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02 先生と化物のはじまり

 
 その後、乳母は私を離れの倉へと何度も閉じ込めた。
 
 倉に閉じ込められる度に、私はチカテルと話をしした。暗闇を隔てて、見えない姿へと眼差しを向けて、言葉を交わし合う。チカテルは、私が読んだ書物の話を頻りに聞きたがった。それは冒険物語だったり、科学や植物の図鑑だったりした。
 
 色々な本の話をしている内に、チカテルは私を『先生』と呼ぶようになった。暗闇の奥から、せんせぇ、せんせぇ、と拙く私を呼ぶ声が聞こえる。その度に、私は温かい何かが胸に込み上げるのを感じた。
 
 チカテルが花に興味を持てば、倉の足下部分にある小さな格子から四季折々の花を差し込んだ。タンポポ、アジサイ、キンモクセイ、サクラ――
 
 次に倉に入った時には、チカテルの嬉しげな声が聞こえる。
 
 
『せんせぇ、このお花、きれいだね? なんてなまえ?』
 
 
 最初はおぞましかった声も、今はただ幼く愛らしいばかりだ。チカテルに訊ねられることを、ゆっくりと丁寧に答えてやる。チカテルが嬉しそうに笑う。チカテルと一緒にいる間だけ私は穏やかでいられた。
 
 私が乳母に殴られ怪我をしていても、チカテルが一瞬で治してくれる。だが、怪我を治している間は、必ず目を閉じるように約束をさせられた。
 
 絶対におれの姿を見ないで、とチカテルは懇願した。もし一度でも姿を見たら二度と私には会えない、と言うのだ。
 
 私は、チカテルの姿を見たかった。チカテルがどんな姿であろうと構わないと思っていた。チカテルがどんな姿をしていたとしても、私たちの間にある友情は変わらないと信じていたのだ。だが、チカテルに拒絶されるのが恐ろしくて、私は彼が望むとおりその姿を見ないよう心がけていた。
 
 
 四季が巡り、長い年月が過ぎた。
 
 いつの間にか、私は十七の歳を迎えていた。チカテルと出会ってから七年の歳月が経っても、私は変わらず倉へと通い続けていた。五年前に乳母は屋敷から忽然と姿を消し、二度と私を倉へと閉じ込める事はなくなった。それでも、私は毎晩夜も更けた頃、隠れて倉へと行き、蝋燭の灯りの中、チカテルへと本を朗読していた。
 
 倉の中には、噎せ返るような花の匂いが充満している。私が四季折々に捧げた花を、チカテルはずっと生かし続けているのだ。萎れそうになると、その『萎れ』を吸い取るのだとチカテルは言った。人間から病や怪我を吸い取るのと同じ原理だと言う。
 
 
『せんせぇのくれた花、きれぇ。すき、だいすき。ずうっと、だいじにするねぇ』
 
 
 彼のいたいけな言葉に、胸が締め付けられる。私は長い歳月の間、いつの間にか彼に情愛じみた感情を抱くようになっていた。チカテルは可愛い。この村で一番可愛いと言われる少女よりも、若く美しい未亡人よりも、彼の方がずっと愛らしく愛おしい。
 
 チカテルは恋物語が好きだ。私は彼のために幾つもの恋物語を読んだ。聞き終わると、チカテルはほぅと小さく吐息を吐き出す。その吐息に、私の胸は締め付けられる。その胸の痛みが何なのか、その時の私にはまだ解らなかった。
 
 年の何度か祖母がいつも違う誰かと共に倉へと入るのを見かけた。その晩だけは、チカテルは私が倉に入るのを許してはくれなかった。
 
 次の日に何があったのかと問い掛けると、チカテルは暗闇の奥からこう答えるのだ。
 
 
『なんにもないよぉ。おれ、へいきだよ』
 
 
 そうして、その日はいつもより長い朗読を強請るのだ。私は祖母によってチカテルが何かを強要されている事を知りながらも、それに対して反発する事すら出来なかった。私は、優柔不断な臆病者だった。
 
 
 
***
 
 
 
 不穏さから目を逸らしながらも、私とチカテルの日々は穏やかに流れていく。その日々が終わりを告げたのは、兄が二十歳の誕生日を迎えた晩だった。
 
 夜も更けた頃、祖母が私たち兄妹を呼び出して、厳めしく唇を開いた。
 
 
「長男が二十歳を迎えた日に、お前達に化け物の使役を受け継ぐと決めていた。皆、私が御前達に聞かせた化け物の話は覚えているかい」
 
 
 兄と妹は、顔を見合わせると揃って肩を竦めた。二人は、子供の頃に聞かされた寝物語など覚えていなかったのだろう。だが、私は覚えていた。だからこそ、祖母の次の言葉を聞いた瞬間、背筋が凍り付いた。
 
