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04 先生と化物のはじまり

 
 倉を出てから暫くの間、廃人のような生活が続いた。
 
 村の外れの一軒家で、私はひとり暮らしていた。週に二三度だけ家政婦が来て、身の回りの世話をしていく。それ以外の日は、私は縁側に座ったまま死んだように宙を見つめていた。
 
 村の者からは、私は『化け物と交わって気が狂った男』と呼ばれて敬遠されていた。家には石が投げ込まれ、窓ガラスは何枚も割れた。一歩でも家の外に出れば、指をさされて嘲笑の的になる。それでも、私の心は死んだようにピクリとも動かないのだ。
 
 お節介の家政婦だけは、そんな私の様子を心配していたのか、いつの日か家政婦が真っ白なキャンバスと共に色とりどりの絵の具を家へと運んできた。
 
 
「こう家に篭もりっぱなしじゃ気分も滅入るばかりでしょう。折角ですから、絵でも描いてみたらどうですか」
 
 
 最初は何の感慨もなかった。言われるがままに筆を手に取って、幼児のようにいい加減に色を塗りたくる。だが、それを何度も繰り返している内に、色は形を持ち始めた。色は風景へと変わり、空へと花へと川へと形作られる。キャンバスへと色をのせる度に、私は自分の空っぽな心が少しずつ色付いていくように感じた。
 
 毎日、起きている間はずっと絵を描いていた。絵を描くこと以外、私には何もすることがなかった。そんな日が数年続いた頃、家政婦が新聞片手に家へと飛び込んできた。
 
 
「坊ちゃんの絵が品評会で金賞を取りましたよ!」
 
 
 そう言われても、品評会など出した覚えがなく、私は首を傾げた。家政婦は、おこがましいとは思ったが内緒で品評会へと絵を提出したこと、私の絵がこれからは高値で売れることを口早に語った。だが、家政婦の言葉は、私の耳には絵空事のように聞こえた。私の絵が売れる。それが一体何だと言うのだろうか。
 
 私は、変わらず絵を描き続けた。家政婦は、時々私の絵を売り、その利益の何割かを自分の懐に入れた。私はそれを黙認した。私にとっては絵を描く行為だけが必要であって、金や絵自体には何の価値もなかった。
 
 
 そうやって月日が経ち、気付けば私は二十歳になる年を迎えていた。暗闇の悪夢は、未だ私の脳裏にこびり付いてはいたが、それでも毎晩のように魘されることはなくなっていた。今はもうあの化け物の姿も、モヤがかったようにしか思い出せない。
 
 二十歳になった私に、家政婦は頻りに縁談を勧めてきた。呼んでもいないのに何人もの村娘がやって来ては、一人でぺちゃくちゃと喋って帰って行く。そんな中、一人の娘が私にこう訊ねてきた。
 
 
「化け物は、どのような姿だったのですか」
 
 
 その質問を聞いた時、私は初めてその娘へと視線を向けた。長い黒髪を一つに結った美しい娘だった。黒々とした瞳は大きく、確かな生命力にキラキラと輝いていた。一目見て、太陽のような女性だと思った。
 
 
「私が化け物を見たと、信じているのですか」
「ええ、信じています」
「何故信じられるのです」
「だって、先生の絵は美しいのに、かすかに悲しいのです。恐ろしい絵は、ほのかな優しさを感じます。先生の絵は、おぞましく、そして悲しくて優しいものを知っている絵です」
 
 
 私は、黒髪の娘が口にする言葉を、目を丸くして聞いた。黒髪の娘は、私を『先生』と呼んだ。あの化け物と同じように。
 
 黒髪の娘は一度視線を伏せると、独り言のような口調でこう呟いた。
 
 
「先生は、化け物に愛されていたんですね」
 
 
 その瞬間、私は目の前の娘と結婚することを決めていた。私の脳裏には、まざまざと未来の情景が思い浮かんだ。
 
 私はこの娘と結婚して、子供をもうけるだろう。家族のために絵を描き、必死に働く。その時々には、きっと困難や障害もあるだろう。だが、きっと明るく笑顔に満ちた家庭が築ける。私は誰にも後ろ指さされることのない、健全で清らかな人生を歩むことが出来る。
 
 この太陽のような娘と一緒なら、暗闇の記憶も、あの悲しい化け物のことも、いつかは忘れられる。
 
 

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Published in 先生と化物のものがたり

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