Skip to content →

003 殴り書き

 
 左の鼻腔から粘ついた液体が伝ってきた。確かめるように手の甲で拭い取れば、皮膚の網目に赤い色が広がる。その赤を暫くぼんやりと眺めて、鉄男は「血だ」と譫言のように独りごちた。しかし、殴られ過ぎて青紫色に肥大した頬にはそれすらも言葉に出来ず、「血だ」と呟いたつもりの言葉は「い゛だ」という呻き声にも似た声へと変わっていた。
 
 呆と独りごち、冷えたリノリウムの上に膝立ちしたまま、虚ろな眼球を頭上へと向ければ、ちょうど春が拳を振り下ろしているところだった。
 
 
 頬骨が鈍く鳴る。目の前の光景が加速して、気付いた時にはコメカミが床にへばり付いていた。
 
 口角から唾液が零れる。微かに赤が混じった透明な液体が締りなく床にだらだらと零れていた。切れた下唇の傷に唾液が滲みる。きっと唇は上唇も含めて紫色になっているだろう。  ぼやけた視線を床の上に漂わせながら、暢気にもそんな事を考える。
 
 
 頭上から春の笑い声が聞こえる。鉄男を殴っている時の春はとても嬉しそうな顔をしている。この世の中にこれ以上幸せなことはないといった表情で笑っている。
 
 畜生何がそんなに楽しいんだと悪態を付いてやりたいけれども、内臓という内臓に鉛でも詰められたように身体が重くて、指1本まともに動かせなかった。
 
 
 涙でびちゃびちゃになった瞼が何度か瞬く。目尻に溜まっていた涙がぽつぽつと床に落ちた。
 
 
「……はぁ゛る」
 
 
 痺れて感覚のない唇を無理矢理開かせて、名前を呼ぶ。
 
 
「なぁに、鉄? イタイ?」
 
 
 しゃがみ込んだ春が甘ったるい声で尋ねて来る。今しがたまで男一人を殴り倒した人間とは思えない程の睦言でも囁くような声。
 
 
 それに「イダ、イ゛」と言葉を返せば、一体何が気にいらなかったのか、次の瞬間には口に春の拳を突っ込まれていた。瞬間、唇が引き裂かれるような痛みを感じて、横たわった身体が魚のようにビクンと跳ねる。唇の傷口が強制的に広がり、口の端がミチリと音を立てて、これ以上は無理だという程まで押し広げられる。
 
 嗚呼、口が、顔がビリビリと裂けてしまう。内臓まで春の腕が届いてしまう。
 
 それなのに、春はイタズラでもしているような笑顔で、更に奥へ奥へと拳を突っ込んでいっている。
 
 
 拳一つ無理矢理捻り込もうとしてくる動きに、嘔吐にも似た音が咽喉の奥から零れる。胃液が腹の底から込み上げてくる。他人の拳を口に含んだまま、しゃっくりでもするように酸味のある胃液を吐き出した。ゲ、ゲェ、ゲッ、蛙のような音を漏らして、途切れ途切れに吐き出したら、少しだけ頭が冴えた。
 
 焦点を結びかけた目で春を見上げる。
 
 
「ヴ、ヴぅーー」
 
 
 拳が入った口で、言葉は紡げない。無様な呻き声を上げて、抗議に身体をのた打ち回らせる。そうしていれば、つまらなさそうな顔をした春がようやく口から拳を抜き出した。
 
 
 咳き込むようにして咽喉の奥に残っていた胃液を吐き出し、ようやくまともに息がつけた。胃液が唇の傷に滲みる。見下ろす春が愛しげに目を細めて、唇を緩めた。
 
 
「愛してるよ、鉄男」
 
 
 呟いて、春が唾液と胃液にまみれた手で鉄男の側頭部を撫ぜる。
 
 正直、一体何を言ってるんだと毎回思う。人をボロクズみたいに扱って、レイプみたく犯して、挙句の果てに愛してるだなんて、こいつは頭が可笑しいんじゃないだろうか。
 
 いや、可笑しいんだ。春は頭が可笑しい。狂ってる。
 
 
 鼻をすんと鳴らす。血の味が咽喉の奥に流れて、一瞬苦しくなった。
 
 
「……お゛れも゛」
 
 
 唾液と胃液と血でふやけた唇で、ようやく一言だけ返す。そう言わなけりゃ、今度は失神するまで殴られてしまう。だから、思ってもいない事を口に出す。腹の底で手前なんか欠片も愛しちゃいないと繰り返しながら、髪の毛を梳く春の手にこめかみを擦り付ける。
 
 
「は、る゛、いだい、手当でしで」
「うん、ごめんね」
 
 
 上辺ばかり。ごめんなんてこれっぽっちも思って無い癖に。その証拠に、御前の顔は嬉しそうに歪んでる。自分のせいでボロボロになった俺を見るのが楽しくて仕方ないんだ。
 
 
「すきだよ鉄男、すき」
 
 
 何度繰り返されたって、御前のことなんかすきになってやらない。
 春の舌先が、紫色になった唇を舐めてくる。そのまま、ぬるつく舌を咽喉の奥まで突っ込まれて、腫れ上がった舌を滅茶苦茶に嬲られた。
 春の唾液が流れ込んで来るのが堪らなく不愉快だ。咽喉を鳴らして、それを飲み込む自分も不愉快だ。
 
 
 胃液やら唾液の水溜りに髪の毛を浸して、床の上で縺れるように抱き合う。自分の腕が春の首に回っているのが不思議だった。どうして愛してもいない人間を、自分は抱き締めるんだろう。
 
 
 春の局部が太腿に擦り付けられて、それが勃っているのに気付いて息があがった。ジーンズの中に無理矢理手を突っ込まれて、先端を爪先でぐりぐりと刺激されると、腰が痙攣するようにピクついた。
 
 
 乾いた咽喉の奥で「ひぅ」という何とも頼り無い声が零れて、無意識に春の胸元に額を擦り付ける。
 
 
「はる゛、すぎ、すきぃ、」
 
 
 太腿から足の指までを痙攣させながら、馬鹿みたいに愛の言葉を繰り返す。でも、すきじゃない。絶対にすきじゃない。それなのに口は勝手に動く。
 
 
 自分のこの矛盾の理由がわからない。きっと、ずっとわからないだろうと思う。
 
 
 それでも、こうやって二人抱き合ってる瞬間だけは、時々その矛盾をわかりたいと思ったりするのだ。
 
 

< back ┃ top ┃ next >

Published in 短編

Top