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10 男子高校生と化物の恋バナ

 
 週末の朝一番に、長屋へと大量の花が届いた。白いバンに乗ってやってきたのは、マーヤちゃんによく似た顔をした男性だった。大学生ぐらいに見える男性に、マーヤちゃんのお兄さんですか、と訊ねると、父です、と笑って答えられた。だが、俺が驚いている間にも、マーヤちゃんのお父さんはてきぱきと花をバンから下ろしていく。
 
 この花とこの花は相性が良くないから、隣に植えない方がいい。これは水をあげすぎたら、枯れちゃうから注意して。等と、注意を所々に入れつつ、すべての花を下ろし終わると、最後にこれに大体の説明が書いてあるからね、とA4用紙を渡された。ご丁寧にも写真付きで、花の注意事項が纏められている。
 
 頭を下げてお礼を述べると、マーヤちゃんのお父さんは目を細めて微笑んだ。
 
 
「麻耶にも、ちゃんと友達がいて安心したよ」
 
 
 花しか友達がいないかと思ってた。と笑顔のままサラッと酷いことを漏らすあたり親子だなと思う。俺の後ろから双子が恥ずかしそうに手を振ると、マーヤちゃんのお父さんは手を振り返して帰って行った。
 
 
「じゃあ、植えていくか」
 
 
 大量の花を見渡しながらそう言うと、双子が意気込むようにズボンの裾を捲り上げた。
 
 
 
***
 
 
 
 結局、土曜日を丸一日使い果たしても、花を植え終わることは出来なかった。地面に這い蹲るようにして苗を植えていたせいか、全身が土だらけになっている。茶色く染まったズボンを両手で叩いていると、双子が声をかけてきた。
 
 
「父さま、もし宜しければ今日は泊まっていかれませんか?」
「服も泥だらけですし、絶対に洗濯した方がいいかと思います」
 
 
 言い募る言葉の端々から、泊まっていって欲しい、という気持ちが垣間見えた。それが何とも微笑ましい。
 
 確か今日は母親は夜勤だったはずだ。明日の朝一に帰れば、外泊がバレることもないだろう。だが、一つ不安なことがあった。
 
 
「でも、俺が泊まるって言って、チカさんは怒らないか…?」
 
 
 ここに来ること自体歓迎されていないのに、更に泊まっていくなどと図々しいことを言って嫌われないだろうか。恐る恐る問い掛ける俺に、双子は大きな声で返した。
 
 
「まさか。父さまをそんな泥だらけの格好でお返しした方が怒られます」
「お風呂に入って、サッパリなさって下さい。母さまには、僕らから事情を説明しておきます」
 
 
 ぐいぐいと両手を双子に引っ張られる。されるままに家へと入り、あれよあれよと言う間に洗面所へと押し込まれた。今更帰るというわけにもいかず、のろのろと服を脱ぎ始める。ちゃんと家の掃除をしろと口を酸っぱくして言ったせいか、年期は入っているが洗面所も風呂場も綺麗に磨かれていた。
 
 いつの間に沸かしたのだろうか。風呂場は湯船から立ち上る水蒸気で真っ白に曇っていた。全身を包む蒸気を感じた瞬間、ほっと肩から力が抜けた。全身を洗い流してから、遠慮なく湯船に浸かる。大きく息を吐き出した途端、全身の筋肉に入り込んでいた固い針金のような疲労がとろとろと溶け出ていくのを感じた。
 
 顔に湯をかけて、見知らぬ天井を見上げる。また、ふわりと疑問が沸き上がってくる。どうして、自分はここに居るんだろう。ここで何をしているんだろう。会って間もない双子の家に図々しく入り込んで、泊まろうとしている人間は一体誰なんだ。少なくとも一ヶ月前と同じ自分ではない。
 
 小窓から見える空も、すでに夕焼けから薄闇へと変わってきた。薄く開かれた窓の隙間からかすかにカレーの匂いが漂ってくる。柔らかく、温かい香りだ。物心つく前から母子家庭で、殆ど母親の手料理を食べたことのない俺にとって、カレーの匂いはどこか温かい家族の象徴のようなところがある。
 
