聞こえる軋んだ声に恐怖が隠せなかった。
 
 私は咄嗟に手探りで大きな葛籠の後ろにうずくまった。両腕で震える膝を抱えて、小さく小さく縮こまる。暗闇から、ふふっ、と笑い声が聞こえた。
 
 
『そんなんでかくれてるつもりぃ? かくれても、おれには、ぜぇんぶ見えてるよぉ』
 
 
 その言葉に戦慄く。ガチガチと震えそうになる奥歯を噛み締めて、私はキツく目を閉じた。暗闇の奥から、ずる、ずる、と何か重たいものを引き摺っているような音が聞こえる。その音が徐々に私へと近付いてくる。全身の血が氷水になったかのように、震えが止まらない。
 
 引き摺る音は、私のすぐ側で止まった。膝頭に埋めた私の顔、その頬にふわりと生ぬるい呼気が吹きかかる。無臭の吐息だ。
 
 
『おまえ、おれを叩きにきたのぉ?』
 
 
 おぞましい声が私に問いかけてくる。目を閉じたまま、私は必死に首を左右に振った。
 
 
『じゃあ、刺したり、燃やしにきたのぉ?』
 
 
 私は、また首を左右に振った。震えすぎて、首が機械のようにしか動かせない。おぞましい声が心底不思議そうに呟く。
 
 
『なんで、ここにきたのぉ?』
「う…乳母に…とっ、閉じこめられて…」
 
 
 掠れた声で必死に答える。口に出した瞬間、酷く惨めな気持ちになって目尻に涙が滲んだ。乳母の仕打ちには慣れていたはずなのに、今更自分が孤独であることを改めて思い知らされたようだった。
 
 おぞましい声は、ふぅん、と子供のように呟いた。まるで値踏みするような声音だ。それと同時に、頬にぬめり気のある何かが触れるのを感じた。油を吸った雑巾で頬を撫で回されるような気色悪い感触に、皮膚にぷつぷつと鳥肌が立つ。
 
 
『これ、そいつに、なぐられたのぉ?』
 
 
 これ、というのは乳母にぶたれて腫れ上がった私の頬のことだろう。こくこくと小刻みに頷く。すると、おぞましい声が拙い声を上げた。
 
 
『いたいのいたいの、とんでいけぇー』
 
 
 幼児が幼児をあやすような、あどけない口調だった。その瞬間、じんじんと熱を膿んでいた頬から痛みが消えた。すぅっと空中へと吸い取られるような感覚だった。
 
 ハッと顔を上げた時には、おぞましい声はずるりずるりと音を立てて暗闇へと消えていた。頬へと掌を当てる。そこからはもう痛みを感じなかった。
 
 
「き、君が、なっ…治してくれたの…?」
 
 
 どもりながら問い掛けると、暗闇から少し躊躇うような声が返ってきた。
 
 
『うん、なおしたぁ』
「どう…どうしてっ…」
『だって、いたいのやだ』
 
 
 子供のような言い分だ。だが、単純な言葉は突き刺さった。私の心に触れる、切なく温かい何かが在った。
 
 そうだ、私は乳母に殴られるのが嫌だった。もう殴らないでくれと、本当は痛いのは嫌だと、ずっと口に出して言いたかった。その当たり前の感情を、単純な一言で不意に気付かされたような気がした。
 
 
「あの…ありがとう…」
 
 
 唇から言葉が零れる。有り難う、と口に出したのは久しぶりのような気がした。暗闇から困惑の気配が伝わってくる。
 
 
『ありがとう、って、なに?』
「え…ありがとうは…感謝してるって事、かな」
『かんしゃ?』
「感謝の意味は…うまく説明できないけど…痛いのを治してくれて、嬉しいって気持ち…」
 
 
 たどたどしく説明する。その内に、微かに頬が熱くなるのを感じた。自分は一体何を真面目に説明しようとしているのだろうか、と自問自答が溢れる。
 
 暗闇はまた、ふぅん、と小さく声を上げた。身じろぎするような音が聞こえる。そうして、長い沈黙の後、酷くか細い声が聞こえた。
 
 
『なまえ、なに。おまえの、なまえ』
 
 
 好きな女の子に名前を聞く児童のような口調だ。その口調に、自分でも思いがけず唇が緩んだ。こんな暗闇で、おぞましい声と対峙しているというのに、自分より小さな子供を相手にしているような気分になってくる。
 
 
「×××だよ。きみは?」
 
 
 再び沈黙が流れる。辛抱強く待ち続けた後、暗闇からぽつりと声が聞こえてきた。
 
 
『ちかてる』
 
 

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Published in 先生と化物のものがたり

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