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07 先生と化物のはじまり

 
 倉へと向かって、私は走り続けた。
 
 風が頬をすべる音が聞こえる。太陽は頭上に輝き、草木は鮮やかな緑色をたたえて揺れていた。花は咲き乱れ、空気は光をはらんで透き通っている。美しく、光に満ちた世界。それなのに、私は一歩進むごとに暗い穴へと駆け下りていくような感覚に陥っていた。
 
 私は光の世界から、暗闇の世界へと駆けていく。愛しい化け物を求めて、どこまでも果てなく転がり落ちていく。その浮遊感にも似た転落が今の私には堪らなく快かった。私が求める場所は、最初から暗闇の果てにあったのだ。理性も常識も関係ない。異常と狂気こそが私の本性だった。
 
 
 何年も帰っていなかった、懐かしい家が見えてくる。家屋には立ち寄らず、私は庭の物置小屋へと近付いた。物置小屋には、薪割りに使う鉈が置かれている。
 
 無造作に鉈を手にとって、私は鎖と南京鍵で厳重に閉ざされた倉へと近付いた。鉈を振り上げた瞬間、倉の足下部分にある小さな格子から小さな声が聞こえた。ごにょごにょと誰かと語り合うような声だ。
 
 
『だれだ』
『だれだろう』
『あいつらのなかまかな』
『しらない顔だ』
『母さまに、ヒドイことしにきたのかな』
『でも、ヤリをもってないよ』
 
 
 幼い声音に、不意に心臓が高鳴るのが判った。見つめると、格子越しに暗闇の奥からこちらを見ている眼球が浮かび上がって見えた。数え切れないほどの眼球がうじゅうじゅと暗闇の中で蠢いている。おぞましい光景だと言うのに、私の胸に溢れたのは紛れもない歓喜だった。
 
 
「初めまして」
 
 
 控えめに声を掛けたつもりだったが、その瞬間、格子越しの気配はさっと引っ込んでしまった。それでも、私は小さな気配へとそっと語り掛けた。
 
 
「私はきみたちのお母さんに酷いことをしに来たんじゃない。謝りに来たんだ。だから、私が中に入るのを許して欲しい」
 
 
 聞こえているかも解らない言葉を漏らしてから、私は鉈を振り下ろした。南京錠と鎖が揺れて、耳障りな金属音が響く。私は鎖が断ち切れるまで何度も何度も鉈を叩き付けた。
 
 何度目になるかも解らない打撃の後、鎖がガチャンと音を立てて切れた。鎖と南京錠を投げ捨てて、倉の中へと足を踏み入れる。
 
 倉の中は、乾いた血のような微かな臭いが漂っていた。暗闇の奥へと足を進めながら、声を上げる。
 
 
「チカテル、私だよ。『先生』だ」
 
 
 空中へと囁くように声を漏らすと、暗闇の奥でぐちゃりと何かが蠢く音が聞こえた。
 
 
『…せんせぇ』
 
 
 数年ぶりに聞く彼の声だ。か細く悲しげな彼の声に、咽喉が小さく震えた。
 
『せんせぇ、どうして、いるの? また、あいつらに、なにかされたの?』
「違うよ。私は、きみに会いに来たんだ」
『おれに?』
「そう、きみに」
 
 
 怪訝そうなチカテルの気配。私はこくりと息を呑むと、唇を開いた。
 
 
「すまない、チカテル許してくれ」
『…ゆるす?』
「きみに酷いことをした。とても酷いことを」
 
 
 足を一歩進めるごとに扉から射し込む光が届かなくなる。暗闇へと爪先が呑み込まれて、自分がどこにいるのかも解らなくなっていく。
 
 
『…おれ、なんにもひどいことないよ。へいきだよ』
 
 
 いたいけな言葉に、眼底がじわりと湿り気を帯びる。鼻をぐずと鳴らすと、暗闇の奥から戸惑うような声が聞こえた。
 
 
『せんせぇ、けっこん、したの?』
「してないよ」
『どうしてぇ?』
 
 
 チカテルの声が近い。だが、どこに彼がいるのか見えない。私はゆっくりと手を伸ばした。暗闇へと手を差し伸べながら、静かに囁く。
 
 
「きみを愛してるからだ」
 
 
 声は反響も残さず、暗闇へと消えた。沈黙が流れた後、掠れた声が聞こえてきた。
 
 
『うそだぁ。おれなんか、すきになるはずない』
「嘘じゃないよ。私は本当にきみを愛している。もし、もしも、きみが許してくれるなら、子供たちの父親にならせて欲しい」
『おれ、おれは、ばけものだ』
「化け物でも、愛しているんだ」
 
