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06 先生と化物のはじまり

 
 黒髪の娘が不安げに私の名前を呼ぶ。だが、その声は膜を張ったように何処か遠く聞こえた。先ほどまで確かに愛しかった娘の声がまるで他人のように感じる。
 
 無意識のうちに、唇から幽かな声が漏れ出ていた。
 
 
「あ…あ…」
「どうした、完全に気が狂っちまったか?」
 
 
 兄の嘲りの声は、私の耳には届かなかった。頭の中でファンファーレにも似た音楽が流れている。
 
 私はそっと顔を上げた。私の表情を見た兄がその笑みを一瞬で凍り付かせる。
 
 私は、笑っていた。生まれてこの方、こんなにも心の底から笑みを浮かべたことはない。それほどの歓喜の笑顔だった。
 
 
「兄さん、ありがとう」
 
 
 私の感謝の言葉に、兄が怪訝に頬を引き攣らせる。
 
 
「一体なにが有り難うなんだ」
「ようやく、解ったんだ」
 
 
 夢見心地で私は囁いた。狼狽える兄を放って、私は黒髪の娘へと向き直った。どうしてだか、黒髪の娘は私の笑顔を見て、怯えた表情を浮かべている。私は笑っているのに、何が恐ろしいというのだろう。
 
 私は、正座したまま黒髪の娘へと深々と頭を下げた。
 
 
「すまない、どうかこの婚礼は無かったことにして欲しい」
 
 
 私の突然の言葉に、黒髪の娘が目を見開く。赤い唇が物言いたげに戦慄くのが見えた。
 
 
「…急に何をおっしゃるんですか」
「きみには本当にすまない事をする。申し訳ないと思う。詫びに足るとは思わないが、私の描いた絵も金もすべてきみに譲ろう。だから、私との婚姻は忘れて欲しい」
 
 
 驚愕に満ちた娘の顔を見つめたまま、私ははっきりとした口調で言った。黒髪の娘の瞳に、見る見るうちに涙が溜まっていく。
 
 
「お金などどうでもよいです…。なぜ、突然そんなことをおっしゃられるのか…私が何かいたしましたか。貴方の気に障ることをしましたか…」
「違う。きみには何の落ち度もない」
「では、どうして…こんなにも酷い仕打ちをなさるのですか…」
 
 
 黒髪の娘の瞳からほろほろと涙が零れ落ちる。それでも、私はもう彼女を抱き締めたいとは微塵も思えないのだ。
 
 
「きみは、私は化け物に愛されていた、と言ったね」
「…はい」
「それは間違っていた。それが、ようやく解ったんだ」
 
 
 私は、ゆらりと幽鬼のように立ち上がった。視界の端で、兄と妹が怖じ気づいたように後ずさるのが見える。啜り泣く娘を見下ろして、私はそっと微笑んだ。
 
 
「私も化け物を愛していたんだ」
 
 
 嫌悪と憎悪によって今までずっと心の奥底に押し込めていた感情の答えがようやく目の前にはっきりと現れた気がした。
 
 私は、化け物を愛していた。一途に献身的に、私に愛を注ぐ存在をどうして愛せずにいられるのだろう。あんなにも狂おしく愛おしい存在は、この世界のどこを探してもいないというのに。
 
 黒髪の娘は、呆然とした眼差しで私を見つめている。これから夫になるはずだった男が真の化け物狂いだったのだから、茫然自失になっても仕方がないだろう。哀れな事をすると思う、心から申し訳ないとも。だが、それでも私はこの選択を変えられないのだ。
 
 
「は…ははっ、お前、本当に化け物と契ってたのか。有り得ねぇ、狂ってやがる」
 
 
 兄が空笑いを漏らしながら、私を指さす。妹は兄の背に隠れるようにして、私へと嫌悪の眼差しを向けていた。紋付袴の上着を脱ぎながら、私はそっと唇を開いた。
 
 
「なぁ、兄さんたちは、まだチカテルを痛め付けて遊んでるんだろう」
 
 
 断定のような口調で、私は呟いた。私には予感があった。たとえチカテルが抵抗しまいが、素直に言うことを聞こうが、目の前の兄妹は遊び半分に彼を痛め付けているだろう予感が。
 