 匂いにつられて、腹が小さく音を立てる。風呂から上がると、洗面所に大きめの浴衣が用意されていた。抜け目なく、手際の良い子供たちだ。浴衣を着て出ると、双子の一人がぱたぱたと走ってきた。
 
 
「父さま、ご飯ができていますから」
 
 
 早く早くと手を引っ張られる。和室の座卓に、カレーライスが三皿置かれていた。双子のもう片割れが皿の前にスプーンを置いている。
 
 促されるままに座布団の上に腰を下ろすと、双子がその左右にぴたっと膝を落とした。
 
 
「父さま、いただきます、と言って下さい」
「い、いただきます」
 
 
 双子が真似するように両手を合わせて、いただきます、と元気な声を上げた。どうやら父親の号令が欲しかったようだ。双子がちらと視線を向けるのに促されて、カレーライスを一口頬張る。途端、慣れ親しんだ甘口カレーの味が口に広がった。
 
 
「うまい」
 
 
 双子の顔がパッと華やぐ。俺の言葉を皮切りに、双子もぱくぱくとカレーライスを食べ始めた。
 
 
「チカさんは食べないのか?」
 
 
 スプーンを口に運びながら遠慮がちに訊ねると、双子はこともなげな声で答えた。
 
 
「母さまは食事をしません」
「母さまは、何も食べなくても永遠に生きていけるのです」
 
 
 当然のように答えられたことに、また背筋が波打ちそうになる。やっぱり双子の語る母は化け物じみている。それ以上は聞くのが恐ろしくて、黙り込んだままカレーライスを食べた。
 
 そのまま食事が終わると、座卓を片付けて三枚の布団が敷かれた。川の字に敷かれた布団の真ん中に寝転がったまま、夜遅くまで双子と話をした。双子は小さい身なりをしているのに、俺以上に物事を知っていた。喋り続けているうちに眠気が襲ってきた。うつらうつらしていると、双子が「おやすみなさい」と声を掛けてきた。もごもごと夢うつつに「おやすみ」と声を返す。そのまま、ことりと眠りに落ちた。
 
 
 
***
 
 
 
 啜り泣きの声で目が覚めた。薄く目を開いて、暗闇の中、手探りに携帯を探す。携帯画面に出てきた時刻は、深夜の二時だった。左右を見ると、双子はくぅくぅと寝息をたてながら眠っている。
 
 ぱちぱちと眠気を覚ますために二度ほど瞬きを繰り返す。それでも、しとしとと床板に染み込むような微かな啜り泣きの音は消えない。起き上がって、泣き声の方へと向かって夢遊病者のようにふらふらと歩き出す。
 
 
『うっ、ヴぅ…』
 
 
 泣き声は、やはりチカさんがいる襖の奥から聞こえているようだった。襖の前に片膝を落として、耳を澄ませる。
 
 
『…せんせ…せんせぃ…』
 
 
 先生と呼び縋る声に、ふと双子の言っていたことを思い出した。前の父親の命日が近付いて、チカさんが塞ぎ込んでいるという言葉を。
 
 
『さみしぃ……せんせぇ…なんで……さみしぃよぉ……』
 
 
 寂しいと繰り返す声が切なくて、腹立たしい。胸の奥から熱いような冷たいような、奇妙な衝動が込み上げてくる。
 
 
「…チカさん」
 
 
 襖へと掌を這わせながら、そっと囁く。途端、聞こえていた啜り泣きの声が止まった。
 
 
「……チカさん、俺じゃ駄目ですか…」
 
 
 唇が無意識に動く。自分で言っておきながら、まるでメロドラマのような台詞だと笑いたくなった。だが、ちっとも笑えなかった。魂が勝手にチカさんへと向かって突き進んでいく。それを自分でも止められない。
 
 
「俺なら、あなたの傍にいるから…」
 
 
 浅い呼吸を繰り返す。心は波一つなく穏やかで、ただ一つの答えを導き出していた。俺は、チカさんに惹かれている。顔も知らない、不気味でおぞましい化け物かもしれない人に、心を奪われている。
 