 
 繰り返し、掻き口説く。どうしてだろう、チカテルへと愛を告げながら、私の頬の上を涙が流れていた。塩辛い味が舌先に広がる。戦慄く唇を開いて、私は掠れた声を上げた。
 
 
「チカテル、お願いだ…お願いです…。私にきみを愛させてくれ…」
 
 
 情けない哀願だ。彼の純粋な心につけ込むような、卑怯極まりない言葉だと思った。それでも、どれだけ惨めで卑怯でも、私はもう彼なしで生きていく人生など考えられなかった。
 
 躊躇うように、暗闇の奥でチカテルが身じろぐのが解った。だが、伸ばした手に触れる感触はない。
 
 声を上げようと唇を開いた瞬間だった。何かが空を切る音が聞こえた。聞き覚えのある音に、反射的に身体が動く。身体を捩るようにして傾けた瞬間、背後から左肩へと鋭い衝撃が貫いた。
 
 
「ぎッ…アぁッ!」
 
 
 熱が肉を切り裂く痛苦に、咽喉の奥から耐え切れない叫び声が溢れる。無様に床へと転がり、視線を持ち上げると、そこには悪鬼の如き祖母が立っていた。祖母の手には、血に染まった槍が握り締められている。
 
 
「折角、折角逃がしてやったというのに、この恩知らずが」
 
 
 怒りに震える祖母の声に、抱くべき罪悪感はない。
 
 
「…チカテルを、解放してほしい…」
 
 
 痛みを堪えながら訴えると、祖母は皺だらけの顔を憎悪に歪めた。真っ赤な顔は、気が狂った猿のようにも見える。
 
 
「この痴れ者。化け物に自由など与えるわけがなかろうに。その化け物は、未来永劫沼上家の所有物です」
「チカテルは、物じゃない。彼には心がある」
「だから、何だと言うんです。心があったところで、化け物なのに変わりはない」
 
 
 不快げに吐き捨てて、祖母が槍を振り上げる。だが、その刃が振り下ろされる前に、赤黒い肉体が私の身体を覆った。チカテルがまた私を庇おうとしている。
 
 それが見えた瞬間、私は反射的に右手に握り締めた鉈を振り上げていた。祖母が振り下ろした槍を、鉈で一気に弾き飛ばす。だが、振り上げた一撃は武器を弾くだけに止まらず、祖母の胴体を斜めに切り裂いていた。 祖母の右腰から左肩に掛けて、着物がパックリと切り裂かれている。その隙間から、すぐさま血が滲み、滝のように溢れ出した。祖母は、え? と唇を半開きにしたまま、不思議そうな表情を浮かべている。
 
 
「あ、あ…血が、血が…」
 
 
 溢れ出す血潮を止めようと、祖母が自分の身体を両手で押さえる。だが、指先の間からも血は流れ出した。血が、血が、と呻きながら、祖母の身体がうつ伏せに床へと倒れる。暫くすると、呻き声も聞こえなくなった。
 
 
『…しんじゃった?』
「…あぁ、死んでしまったね」
 
 
 正確に言えば、私が殺してしまった。意図的ではなかったとはいえ、私は自分の手で祖母を殺したのだ。だと言うのに、私の心は凪のように静かだった。動揺も悲しみもない。
 
 
『せんせぇ、かなしい?』
「いいや、悲しくない。どうせ、やらなきゃいけなかった。きみを自由にするためには」
『…おれのために、ころしてくれたの?』
「ううん、私のためだよ。私がきみと一緒にいたいから殺したんだ」
 
 
 自己満足だよ、と力なく笑って呟く。チカテルは、ふぅん、と昔と同じような幼い相槌を零した。チカテルが私を見る。何年ぶりかに見る何百何千もの瞳が淡く潤んでいた。
 
 
『…うれしぃ』
 
 
 私は狂っている。うれしいと告げるチカテルが愛おしかった。実の孫が祖母を殺して喜ぶ化け物を、私は心の底から愛していた。
 
 無意識に、唇が笑みに緩む。微笑む私を見て、チカテルが小さく笑い声を上げる。
 
 
「おっ…お前ら、何してやがるッ!」
 
 
 幸福なひとときを邪魔したのは、狼狽を滲ませた兄の声だった。開かれた扉の前に、頭に包帯を巻いた兄が立っている。妹は兄の後ろで小さく震えていた。二人の手には、お決まりのように槍が握り締められている。
 
