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03 先生と化物のはじまり *R-15

 
 何日経ったのかすら判らない。何日、何ヶ月、何年、一体私はどれぐらい此処に居るのだろう。毎朝朝日が射し込んでいるはずなのに、私の心は暗闇に迷い込んだままだ。
 
 起きている間は、絶えず飢えと渇きが襲ってくる。倉の扉を掻き毟って、私は、水をください、水をください、と惨めな乞食のように繰り返した。だが、扉は開かれることなく、いつも事切れる直前に暗闇から化け物が這いずってくる音が聞こえてくる。化け物は『せんせぇ、しなないで』と泣き出しそうな声で囁いて、死にかけの私から飢えと渇きを吸い取っていく。化け物に生かされる度に、私はまた死ぬような飢餓が繰り返されることを悟って絶望する。
 
 苦しみはそれだけに止まらず、毎晩倉へやって来た兄と妹によって、私は面白半分にいたぶられた。兄と妹は、槍で私と化け物を突き刺し、時には松明の炎で炙った。まるで小虫でもいたぶるような遣り方だった。兄と妹は、私の全身をズタズタに引き裂きながら甲高い哄笑を上げる。化け物は私を守ろうとその醜い身体で抱き締めて、悲しげな声を上げる。
 
 
『だいじょぶ。おれが、ぜんぶ、なおすから。だいじょぶだよ、せんせぇ、だいじょぶだからね…』
 
 
 血塗れの私は朦朧とした意識の中、その泣き出しそうな声を聞く。
 
 いっそ死なせてくれ、と私は懇願した。こんな苦痛にまみれた日々を生きていくことは出来ない。どうか一思いに死なせてくれ、と私は何度も化け物に願った。だが、化け物の返す答えはいつだって同じなのだ。
 
 
『せんせぇ、しんじゃうの、やだ』
 
 
 切なげな化け物の声を聞く度に、私はどうしようもない憎悪に支配される。
 
 
 どうして死なせてくれない、どうして生かそうとする、そんなにも私を苦しめたいのか、永遠に生き地獄を味合わせるつもりか、こんなのは死んだ方がマシだ、死なせてくれ、私を死なせろ!
 
 
 言葉にならない絶叫を上げながら、私は化け物を殴り、蹴り飛ばした。私からどんな酷い仕打ちを受けても、化け物は非難の一つも漏らさなかった。ただ、暗闇の隅でうずくまったまま、ひたすら私の暴力に耐え続けるのだ。
 
 花々の芳醇な香りが漂っていた倉の中は、既に腐った血反吐の臭いしかしない。悪夢の方がずっとマシだと思える日々に、残っていた欠片の正気すらも私は失っていった。化け物が反抗しないのをいいことに、狭い倉の中で私は暴君と化した。起きている間は、延々と化け物を罵倒し、殴打し、精神的にも肉体的にも痛め付けた。
 
 化け物は泣かない。ただ、何百何千もの悲しげな瞳で私を見つめるだけだ。その眼差しに、私は余計に怒り狂う。
 
 
 何だその目は巫山戯るな、お前が私を死なせないから、こんな地獄で生かし続けるから、私は、私はこんな汚らしいクズ野郎になってしまったのではないか、お前のせいで私まで化け物のようになってしまった、お前のせいだ、お前さえいなければ!
 
 
 私の一方的な罵声に、化け物は視線を伏せる。まるで亭主の暴力にひたすら耐える敬虔な妻のような仕草だ。その様子に、ふと最低に残虐な考えが思い浮かんだ。
 
 私は、血で粘着く床を四つん這いに這い寄った。近付いてくる私の姿に、化け物が怯えたように赤黒い肉の体をぶるりと震わせる。
 
 
「なぁ、お前は私を好いているのか」
 
 
 半笑いで訊ねてくる私の声に、化け物は押し黙った。沈黙に苛立って、私は壁を拳で強く叩いた。ドンッと鈍い音と共に、私の拳の骨がパキッと枯れ木のような音を立てて割れるのを感じた。だが、今の私にとっては、それは些末な痛みだった。毎晩刃で内臓を貫かれる激痛に比べれば、骨が折れるのなんて擦り傷のようなものだ。だが、平然とする私に対して、化け物は酷い慌てようだった。
 
 
『せんせ、て、てが…』
「答えないのなら、お前の目の前で全身の骨を折ってやる。舌も噛み切ろうか。私が窒息死するのと、お前が治すのと、どちらが早いか試してみよう」
 
 
 他愛もない私の戯れ言に、化け物の何百何千もの瞳が潤んでいく。その涙に濡れた目を見ても、私の胸はちっとも痛まなかった。逆にどれだけこの化け物を傷付けることが出来るのか愉しみですらあった。
 
 潤んだ瞳を間近で覗き込んで、私は再度訊ねた。
 
 
「私を愛しているのか」
 
 
 化け物の瞳からとうとう涙が溢れ出す。何百何千もの瞳から溢れた涙は、すぐさま床に水たまりを作った。しとしとと秋雨のように降る涙の合間に、化け物が震える声を漏らした。
 