 長い静寂の後、襖の奥からか細い声が聞こえた。
 
 
『……あなたは、じぶんが、なにを言ってるかわかってなぃ……』
「解ってます」
『ちがぅ、わかってない…!』
 
 
 押し殺した叫びが聞こえた。悲痛な声は、涙でわずかに掠れていた。
 
 
『このままじゃ、めちゃくちゃに、なるんだ…!』
 
 
 わぁっと堰を切ったように泣きじゃくる声が響いた。
 
 
「滅茶苦茶って、何がですか」
『せっかくっ! せっかく、ひとに生まれなおしたのに……せっかく、ふつうに、しあわせな人生がおくれるのに……おれなんか、えらんだら……また、めちゃくちゃになっちゃうじゃないかよぉ…』
 
 
 絞り出された声に、胸が刃に突き刺されたかのように痛んだ。唇が硬直したように動かなくなる。
 
 
『せんせぃは、おれをえらんだせいで、ずっと、ずっと、いろんな人から、うとまれつづけた……あたまのおかしぃやつだって、石をなげられて……せんせぇは、人がすきだったのに……。人として、生きて、死にたがってたのに……おれが、せんせぃから、ふつうの人生をうばっちゃった……』
 
 
 後悔に満ちた声に、唇がヒクリと震える。腹の奥で、もやもやと黒煙にも似た何かが膨張しているのを感じた。こいつは一体何を言っているんだと喚き散らしたいような衝動に駆られる。
 
 俺の憤りに気づきもせず、襖の奥の声は寂しく続けた。
 
 
『…でも、あなたは、まだ、まにあぅ……せんせぃ、とおなじ道をえらばなくていぃから……じぶんの人生を、生きて……ふつうの人と、むすばれて…しあわせに……』
 
 
 不意に、プツリと何かが千切れるのを感じた。
 
 
「巫山戯んなよ! テメェ、何様のつもりだよッ!」
 
 
 怒声が迸る。襖の奥からヒッと怯えたような声が聞こえたが、喚くことをやめられなかった。
 
 
「先生、先生って、一体俺を何だと思ってんだよ! そいつの人生と俺がなんか関係あんのかよ! 生まれ変わりって言うけど、俺とそいつは何の関係もない他人なんだよ! 別の、ぜんぜん違う人間なのに、あんたは俺とそいつを重ねて、俺を遠ざけようとして……そのくせ、寂しい寂しいって死んだ人間に縋り付くんだ。巫山戯んな、あんたが好きな男はただの死人じゃないか…」
 
 
 最初は威勢良く怒鳴っていたのに、叫ぶ声は途中から恨み言へと変わっていた。畳へと両手を付いて、額をすり付ける。噛み締めた奥歯が軋んだ音を立てた。歯の隙間から吐き出す息が震える。キツク握り締めた指先が真っ白になっていた。
 
 長い沈黙の後、ほとほとと涙が落ちる音が聞こえた。まるで雨だれのような音だ。
 
 
『……でも……めぐるさんだって…いつか死ぬじゃないかぁ……』
 
 
 しゃくりあげる声と共に、そんな言葉が届いた。
 
 
『…死んだら、おれは、また置いてきぼりだ……えいえんに死ねなぃまま、ずっとずっと、死んだひとを想いつづけて……』
 
 
 ハッと顔を上げた。開かない襖をじっと見据える。
 
 
『…さみしぃ、さみしいよぉ…せんせぇ。……おれも、せんせぇといっしょに、死にたぃ……でも、あのこたちを、置いていけなぃ……ひどい、ひどぃよ…せんせぇ……ひどぃいい……』
 
 
 襖の奥からずるずると何かが這いずる音が聞こえた。ぴちょんぴちょんと涙が何かに当たって弾けている音。
 
 気が付いたら、自分の手が動いていた。襖の取っ手へと伸ばされた掌は、当たり前のように襖を開いていた。大きく開かれた襖の奥は、まるで絵の具で塗り潰されたかのように真っ暗だった。そこだけ一切の光を通さないかのような暗闇。
 
