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先生と化物のおしまい

 
 私のそばで、化物が泣いている。
 
 化物の全身に貼り付いた何百何千という目玉から透明な液体が滴り落ち、畳をじっとりと湿らせる。グロテスクな泥のような化物の身体からは、呻き声とも唸り声ともつかない泣き声が何時間も何日も零れている。私が倒れ、床から起き上がれなくなってから、この化物はずっと泣き続けている。
 
 
『せんせえ、しなないで』
 
 
 無茶を言う。君と違って、私は人間なんだ。せいぜい生きれたとしても百歳ぐらいで、むしろ八十近くまで生きれたことすらこのご時世珍しいんだ。ふふ、と短い笑い声を漏らすと、化物が泥の指を伸ばして私の唇に触れた。生温かい生肉を乗せられたような、気色悪い感触が広がる。唇の表面にぬめり気が広がって、罅割れて乾いた薄皮が微かに潤う。この化物は変なところで甲斐甲斐しい。昔からずっとそうだ。
 
 
『せんせえ、おねがい、いっしょうのおねがいだ。おれのせかいにくるって、ひとこといって。そうしたら、せんせえを、しなせたりしない』
 
 
 ここ数日間は、そればかりを言う。化物のいう俺の世界というものが私にはどんなものなのかは想像できない。だが、そこでは私は人として生きていくことは出来ないだろう。私は人ではなくなり、死ぬこともできなくなる。だが、それではあまりにも人間という生が不憫ではないか。
 
 
『おれのせかいにきて。おれとずっといっしょにいて。おれは、せんせえがいないせかいなんて、たえきれない』
 
 
 随分と可愛いことを言う。この化物は初めて会った時から私に夢中だ。野良犬のように無視しても、奴隷のように虐げても、盲目的に私のことを慕い続けている。一体私の何がこの化物をそれほどまで惹き付けていたのかは解らない。だが、それももうすぐに終わるだろう。
 
 化物の手がぞろぞろと畳の上を動く。蒲団の中へと潜り込むと、私の手をぬるりと掴んだ。その柔らかく湿った感触に、一瞬背筋がぞわりと粟立つ。だが、浮き上がった鳥肌は惰性のように身体の中へと直ぐに呑み込まれる。私は何十年間もこの柔らかい感触に埋没して生きてきたのだ。この感触に嫌悪を感じ、憎悪を覚え、そうして恋情を抱いた。時には情欲も。
 
 
『せんせえ、おいていかないで。おれも、おれたちのこどもも、せんせえがひつようなんだ』
 
 
 化物の横には、そっくり同じ顔をした小さな幼児が二人、膝を揃えて座っている。何十年も前に生まれたのに、この子達はある一定の年齢からまったく成長をしなくなった。人間の顔をしているが、本当は異なる姿を持っていることを私は知っている。時折、子供達は生まれもった本来の姿で楽しげに庭を跳ね回っている。化物は、子供達の真の姿を私に必死で気付かせないようにしている。私が化物との間に、異形の子供を作ったことを自覚させたくないのだろう。馬鹿馬鹿しい。私は、この子達を心から愛しているのに。
 
 
『父さま、お願いです。母さまをひとりぼっちにしないでください』
『父さま、こちらの世界にきてください。誓って悪いところではありません』
 
 
 生真面目な子供達だ。そういうところは私に似たのかもしれない。少し泣き虫なところは化物に似ている。込み上げる愛しさに目を細めると、子供達はハッとしたように息を詰めて、それからぽろぽろと小さな瞳から涙を零した。子供達は、私が決して人間を捨てないことが解ったのだろう。それは私がこのまま死ぬことを意味している。
 
 もうよいよ。本当の姿になりなさい。掠れた声でそっと囁くと、子供達は泣きながら溶けるように人間の姿をぐにゃりと崩した。隣で泣く化物と同じ、それよりも少し小さな泥が二つ、ぐにゃぐにゃと蠢きながら涙を零している。
 
 
『せんせえ、しんじゃだめ。しんじゃだめだよぉ』
 
 
 まるで子供のような駄々を捏ねる。幾百もの病を喰ってきたのに、この化物は定められた死だけは喰うことが出来ないのだ。私の手を祈るように握り締めて、化物は切実な声で訴えかけた。
 
 
『せんせえは、おれがいやだからしぬのか? ばけものといっしょになったことを、後悔してるのか? おれがいやなら、もうせんせえのまえからは消えるから、もうぜったいあらわれないから、だから、おねがい、しなないで』
 
 
 嗚呼、馬鹿なことを。君に教えたい。私が君に会えて、どれだけ苦悩したのか。どれだけ君を憎み、疎んだことか。そうして、どれだけ君を愛したのか。君という愛の海に溺れ、胎児のように穏やかにたゆたった。君に会えて幸福だった。だからこそ、私は今ここで死にたいのだ。君との愛を永遠にするためには、絶対的に死が必要なのだ。でも、それは都合の良い建前だろうか。私はただの卑怯者なのかもしれない。
 
