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先生と化物の話

 
 これは先生と化物の話だ。
 
 町外れの古屋には地下があった。その古屋の一階に住む人は町の人から先生と呼ばれた。職業が先生なわけではなく、その男の風貌がどうにも『先生』としか表現できない、世界を微かに疎んじているような世捨て人じみたものだったからだ。先生は地下に化け物を飼っていると、町では有名だった。先生は地下に住むものをチカテルと呼んだ。
 
 先生は、扉を開いた瞬間に「やぁ、待っていたよ」と軽快な声で言った。目尻に微かに皺を刻んで、笑みまで浮かべている。その言葉に、私は深く首を傾げた。私は今日やってくるなんて予告を先生にした覚えもなければ、そもそも待たれるほど先生と仲睦まじい関係性を築いてもいなかったからだ。
 
 私は、腕にまだ小さな弟を抱えていた。弟は今年で三歳になる。三日前から熱を出して、今もなお下がってはいない。一時間前に体温が四十度を越えた時点で、私たち家族は町医者による治療を諦めて、弟を先生のもとへ連れて行くことを決めた。信仰深い父母は、先生に頼るという現実を受け入れることが出来ず、仕方なくまだ中学生だった私に弟を預けた。父母は泣き出しそうな顔をして、私の耳元に祈るように囁いた。
 
 
「化け物を見てはいけないよ。目がつぶれてしまう。話してもいけない。口を縫われてしまう。一番いけないのは、化け物に同情してしまうことだよ。魂を食われてしまうからね」
 
 
 私は従順に頷きながらも、父母の異常な恐れようを奇妙にも思っていた。私は、先生が地下で化け物を飼っているなんて迷信じみた話を心から信じることは出来なかった。しかも、その化け物は、疫病でも魂でも何でも食うことが出来るなんて、そんなのは都合の良い噂話だ。
 
 だが、私の弟は今この時、その小さな身体を震わせて苦しんでいた。弟の命は途切れかけていた。もう迷信でも噂話でも頼らずにはいられなかった。私は熱の塊を抱いたまま、先生の家へと走った。
 
 
 玄関の前で、不審そうに目を細めた私を見て、先生は誤魔化すように肩を揺らして笑った。
 
 
「チカテルが誰かが来るって教えてくれたんだ」
「チカテル?」
「君たちが会いたがってる子さ」
「その人は弟を治してくれますか?」
 
 
 私は腕に抱いた弟をそっと差し出した。弟はかひゅかひゅと短く掠れた呼吸を漏らしている。先生は弟へとちらりと視線を落とすと、私と弟を家の中へと招いた。キシキシと軋む廊下の先に、不自然に暗く長い階段があった。無言で階段を降りていく先生の背に、私は慌てて声をかけた。
 
 
「先生、“それ”を見たら目が潰れるというのは本当ですか?」
 
 
 私は微かに恐怖を感じ始めていた。本当に化け物が存在するはずがないと思いつつも、大人達の馬鹿げた迷信が私の心を縛り付ける。
 
 焦燥にかられた私の声に、先生が肩越しに振り向く。先生の眉は、困ったようにハの字に下がっていた。
 
 
「ただの噂話さ」
「話したら口が縫われるというのも?」
「馬鹿げてるね。私は何度もチカテルと話した。だが、この通り、口はなめらかに動いてる」
「魂を食われるというのは?」
 
 
 この質問に、先生は唇を閉ざした。少し寂しげに目を曇らせた後、そっと私に両手を差し出した。
 
 
「その子を渡しなさい。怖いのなら、私がチカテルのもとに連れていこう」
「私の弟です」
「なら、黙って着いてきなさい」
 
 
 ぴしゃりと言い放つと、先生はもう振り返らずに階段を降りていった。私はしばらく呆然と立ち尽くした。だが、荒い呼吸に上下する弟の胸を見て、私は腹を括った。
 
 一歩、爪先を階段へと下ろす。その瞬間、咽喉が鳴った。その階段は生温かく、生肉のような踏み応えがあった。まるで寝転がった他人を踏みつけたような感覚だ。柔らかい階段は、一歩下ることにぐにゃぐにゃと生き物のように蠢き、時折ビクンと大きく脈動した。私は、もう泣き出しそうだった。
 
 階段を降り終わると、そこは暗闇だった。部屋がどのぐらいの大きさなのか、どこまで行けば果てがあるのか解らないほどの闇。遠くに仄かな蝋燭の灯りが見える。私は弟をきつく両腕に抱き締めたまま、震える両足を必死で動かした。
 