 
「これから化け物に、誰が次の主人なのかを解らせにいく。三人とも、槍を持ちなさい」
 
 
 部屋の壁に、長い槍が三本立てかけられていた。先端は鋭く尖っており、行灯の光に照らされてギラリと鈍く光っている。兄と妹が目を輝かせて、槍を手に取る。まるで面白い玩具でも手に入ったかのように、その顔には幼児的な残虐性が滲んでいた。
 
 祖母に促されるままに、私も躊躇いつつ手に槍を持った。倉へと向かう間も、私の胸の内ではぐるぐると葛藤が渦巻いていた。嫌な予感がする。
 
 その予感は当たっていた。倉を開くと、まず槍を前に突き出すように指示をされた。化け物の退路を塞ぎ、反撃を防ぐためだと言う。
 
 開かれた扉の前で、祖母が暗闇へと声を張り上げた。
 
 
「化け物! 誰がご主人様か呼びんさい!」
『うるさい、だまれ、くそばばぁ! おまえらなんざ、おれのシュジンじゃない!』
 
 
 暗闇から聞き覚えのある声が返ってくる。初めて聞く、チカテルの激昂の声だ。途端、前に立っていた兄と妹の肩がビクンと跳ねるのが見えた。私の身体は小刻みに震えている。兄や妹とは違う恐怖から。
 
 
「また痛め付けられたいんかっ! 御前を串刺しにしてやる!」
『やってみろ、くそばばぁ! てめぇを、バラバラにして、くってやる!』
 
 
 普段の穏やかさの面影もなく、祖母とチカテルとの暴言の応酬が続く。罵り合いが一通り終わった頃、祖母が兄の背をトンと小さく押した。
 
 
「化け物は倉の奥にいる。槍を突き出したまま進んで、化け物を見つけたら一気に突き刺しなさい。躊躇ったらいけん」
 
 
 祖母の手に押されて、兄が恐る恐る暗闇へと足を踏み出す。重たい沈黙の後、暗闇の奥から『ぎゃっ!』と尖った悲鳴が聞こえてきた。
 
 
「うえぇ、何だこれ最悪、気持ち悪ィ!」
 
 
 まるでミミズでも踏み潰したかのような兄の言葉が聞こえる。直後、ぐぢっ、ぐぢっ、と柔らかいものを突き刺すような気色悪い水音が連続して聞こえた。その音に合わせて、鈍い悲鳴も一緒にあがる。
 
 
「お前達も行きなさい」
 
 
 祖母に促されて先に足を踏み出したのは妹だった。槍を構えた妹の姿が暗闇へと消えていく。すぐさま刺す音が二倍に増えた。
 
 
「あははっ、すごいすごい! これ本物の化け物じゃん!」
「手応えねぇな。蒟蒻でも刺してるみてぇ」
 
 
 妹の愉しそうな笑い声と兄の面倒くさそうな声がチカテルの悲鳴に混じって聞こえる。その不協和音に、血の気がどんどん下がっていく。頭は真っ白で、膝頭が情けなく震えていた。
 
 
「お前も兄さん達と一緒にやりなさい」
 
 
 震える私を見て、祖母が叱りつけるように言い放つ。その瞬間、手から力が抜けた。指先から槍が滑り落ちて、音を立てて床へと転がっていく。
 
 
「できません」
「何を言うとるの」
「できません。できない。チカテルを刺すなんて――嫌だ」
 
 
 凍えた唇が掠れた声を吐き出す。言い終わると同時に、私は暗闇へと走り寄って叫んだ。
 
 
「二人とも、やめてくれ! チカテルに酷いことをしないでくれ!」
 
 
 私の声に呆気に取られたのか、刺す音が止まる。そうして、痛々しい声が聞こえてきた。
 
 
『…せんせぇ、いるの…?』
「チカテル、いるよ。私もここにいる」
『せんせぇ…いたいよぉ……いたいぃ…』
 
 
 哀れな啜り泣きが聞こえる。幼児のような嗚咽の声に、私の目まで潤んでくる。
 
 
「チカテル、すまない。本当にすまない…もう痛いことはしないから…」
『せんせぇ…』
 
 
 もう一歩踏み出そうと片足を浮かせた時だった。不意に、背中を突き飛ばされた。たたらを踏む間もなく、私は床へと倒れていった。だが、床へと触れる直前、何かぐちゃりと粘着いた柔らかい物体に身体を受け止められた。それは泥と肥溜めを練り合わせたような、酷く気色悪い感触だった。反射的に、全身の皮膚が総毛立つ。
 