 部屋の真ん中には、純白の布団が敷かれていた。布団の上には、一人の男が仰向けに眠っている。繊細そうな顔立ちをした、白髪の老人だった。その皺だらけの頬は、まるで雨でも降ったかのように濡れている。だが、その胸が動いていないのを見た瞬間、心臓の鼓動が跳ね上がった。
 
 
「…しっ、死体…?」
 
 
 唇が素っ頓狂な声を漏らす。まだ、死んでから数時間も経っていないような、生きていた頃の気配を残した死体だった。本当に死体なのか確かめようと近付いた瞬間、部屋の隅から劈くような声が聞こえた
 
 
『でてけっ! でていけぇええっ!』
 
 
 半狂乱な声が響き渡る。金盥を金たわしで擦ったかのようなキリキリと脳髄を突き刺してくる声音だ。
 
 息を呑んで、顔を上げる。その瞬間、見えた。部屋の暗がりに身を寄せるようにして縮こまっている黒い泥の塊を。ぐじゅぐじゅと蠢きながら、何百何千という目玉から涙を零している化け物の姿を。その何百何千という目玉が、俺をじっと見つめている。泥の塊が悲しげに目を細めて、しゃくりあげるように呟いた。
 
 
『おれを、みなぃで……』
 
 
 化け物から聞こえたのは、チカさんの声だ。俺が恋い焦がれていたはずの――化け物の声――
 
 
「ヴ、ヴわぁあああぁァアぁッッ!!」
 
 
 全身が恐怖に総毛立って、咽喉から絶叫が溢れた。腰が抜けて、畳の上を藻掻くように暴れる。そんな俺の様子を見て、化け物は殊更悲しげな泣き声を上げた。布団の上の死体へと縋り付いて、赤ん坊のように喚き散らす。
 
 
『かえれぇ! もぉ、にどとくるなぁああぁあっ!』
 
 
 拒絶の声に、足をもつれさせながら必死で立ち上がる。そのまま無我夢中で玄関へと向かって駆けた。着ていた浴衣がはだけるのにも、荷物を置きっぱなしなのも気にも止まらなかった。ただ、怖くてたまらなくて、今すぐこの場所から逃げ出したかった。
 
 玄関から飛び出して、訳の分からず暗い道を走り続ける。何十分何時間走り続けただろう。足の裏の痛みで、ようやく正気にかえった。街灯の下で立ち止まって、足の裏を見つめる。石でも踏んだのか、足の裏から血がひたひたと滴り落ちている。
 
 じんじんと痺れるような痛みを感じた瞬間、ふいに悲しみが込み上げてきた。眼球から涙が溢れて、頬を伝っていく。その場にしゃがみ込んで、声を殺して泣き続けた。全身の震えが止まらない。どうして、自分が泣いているのか解らなかった。ただ、胸が押し潰されそうなくらい悲しかった。
 
 
「父さま…」
 
 
 不意に、背後から声が聞こえた。泣きじゃくったまま、肩越しに振り返る。涙でぼやけた視界の先に、双子の片割れがぽつんと途方に暮れたように立っていた。
 
 
「よるくも…」
 
 
 どうしてだか、それがよるくもだと解った。よるくもは、ぽとぽととした足取りで俺に近付いてきた。その両手には、俺が置き去りにしてきた荷物や服が抱えられている。
 
 
「…父さまのお荷物です。置いていかれていたようなので…」
「俺は、もうあの家に行っちゃいけないのか」
 
 
 よるくもの言葉を遮るように問い掛ける。よるくもは一瞬言葉に詰まった後、悲しげに視線を伏せた。その眼差しが俺の問い掛けへの答えだった。
 
 
「おれは、俺はダメだったのか…」
 
 
 声が掠れて、再び滂沱のように涙が溢れてくる。ぼたぼたとコンクリートに落ちる涙の音がやけに大きく聞こえた。
 
 
「父さまは、何も悪くありません…。悪いのは、僕らです。僕らが、父さまを無理矢理母さまに会わせようとしたから…」
「違う、違う……お前たちは何度も言ってたのに……俺に怖がられたらチカさんは傷つくって言ってたのに…俺は怖がって…逃げた……逃げちゃったんだ…」
 