 蝋燭の傍に、先生が立っていた。先生は私を見据えると、そのまま床を指さした。
 
 
「そこに座って。動いてはいけないよ」
「先生、私たち食われるんですか?」
 
 
 なおも足掻くように問いかける私に、先生は苦笑した。だが、何も答えなかった。先生は暗闇へと視線を滑らすと、「おいで、チカテル」と優しく囁いた。
 
 闇の奥から、ずるりと何かが這い寄る音が聞こえて来る。その緩慢で湿った音は、まるで巨大な蛞蝓が這い摺っている音にも聞こえた。その音は、蝋燭の灯りが丁度届かない位置でピタリと止まった。闇から、小さな子供のようなか細い声が響く。
 
 
『せんせえ』
 
 
 舌っ足らずでたどたどしい口調だが、声にはノイズにも思えるザリザリとした不協和音が微かに混ざっていた。せんせえと呼ぶ声は、ぜんぜえと濁音に聞こえる。
 
 
「こんばんは、チカテル」
『そのこたち、だあれ?』
「町の子だよ。君に食べて欲しいものがあるんだ」
『いや。まちのこ、きらい』
 
 
 闇は拗ねた声をあげた。ぷいっとそっぽを向く気配まで伝わってくる。先生は弱った声を漏らした。
 
 
「そんなこと言うものじゃないよ、チカ」
『まちのやつ、せんせえのことバカにしてる。さげすんでる。やっかいものだって、おもってる。おれ、しってる』
「住まわせて貰っているだけ感謝しないと」
『おれのせかいにきたら、せんせえをそんな目にあわせたりしない。せんせいはそんけいされる。うやまわれる。みんなからだいじにされる』
 
 
 思ったよりも饒舌な闇だった。だが、その声はやはり紙やすり同士を擦りあわせたような不快なものだ。そのくせ生き物のようにねっとりと鼓膜に貼り付いてくる。私はじっと膝頭を見つめたまま、小刻みに震えていた。弟の呼吸音だけが私の正気を支える。
 
 先生はひたりと闇へと足を進めた。蝋燭の灯りが届かない場所へと歩いていくと、数秒後にぴちゃりと濡れた音が響いた。それは酷く淫猥な音だった。
 
 
「私は、チカにだけ大事にされていればいい」
『せんせえ…』
 
 
 二人の間に流れる甘ったるい雰囲気は、まるで恋人同士のようだった。ぐちゃりぐちゃりと、まるで泥をこねあわせるような音が暗闇から隠微に響き渡る。ふふ、ふふふ、と先生とも闇ともつかない笑い声が聞こえてきた。
 
 
「チカ、愛してるよ。誰よりも。君以上に愛しい子はいない」
『おれも、せんせえ、すき。せんせえ、せんせぇ』
 
 
 ぞわりと首筋に一気に鳥肌が立った。人間の男と異形のものとが絡み合う光景が私の目瞼にまざまざと浮かび上がって、私の額からは滝のように冷汗が流れ出していた。何ておぞましい。何て忌々しい。信仰心のない私でも解る。これは神に対する許され難い冒涜行為だ。
 
 くちゃくちゃと水音が混ぜ合わされるような音と二人の淡い笑い声は暫く続いた。それがいつ終わったのかは解らない。俯いたままぎゅっと目を閉じていた私の傍に、生ぬるい気配が寄っていた。耳の穴にふわっと息が吹き込まれる。無臭の呼気だ。
 
 
『おれは、つまさきからたべるのがすき。いたい、いたい、なくやつらを、できるだけながく生かしながら、つまさきからのうみそまで、くちゃくちゃ音たててたべてやるんだ。おまえも、おまえのおとうとも、そうやってたべてやろうか?』
 
 
 私は必死で首を左右に振った。闇はつまらなさそうに溜息を吐くと、私の目瞼にぴたりと触れた。濡れた生肉を乗せたような気味の悪い感触だった。
 
 
『おまえたちにんげんは、いやしくて、へんけんの目でだれかをみないと気がおさまらない。だれかをバカにして、それでけっそくをたもとうとする。ひきょうで、ばかで、くだらないやつらばかりだ。それなのに、せんせえは、ひとがすきなんだ。だから、おれは、ひとがきらい。むかつく。いらつく。だいきらい。おまえのおとうとなんか、たすけたくもない』
「意地悪を言っちゃいけないよ、チカ」
 