 身体を反転させて、背後を振り返る。先ほど私が立っていた場所に、酷く冷たい表情をした祖母が立っていた。祖母の左手には灯火、右手にはいつの間にか槍が握られている。
 
 
「哀れなことよ、化け物に心を食われたか」
 
 
 祖母の唇から昔聞いた念仏とも呪詛ともつかない、むにゃむにゃとした言葉が零れる。そうして、次の瞬間、予想だにしていなかった事が起きた。
 
 祖母は右手を振りかぶると、槍の先端を私の腹部中央へと突き刺したのだ。内臓が切り裂かれる痛苦と熱が腹部で弾ける。悲鳴は出ず、代わりのように唇からごぷりと血反吐が溢れ出した。
 
 
『せんせぇ!』
 
 
 チカテルの声が遠く聞こえる。私は祖母を凝視したまま、血に濡れた唇をぱくぱくと上下に動かした。どうして、と唇が動く。
 
 
「お前は昔から愚図だった。兄さんや妹と違って、人の顔色窺うばかりで何も上手くできん。一族の誇りや責任というものを解っとらん。その上、化け物に心奪われるなんて、もう沼上家の人間とは思えん。そんな出来損ないはこの家には要らん」
 
 
 血が繋がっている孫に対するものとは思えないほど、祖母の声音は冷酷だった。私を見下ろす祖母の眼差しの冷たさに、私は自分がこの家から見限られたのだと知った。
 
 
「お前達も、兄弟が可哀想思うなら早く殺してやりなさい」
 
 
 祖母の声に、兄や妹が一瞬の躊躇いもなく槍を振りかぶるのが見えた。兄も妹も、血を垂れ流す私を見て笑っている。私は、結局兄と妹にすら家族と思われていなかったのだ。
 
 だが、その槍は私には突き刺さらなかった。何か赤黒い塊のようなものが私の身体の前へと突き出される。その塊へと二本の槍が突き刺さった。
 
 
『うぎゃッ!』
 
 
 赤ん坊のシャックリのような悲鳴が聞こえる。それと同時に、穴の空いた私の腹部へとまさぐるように赤黒い塊が這い寄ってきた。
 
 
『…せ、せんせ…だいじょぶ…おれ、おれ、なおす、から…』
 
 
 腹部から痛みが吸い上げられる感覚。チカテルに怪我を治してもらう時と同じ感覚だ。痛みが遠のいていくにつれて、虚ろがかっていた視界がはっきりしてくる。その瞬間、祖母が右手に持っていた灯火を高く掲げた。
 
 
「見なさい! お前を食った化け物を!」
 
 
 祖母の声に操られるようにして、私は背後を振り返ってしまった。
 
 その瞬間、私の目に映ったのは――化け物だった。
 
 私の身体は半ば、赤黒い蛞蝓か泥のようなものの中に埋まっていた。泥の塊には何千もの目玉が貼り付いており、その目玉からは透明な涙と血の涙を流れ落ちている。目玉がぎゅるんと動いて、振り返った私の顔を見つめる。その時、泥の塊が悲しげな声を上げた。
 
 
『せんせぇ…』
 
 
 私のたった一人の友人の声が化け物の中から聞こえる。可愛い、愛おしいチカテルの――化け物の声。
 
 その瞬間、私は自分が狂うのが分かった。
 
 長く鋭い絶叫が聞こえる。それは私の叫び声だった。私は目を見開いたまま、言葉にならない悲鳴を叫び続けた。
 
 
『…せんせぇ、せんせぇ…』
 
 
 チカテルの泣き出しそうな声が聞こえる。だが、その呼びかけに答える事は出来なかった。
 
 チカテルの身体の隙間から狙って、兄と妹が私の身体を槍で突き刺してくる。刺された傷は、チカテルが直ぐに治してしまう。私は死ぬことも出来ず、ただ延々と与えられ続ける痛苦と恐怖で、次第に正気を失っていった。
 
 
 いつまで狂宴が続いたのかは判らない。気が付けば陽は登っていた。私の身体を抱き締めて泣く化け物がおり、床は私の血で真っ赤に染まっていた。
 
 倉の扉は、私と化け物を残して、固く閉ざされていた。
 
 

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Published in 先生と化物のものがたり

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