 
 逃げちゃった、と言葉にすると、その重みがズシッと圧し掛かってくる。
 
 逃げたくなんかなかった。ちゃんと全部受け入れたかった。それなのに、いざ目の前にした瞬間、恐怖に耐えきれず逃げ出してしまった。一番最悪な方法で、チカさんを傷つけてしまった。なんてバカ野郎だ。惨めで情けない、臆病者なんだ。
 
 へたり込んでいると、よるくもが静かに靴を差し出してきた。
 
 
「父さま、足を怪我されています。靴を履いて下さい。父さまのお家までお送りします」
 
 
 動くこともできず呆けていると、よるくもは甲斐甲斐しい手つきで俺の足に靴下と靴を履かせた。血を滲ませている箇所には、折り畳んだティッシュを靴下との間に挟み込んだ。
 
 ぼんやりと介助を受けながら、譫言のように呟く。
 
 
「……あの部屋に、あった死体は…」
「前の父さまです。父さまが亡くなってから、母さまは蠅や鼠を一切寄せ付けませんでした。そして、父さまの肉体を分解させるすべての元素を吸い取ったのです。ですから、父さまは亡くなった時の姿のまま、もう何百年も変わらずあの部屋にいます」
 
 
 何百年も死体を保ち続ける執着心にゾッとする。そうやって何百年も寂しいと繰り返しながら、死体と二人きりで過ごすのか。それは、愛というよりも呪いのように思えた。
 
 
「チカさんは…まだ、あの男のことが好きなんだな…」
 
 
 まるで敗北を悟った男のように、弱々しい声が漏れる。その声の情けなさに、また涙が滲んだ。下唇を噛み締めて、ガックリと項垂れる。
 
 
「はい…母さまは、前の父さまのことを心から愛してました…今もずっと」
「何でだよ」
 
 
 無意識に、子供の駄々のような声が溢れ出ていた。泣きじゃくりながら、唇が言葉を吐き出す。
 
 
「何でだよぉ…」
 
 
 なんで、チカさんは死んだ男を愛し続けるのか。なんで、俺を選んではくれないのか。なんで、俺はチカさんから逃げてしまったのか。
 
 自分の心が滅茶苦茶で、何一つとして言葉にならない。ただただ、自分が惨めで堪らなかった。
 
 チカさんが怖い。でも、他の男を想っていると知れば、嫉妬で身を焼かれる。化け物なのに。チカさんは化け物なのに。化け物を愛する覚悟もないくせに。そんな自分が悔しくて情けなくて、苦しい。
 
 子供のように泣きじゃくったまま、家へと向かう道をとぼとぼと歩いた。ただ、そこは本当に帰りたい家ではない。俺が帰りたいと望む家ではなかった。
 
 
 
 
 
 
 自宅へと着くと、よるくもは手早く俺の足の手当を行った。手当が終わると、即座に家から立ち去ろうとする。玄関口で靴を履くよるくもへと慌てて声をかける。
 
 
「よるくも」
「はい」
「チカさんに、あの……怖がってごめんなさい、って伝えてくれないか…」
 
 
 よるくもは振り返ると、少し泣き笑いのような微笑みを浮かべた。
 
 
「はい。母さまには必ずお伝えします」
「それと、庭も中途半端なまんまで帰って悪い…」
「お気になさらないで下さい。あとは僕らできちんと完成させますので」
 
 
 自業自得のくせに、よるくもの言葉にズキンと心臓が痛む。じりじりと痛む心臓を片手で押さえていると、よるくもが深く頭を下げた。
 
 
「“メグルさん”、本当に有り難うございます。貴方は、僕らが会った人間のなかで、一等お優しい方でした。どうかお元気で、ずっとずっと」
 
 
 息を呑んだ。それは最初会ったときのチカさんと同じ言葉だ。無意識に手を伸ばす。だが、その手が掴む前に、よるくもの身体は扉の外へと消えてしまった。バタンと音を立てて閉められた扉を、呆然と見つめる。
 
 全身から力が抜けて、俺はその場にへたり込んだ。涙はもう出てこなかった。
 
 

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Published in 先生と化物のものがたり

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