 掌を包む化物の手を、そっと指先で撫でる。涙でぐちゃぐちゃに蕩けた化物が私を見る。何百何千という目で。
 
 チカ、こちらにおいで。咥内で囁くと、化物が私へと顔を寄せる。途端、涙の雨がぽつぽつと私の顔へと降り注いだ。
 
 
 私は、きみの人生の何万分かの一になれただろうか。問い掛けると、化物は目玉をぐにゃりと歪めて、こくこくと何度も頷いた。
 
 
『せんせえは、おれのすべてだ』
 
 
 唇が緩む。何て可愛らしい化物だろうか。一途に、ひたむきに、この化物は私を愛してくれる。そのいたいけさが昔も今も、私の心を揺さぶってやまない。
 
 
 ねぇ、チカテル、きみは私に何らかの罪悪感を感じているのかもしれない。だけど、私は化物なきみが好きだった。君がどんな姿でも、どんな生き物でも、君が君であるというだけで狂おしいぐらい、いとおしかった。親を捨て、兄弟を捨て、恋人を捨てたが、何の後悔もない。結婚式から逃げ出して、君への愛を告げた時、私は私という矮小な生き物から解放されたんだ。私は今ただ幸せなだけだ。君という愛すべき伴侶と、可愛い子供を二人も授かって、不幸せな男がこの世にいるだろうか。きみのすべてが私であるように、私のすべてもきみなんだよ。
 
 
 切々と語ると、化物は悲しげにその目玉を歪めた。長く喋り過ぎたのか、息が詰まって苦しい。ふぅと短く息を零して、ゆっくりと言葉を続ける。
 
 
 だが、許しておくれ。私は人間を捨てられない。どうしても、どうやっても、捨てられないんだ。私を疎み、蔑んだ人間のまま終わりたいと思うんだ。それだけが私の最後の我侭だと思って、どうか聞き遂げておくれ。
 
 
 頑是のいかない子供のように化物が頭を左右に振る。しゃくりあげる声が響く。
 
 
『いやだよ、やだよ、せんせえ。こんな、こんなお別れはいやだ。おれはしねないのに。しねないまま、いっしょう、せんせえのことを想いつづけるんだ。ずっと、えいえんに』
 
 
 そうだよ。だから、私は死にたいんだ。永遠に生きる君の、永遠のひとつに私はなりたいんだ。だが、それは言えなかった。それを教えてしまえば、この化物はもっと泣くんだろう。
 
 
 チカ、キスしてくれないか。そう言うと、化物はそっと目玉だらけの顔を寄せて、私の唇へとキスをした。油で濡れた雑巾のような薄気味悪い感触が唇に広がる。初めは嫌悪感しかなかった口付けも、今ではただ純粋な愛情ばかりが胸を占める。愛しているのだから当然だ。
 
 
 愛してるよ、チカテル。子供達のことを頼むよ。君と私の愛しい子たちだ。私の血が混ざってしまったから、君よりも随分と弱い身体で出来ているかもしれない。どうか見守ってあげて欲しい。
 
 
 私の愛しい家族は、ただぽろぽろと涙を零すばかりだ。何故そんなにも泣くのだろう。私はこんなにも幸福なのに。目蓋の裏には光が溢れ、心は薙いだように穏やかだ。朽ち果てるばかりの枯木のような全身は、愛情で満ち溢れている。
 
 
 春の風が吹き込む。窓へと視線を遣ると、柔らかな木漏れ日がさらさらと差し込んでいた。無意識に口元が綻ぶ。
 
 
 光の中で見るきみはもっと綺麗だ。そう告げると、化物は泣き笑うような声をあげた。
 
 
『せんせえのうそつき』
 
 
 嘘ではないさ。ずっと暗闇で君の姿を追い求めていた頃を思い出す。あの頃は、君への愛で気が狂いそうだった。だけど、今は光の中、こんな穏やかな気持ちで君を見詰めることができる。
 
 化物の頬をそっと撫でる。涙で濡れた頬は湿っている。だが、柔らかく、あたたかい。
 
 
 君の感触。君の心。君の魂。満ちているよ。
 
 
 おやすみ、夕飯の時間になったら起こしてくれ。そう言い、ゆっくりと目を閉じる。化物はもう答えなかった。きっと私がもう目を開かないことを知っているのだろう。
 
 
『せんせえ、だいすき』
 
 
 子供のような声が耳元で淡く聞こえた。涙まじりの、舌ったらずな声。初めて出会った頃から変わらない、君の口癖。私の愛してやまない化物。チカテル。
 
 
 幼子のような甘いときめきが私の胸に広がって、ふわりと溶けて消えた。
 
 

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Published in 先生と化物のものがたり

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