 
 笑いを含みながらも窘める先生の声に、闇はぶぅと不貞腐れた声をあげた。
 
 
『おまえのため、じゃない。にんげんのため、じゃない。せんせえのために、たすけてやる。せんせえに、……もっとすきになってほしいから』
 
 
 最後の言葉は、まるで子供の駄々のようにも、祈りようにも聞こえた。酷く心細そうな声だった。目瞼からそっと生肉の感触が離れていく。ぺちゃり、と何かを舐める音が聞こえてきた。私が抱く弟の肌を、何かが舐めしゃぶっていた。その感触に、私は目を開いてしまった。そうして、見てしまったのだ。
 
 肉の色をした泥の塊が私の弟の頭をすっぽりと呑み込んでいた。どくどくと脈打つ血管が浮かび上がった泥の表面に、何百何千もの目玉が生えている。腕も足もなく、それは肉塊をグロテスクに彩り歪めたような異常な生き物だった。それは間違いなく化け物としか称せないものだ。
 
 短く掠れた悲鳴をあげた私を、幾千もの眼球が一斉に凝視する。ぎゅるんと動く眼球の動きに、私は自分の意識が遠のくのを感じた。
 
 闇に呑まれていく視界の中、先生が愛おしそうに化け物に口付けをしているのが見えた。化け物が嬉しそうに、そのくせ照れくさそうに泥の身体を細かく震わせる。細められた幾千もの眼球に滲んでいるのは、先生への純粋な恋慕だ。そうして、先生の二つの目にも同じ色がある。この二人は心の底から愛し合っているんだ。
 
 嗚呼、――気色悪い。
 
 
 
 
 
 目が覚めると、私は縁側近くの部屋に寝かされていた。私の傍らには、熱の下がった弟が小さな寝息を立てている。氷の入った麦茶を私の傍らへと置きながら、先生はちらりと起き上がった私を眺めた。
 
 
「飲むといい」
「要りません」
 
 
 一息に跳ねつけた。眠る弟を腕に抱くと、そのまま礼も言わずに縁側から庭へと降りた。庭には雑草が溢れていて、膝上まで緑に覆われる。土と草の濃密な臭いが鼻孔に溢れて、それすらも不快だった。
 
 
「帰るのかい?」
「もう二度と来ません」
「そうか。さようなら」
 
 
 呆気ない言い方だった。先生は縁側にそっと座り込むと、ひらりと気だるそうに手を振った。私はその仕草を憎々しく見つめた。
 
 私の中には、先生に対する生理的な不快感が芽生えていた。町の人間がこの男を疎み、蔑む理由が今初めて理解できた。あんな化け物と絡み合う、頭の可笑しい男だ。
 
 
「先生は異常です」
「そうかな? そうかもしれないね」
「あんな化け物を、本気で愛してるんですか?」
 
 
 くらりと空気が揺れた気がした。先生は数回ゆっくりゆっくりと瞬くと、あぁ、と空気が漏れただけのような声を零した。
 
 
「あぁ、勿論。愛してるよ」
「気色悪い。異常ですよ」
「それでも愛してるんだから仕方ない。僕も君ぐらいに若い時はそれなりに悩んだけどね。チカテルから離れようかとも考えたよ。化け物だと思いこもうとしたこともある。チカテルを罵って、殴り蹴り飛ばして、蔑もうとした。だが、それでも僕にはチカテルが可愛くて仕方ない。まるで僕しか知らないように一途に懐いてくる子を、好きにならずにはいられなかったんだよ」
 
 
 先生の言葉は、途中からほとんど譫言のようだった。先生はもう私を見てはいなかった。あらぬ宙を眺めて、ぶつぶつと呆けた老人のように呟いている。
 
 
「私はチカテルに魂を食われたんだ。自ら、望んで。だが、愛とはそういうものだろう?」
 
 
 魂を捧げることが愛。そんなことは私には解らなかった。解りたくもなかった。先生の言うこれが愛だと言うのなら、愛は何て薄気味悪いものなのか。
 
 
「弟を助けてくれたことは感謝します。だけど、私は先生が嫌いです。あなたの愛は気色悪い。不愉快です」
「そうか。残念だ」
 
 
 さして残念そうでもなく先生は言った。そうして、足下の白い花のついた雑草を一房千切ると、それを愛おしげに見つめた。それは化け物を見るのと同じ眼差しだった。
 
 
「またおいで」
 
 
 二度と来ないと言ったのに、いけしゃあしゃあとそんな事を言う。私は弟を胸に引き寄せ、先生へと背を向けて駆け出した。
 
 さわさわと草葉が揺れる音が耳にこびり付いて離れない。その音に混ざって、ふふ、と二人の笑い声が小さく聞こえた気がした。
 
 

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Published in 先生と化物のものがたり

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