 
『せんせぇ、すき…だいすき…』
 
 
 切ない告白を耳にしても、私の心は微動だにしなかった。嫌悪も歓喜もなく、ただ空虚さばかりが果てしなく広がっていく。私の心は、空っぽだった。
 
 涙をぽろぽろと零す化け物へと手を伸ばす。ぐにゃりと気色悪い感触の表面に触れると、化け物は閉じていた何百何千もの瞳を薄っすらと開いた。その瞳を覗き込んで、私は薄ら寒い笑みを浮かべた。
 
 
「お前、子供は孕めるのか」
 
 
 私は、この世で最も残酷な遊戯を行うつもりだった。触れている化け物の表面がぞぞっと震えるのを感じる。化け物にも恐怖があるのだと思って、酷く可笑しかった。
 
 見開かれた化け物の瞳に、歪んだ自分自身の顔が映っている。それは私の顔ではなかった。私の皮を被った、何か違う化け物の顔だ。
 
 化け物が泥の身体を捩るようにして後ずさる。逃げようとする身体を追って、私も床を這いずる。壁際へと追い詰めると、化け物はイヤイヤするように身体を左右に振った。
 
 
『せんせぇ、やだ』
「孕めるのか孕めないのか、どっちなんだ」
『いや、いやだ、…やだよぅ…』
 
 
 化け物が哀れに啜り泣き始める。その濡れた身体を優しげに撫でさすりながら、私は慰めるように猫なで声で囁いた。
 
 
「お前は私を愛してるんだろう? なら、何を嫌がることがある。私に抱かれたくないのか? 私と交わりたいとは思わないのか? お前のような化け物を抱いてくれる者なんて、未来永劫現れないぞ。ほら、遣り方を教えなさい。お前を抱いてあげよう。私の子供を孕ませてやる」
 
 
 私は、完全に気が狂っていた。その時の私は、とにかく目の前の化け物を壊したくて仕方がなかったのだ。私は壊れたのに、化け物だけ壊れないなんて不公平だ。私が地獄に堕ちるのなら、この化け物も一緒に堕としてやる。
 
 化け物は、ただ泣きじゃくるばかりだ。その身体を、私は何度も殴り付けた。教えろ、教えろ、と叫びながら、私は化け物を徹底的に打ちのめした。
 
 
 何時間それが続いたのかも判らない。気が付けば、私は化け物に圧し掛かっていた。ずたぼろになった化け物が死にそうな涙声で、私へと『遣り方』を教える。私は伝えられる遣り方をそのまま行った。
 
 私がそれを行っている間、化け物は堪え忍ぶように声を殺していた。ただ何百何千もの瞳からは、隠し切れない涙が滲んでいた。それは紛れもなく強姦だった。私は化け物を犯し、遊び半分に自分の種を何度も植え付けた。
 
 いつの間にか、私は化け物に圧し掛かったまま笑っていた。気が狂った鳥のような笑い声が咽喉から迸る。極彩色の恍惚が脳髄の奥で弾けていた。気持ちがいい。堪らなく快い。柔らかくぬめった肉が私を包み込んでいる。
 
 狂ったように笑う私を、化け物が見上げていた。
 
 
『…せんせぇ、なかないで』
 
 
 私は泣いてなんかいない。私はこんなにも愉快に笑っているではないか。そう怒鳴りつけてやりたかった。だが、その時、化け物の赤黒い表面にぽつぽつと滴る雫が見えた。
 
 化け物が私の頬をそっと撫でる。苦しいぐらい、優しい手付きだ。胸が苦しくて、息が出来なくなる。目を閉じると暗闇が見える。それは自分自身の心の闇だった。本当の化け物は、私自身だ。
 
 私は化け物にしがみ付いて、情けなくしゃくり上げた。
 
 
「…たすけて…お願いだから、もう…たすけてくれ…」
 
 
 みっともない命乞いだ。もう耐えられなかった。暗闇にも、苦痛にも、醜悪な自分自身にも。
 
 
『…だいじょぶだよ。おれが、たすけてあげる。せんせぇ、もう、いたいこと、ないからね。なかなくて、いいからね…』
 
 
 化け物が私の背をそっと抱き締めている。柔らかく温かい化け物の身体は、まるで母親の羊水の中のように私に安らぎを与えた。赤子をあやすような柔らかな声を聞きながら、私は久しぶりに安らかな眠りへと落ちていった。
 
 
 
 目が覚めた時には、私は朝日に満ちた部屋にいた。私が横たわっていた布団の脇には、祖母が身体を縮めるようにちょこんと正座している。祖母は口を開くと、重々しい口調で私へとこう告げた。
 
 
「ここであった事は全部忘れなさい。それが約束できるなら、お前を自由にしてあげます」
 
 
 他人行儀な祖母の口調に、もう悲しみの欠片すら抱けなかった。私は痴呆老人のように従順に頷き、翌日には小さな荷物を持って家から出て行った。
 
 去り際に見た倉の扉は、固く閉ざされていた。
 
 

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Published in 先生と化物のものがたり

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