Skip to content →

05 先生と化物のはじまり

 
 結納から婚礼までは短かった。二月も経たぬ内に、私と娘との婚礼の儀は整った。
 
 金と名誉の力とは凄いものだ。あれほど私を蔑んだ村人達は、私が絵画で大成したとみるや打って変わって擦り寄ってきた。ほうほう素晴らしい絵ですね、これは一枚お幾らですか。金銭でしか物事の善し悪しを量れない、下衆な言葉が婚礼の場で飛び交う。
 
 それでも私は幸福だった。私の隣では、白無垢に身を包んだ黒髪の娘が微笑んでいる。彼女の赤い唇、細くたおやかな指先、私を優しく見つめる瞳、すべてが清涼に澄み切っていた。その時、私の前途は確かに希望の光で満ちていた。
 
 それなのに、式の途中、予想だにしていなかった闖入者がやって来た。部屋の中へとズカズカと土足で踏み込んで来たのは、数年ぶりに見る兄と妹だった。そもそも結婚する事自体を家族の誰にも伝えていなかった私は酷く狼狽し、同時に恐怖した。兄と妹の姿を見た瞬間、暗闇の中で散々いたぶられた事を思い出し、冷汗が玉のように額に滲み出た。
 
 硬直する私を見て、兄と妹はにやにやと意味深に嗤った。数年ぶりに見る兄と妹の顔は、面影は残しつつも酷く醜悪に変貌しているように見えた。目はまるで蝙蝠のように吊り上がり、唇から頬にかけて奇妙な歪みにねじ曲がっている。他人を蔑み、踏み躙ることしかしてこなかった人間の顔だ。
 
 兄が私へと近付いてくる。兄が歩く度に、清潔だった畳が靴の泥によって汚れていく。
 
 
「久しぶりだな。結婚とは目出度いな、こんな美人な嫁まで手に入れてよぉ」
 
 
 兄のねっとりとした視線が私の隣に座る娘へと絡み付く。それでも、私は身動ぎ一つすることが出来なかった。肉体に刻みつけられた恐怖が私の全身をキツく縛り付けていた。
 
 黒髪の娘は、真っ直ぐ兄を見据えていた。眼差しに警戒心を滲ませながら、黒髪の娘が口を開く。
 
 
「申し訳ございませんが、どういったご用でしょうか」
「どういったご用って、随分と冷たい挨拶じゃないか。俺達は、こいつの兄妹だっていうのによぉ」
「旦那様からは、ご家族とは既に縁切りをされていると聞いておりますが」
「そりゃ形式上なもんだろう? 縁を切るって言ったからって、この身体に流れる血までは変えることは出来やしない。化け物遣いの沼上家の血は、こいつも同じだ」
 
 
 化け物という兄の一言に、私はハッと顔を上げた。私の顔を見て、兄がぐにゃりと頬を笑みに歪める。酷く気味の悪い、溶けたお面のような笑顔だった。
 
 
「今日は、祝電代わりにお前に伝言を届けに来てやったんだ」
「そうよ。ほんと感謝して欲しいぐらいだわ」
 
 
 妹が髪を手櫛でときながら、押しつけがましい口調で言う。妹の長い髪の毛が揺れる度に、どうしてだか生臭い血臭のようなものが漂ってくるように感じた。
 
 
「で…伝言…?」
 
 
 どもりながらも鸚鵡返しに呟けば、兄と妹は顔を見合わせて小さく噴き出した。子供の頃から変わっていない、私を小馬鹿にしている時の二人の癖だ。肩を小刻みに揺らして笑った後、勿体ぶるように兄がゆっくりと唇を開いた。
 
 
「アレは随分と健気なもんだよなぁ。三年前も、お前を解放してくれ、お前を自由にしてくれたら、二度と刃向かわない、何百年でも何千年でも一生言う事を聞き続ける、だからお前を倉から出してくれ、って懇願してきたりよぉ」
 
 
 どうやって手懐けたのか教えて貰いたいもんだ。と兄が嘲笑まじりに呟く。その言葉を、私は唖然と聞いた。
 
 そんなことは初めて聞いた。あの化け物が自分の自由と引き替えに、私を倉から解放してくれたなどと、私は今まで知りもしなかった。いや、知ろうとしなかったのだ。化け物の献身について、私はこれまでずっと考える事を避けていた。
 
 
「その上、自分を裏切って一人逃げ出した男が結婚するって聞いて、あの化け物なんて言ったと思う?」
 
 
 薄ら笑いを浮かべる兄を、私は食い入るように見つめた。兄の笑みが深まる。浮かび上がったほうれい線が目を背けたくなるほど醜い。
 
 
「先生ありがとう、幸せになって下さい。ってよ」
 
 
 咄嗟に、呼吸が止まった。唇が半開きのまま、どうして、と声を吐き出さずに震えた。
 
 どうして、こんな時まで恨み言の一つも漏らしてくれないのだろう。何故、私を責めようとしない。その一途なまでの愛情が苦しかった。まだ裏切り者と罵られた方が何倍もマシだ。なぜ、あの化け物は、こんなにも愚かな私のことを許そうとするのだ。
 
 吐き出す息が戦慄いた。膝についた拳がぶるぶると小刻みに震え出す。黒髪の娘が私の様子を心配して、肩へと手を置く。だと言うのに、私はその手を振り払いとすら思っている。彼女の柔らかい掌の感触が化け物に対する裏切りのように思えたからだ。
 
 私は化け物に何一つ与えていない。ただ悪戯に嬲り、辱めただけだ。それなのに、何故そんなにも一途に私を想うのだ。こんな男の幸福をいたいけに願えるのだ。私は化け物の愛情に報えるような男ではないというのに。
 
 胸の奥底から言いようのない感情が次々と沸き出してくる。悲しみとも怒りとも違う、愛おしさとも切なさとも違う、すべてがごちゃまぜになった痛みに近い感情だ。
 
 俯いて震える私の耳元へと、兄がそっと顔を寄せる。そうして、兄はこう私に囁いたのだ。
 
 
「何年か前から倉の中に変な気配が増えたんだ。猫みてぇな、子供みてぇな――お前、まさか化け物を孕ませたのか?」
 
 
 兄の笑い混じりの言葉に、私は目を剥いた。咽喉からヒュッと掠れた呼吸音が漏れる。
 
 
――猫のような、子供のような気配。あの化け物は、赤子を産んだのか。私の赤ん坊を、私の子供を、私の家族を――
 
 
 それを聞いた瞬間、何かが噴き出した。硬い心の殻を破って、熱の塊が魂を突き上げてくる。感情の奔流に耐えきれず、私は両手で顔を覆い、畳の上に額をすり付けるようにして突っ伏した。吐き出す呼吸が浅くなり、背骨が波打つように小刻みに震える。噛み締めた頬の内側から血の味がした。
 
 

backtopnext

Published in 先生と化物のものがたり

Top