 
「あぁ、兄さん達、遅かったね。待ってたんだ」
 
 
 笑いながら、私は迎合するように右腕を広げた。その手には、血に塗れた鉈が握られている。
 
 兄は、私の前に倒れた祖母を見ていた。差し込んだ光が床に零れた血にチカチカと反射している。
 
 
「お前が、やったのか」
 
 
 ごくりと唾を呑んで、兄が訊ねてくる。私は何も答えずに、笑みを深めた。私の笑みを見て、妹が金切り声で喚く。
 
 
「この…人殺しっ! おばあさまを…おばあさまを殺すなんて…!」
 
 
 妹の悲痛な叫び声に、耐え切れず私は噴き出した。仰け反るようにして、腹の底から笑う。
 
 
「おかしなことを言うなぁ! 兄さん達は、何回も私を殺したじゃないか! 何度も何度も腹を刺して、愉しそうに笑ってただろ? それなのに、人一人が死んだぐらいでなんだ」
「開き直るつもりか!」
「違うよ。ただ意味が解らないんだ。どうして、二人がそんなに怒ってるのか」
 
 
 ゆっくりと首を真横に傾ける。そんな私の仕草に苛立ったのか、兄が槍を両手で構え直すのが見えた。
 
 
「ふざけるなよテメェ…」
 
 
 兄が倉の中へと足を進めてくる。妹も兄を追うように倉の中へと足を踏み込んだ。その歩みを、私はじっと眺めた。餌が檻の中に自分から入ってきたと思った。
 
 チカテルが私の隣で密やかに嗤いを噛み締める。
 
 
『なかに、はいったぁ』
 
 
 チカテルが囁くのと同時に、兄と妹の背後で倉の扉が勢いよく閉じた。重たい鉄扉が轟音を響かせ、周囲が暗闇に包まれる。倉の外から、子供達の笑い声が聞こえた。
 
 
『あははははは、ぁあははははははっ!』
『はいった! はいったよっ!』
『虫がにひき!』
『めだまをえぐって、うでをちぎって、はらわたを引きさこう!』
『母さま、ほめて!』
『ほめて、ほめてぇ!』
 
 
 二つの幼い声が狭い倉の中にガンガンと反響する。チカテルが『いいこぉ』と囁くと、幼い声がキャッキャッとはしゃぐように笑った。
 
 兄と妹が扉を叩いて、開けろと叫んでいる。動揺と恐怖を滲ませたその声に、既視感を覚える。数年前と私も同じように叫んだ。開けて、開けて下さい。受け容れてしまえば、こんなに居心地の良い場所はないというのに。
 
 チカテルが私の袖口を引いている。
 
 
『せんせぇ、たべていい?』
「ううん、食べちゃダメだ。きみが汚れてしまう」
『じゃあ、からだ、ちぎっていい?』
 
 
 くいくいと袖口を引きながら、チカテルが甘えるように訊ねてくる。その仕草が可愛くて、自然と頬が綻んだ。
 
 
「うん、いいよ」
 
 
 チカテルの身体を撫でながら、そっと囁く。べちゃりと塗れた油雑巾のような感触に鳥肌を立てながらも、胸に愛しさが込み上げた。
 
 倉の中を、ずる、ずる、と這いずる音が聞こえる。その直後、兄妹の絶叫が響き渡った。ぶちっ、ぐぢぃっ、と生肉を引き千切る音が聞こえる。絶叫と血潮が飛び散る音に混じって、あはは、とチカテルの楽しげな笑い声が聞こえて、私まで嬉しくなった。
 
 妹の断末魔が聞こえる。
 
 
「…いだぃ゛、ぃ…なおじて……なお、しでぇ…」
『だぁめ、なおしてあーげないっ』
 
 
 意地悪をする幼児のような口調に、思わず「可愛いなぁ」と独り言が零れた。
 
 

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Published in 先生と化物のものがたり

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