 兄と妹は一瞬動揺したように肩を揺らしたが、すぐさま居直ったように鼻を鳴らした。
 
 
「だからどうだって言うんだ。わざわざ躾てやってんだよ、飼ってる動物を躾んのは飼い主の義務だろうが」
 
 
 三文芝居の悪役じみた台詞に、思わず笑いが込み上げる。口元を手の甲で押さえて笑うと、いきり立ったように兄が睨み付けてきた。
 
 
「なに笑ってやがる!」
「動物なのはどっちなんだか。兄さん達なんかよりも、チカテルの方がよっぽど心がある」
 
 
 笑い混じりに呟いた瞬間、顔面を真っ赤に染めた兄が掴み掛かってきた。太い両腕が私へと伸ばされる。その瞬間、手に持っていた紋付袴の上着を兄の顔面へと向かって投げ付けた。
 
 上着が兄の顔面に覆い被さった瞬間、足下の御膳を乗せた台を片手で鷲掴む。斜めになった御膳台から、乗っていた料理がガチャガチャと大きな音を立てて床へと落ちた。それにも構わず、私は握り締めた御膳台を、眼前の兄の頭頂部へと叩き付けた。御膳台がバキッと大きな音を立てて割れるのと同時に、兄が膝から畳へと崩れ落ちる。
 
 静まりかえっていた婚礼の場がざわつき出す。悲鳴を上げる者、やめなさいと諫める者、両手で顔を覆っている者、様々な面相を見せる参列者を眺めてから、私は真っ二つに割れた御膳台を畳へと放り投げた。
 
 頭を抱えて蹲っている兄へと妹が取りすがっている。
 
 
「兄さん、大丈夫!? あぁ、血が出てる…酷いわ、痛いわよね」
 
 
 白々しいまでに心配げな声音に、思わず失笑が漏れた。その笑いが聞こえたのか、妹が私を睨み付けてくる。尖った眼差しを見返したまま、私は緩く首を傾げた。
 
 
「知ってるかい? 槍で刺されるのは、もっとずっと、死ぬほど痛いんだよ」
 
 
 物覚えの悪い子に言い聞かせるように呟くと、妹は憤怒に顔を赤らめた。きっと言葉で幾ら伝えようとも、妹が私やチカテルの痛みを理解する事はないだろう。
 
 兄妹から視線を逸らして、私はゆっくりと歩き出した。ざわめく参列者達へは視線もくれず、縁側から庭へと足袋のまま下りる。私の背へと叫ぶ声が聞こえた。
 
 
「貴方、行かないで!」
 
 
 肩越しに振り返ると、涙で顔を濡らした黒髪の娘が追いすがるように私を見つめていた。涙が流れた頬から白粉が剥げている。だが、私は首を左右に振った。
 
 
「すまない、もう嘘はつけない」
 
 
 私はずっと嘘をつき続けていた。私は目で見えるものに惑わされて、本当に大事なものを見てこなかった。私はチカテルの姿ではなく、その心を見なくてはいけなかったのに、それからずっと目を逸らし続けてきたのだ。人間が化け物を愛したなどという、おぞましい現実を受け入れたくがないために。
 
 だが、それもお終いだ。もう嘘はつけない。
 
 
「チカテルを愛しているんだ」
 
 
 独り言のように呟くと、黒髪の娘の顔が歪んだ。嫉妬と怒りを露わに、黒髪の娘が叫ぶ。
 
 
「化け物なのに…っ!」
「たとえ化け物でも」
 
 
 言葉が途切れて、小さく咽喉が上下した。
 
 チカテルを選べば、平穏な人生の道は閉ざされる。皆から後ろ指をさされる。頭がおかしい人間だと蔑まれる。また、苦痛に満ちた悪夢のような日々が繰り返されるのかもしれない。
 
 
「――それでも、いい」
 
 
 私は黒髪の娘を見つめた。
 
 
「彼がいいんだ」
 
 
 彼女の顔が次第に般若のように歪んでいく。その様を眺めて、呆気なく視線を背けた。
 
 真っ白な足袋をいい加減に脱ぎ捨てて、裸足で走り出す。踏み締めた草土の感触がまっさらの足に心地よかった。
 
 

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Published in 先生と化物のものがたり

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