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005 よわいいきもの

 
 出会い頭に噛み付かれた。
 
 
 久々の合コンで、顔合わせした女の子も並の上ってぐらい可愛くて、酒も中途半端に入って脳味噌ぐらぐらで良い気持ちになって、一番上玉って女の子を膝の上に乗せてキャアキャア騒いでるときに、目の前に立ってる男に気が付いた。
 
 
 たぶん制服からして、この居酒屋の店員だと思う。人のこと不躾に見下ろす真っ黒い泥みてぇな目玉がまず目に入って、気付いたときには気味が悪いぐらい真っ白い歯が顔までもう数cmってとこまで近付いてた。次の瞬間には、状況把握もできないままに瞼の裏に極彩色が飛び散るぐらいの痛みが首筋を走った。気持ち的には歯医者のあのギュイーンって奴が首に突き刺された感じ。
 
 
「ギャ!」
 
 
 たぶん、そんな悲鳴を上げたと思う。女の子の目の前で見っとも無い。だけど不可抗力だ。店員の歯は俺の首筋に食い込んでたし、おまけに店員が両肩を掴んで押すもんだから頭ごと身体が背後の壁にガツンとぶつかって目の前がくらくらした。さっきとは違う声音の女の子の悲鳴が脳味噌にキーンと響いた。
 
 
 その時、俺が考えていたことといったら、たぶん小学生でも考え付きそうな他愛もない事ばかりだ。「生ハニバル・レクター!」だとか「俺が死んだら飼ってるメダカはどうなるんだ!」とか「この店員首になっちまうだろうな」とか馬鹿みてぇなこと。人間窮地に陥った時考えるのは、案外に阿呆なことばかりなんだろう。
 
 
 首が痛くて、息が苦しくて、「ああ゛ああ」喚きながら酒でぐでんぐでんになった手足を振り回したら、店員がその手掴んで、俺を引っ張って歩き出した。早足で、足もよれよれな俺はほとんど引き摺られるみたいだったと思う。
 
 
 気付いたら、居酒屋のトイレらしき所で便器の上に縋り付くみたいに倒れてた。安っぽい鍵が掛けられるカチンっていう音が脳味噌の芯にじわりと広がった。
 
 
 店員が背中に覆い被さって、人の耳を柔らかく噛んでくる。ピアスが3つ付けられた部分を執拗に舐められて、耳の穴まで舌を突っ込まれて、そのくすぐったさに咽喉が笑い声ともつかぬ音を立てて震えた。
 
 
「…おれ、食われ、るんれすかー」
 
 
 心臓が弾けそうなくらいバクバク鳴ってるのに反して、緊張感のない声が涎と一緒に出てきた。死ぬかもしれないという危機感が持てないのは、今いち状況が掴めてないせいと、悪酔いに近くなった酩酊のせいかもしれない。
 
 
「―――食べる」
 
 
 短い沈黙の後に返って来た返答に背筋がぞっと粟立った。意思だけが先走るように両足が逃れようと鈍く蠢く。
 
 
「いや、だー。食べられるのは、いやーだー」
 
 
 恐怖に反して、言葉は相変わらず呂律が回っていない間抜けなもので、その時ばかりは自分の阿呆さ加減に死にたいと思った。でも、食べられて死ぬのは御免だと思った。他人の腹ん中納まって、大便になるなんて最低だ。
 
 
 剥き出しの項にねっとりとした粘膜の感触が走って、身体がぶるぶると震えた。店員の舌だと気付いたからだ。延髄を噛み砕かれたら死んじまう!そんな当たり前のことを考えながら、手足は狭い空間の中当て所も無く藻掻いた。便所の壁をカリカリと猫みたいに引っ掻いて、子供みたいに「やだーいやだー」と繰り返す。それでも、項やら首やら耳やら頬やらを這いずる舌は止まらないし、獲物を嬲るような甘噛みも止まらない。
 
 終いには俺は鼻を鳴らして泣き出してた。憐憫を請うみたいにぐずぐず泣きじゃくって「死にたくねー死にたくねぇよおー」とぐずると、耳元で何か囁かれた。
 
 
「殺さない」
 
 
 その言葉だって、何だかロボットみたいに無機質で到底優しいとか言えるものではなかったけれど、酔っ払って混乱して怖くて震えてる俺には効果覿面だった。途端安心して、身体の力を抜いて便器に寄り掛かる。身体の一部を食われるのだって嫌だと言えば嫌に違いないけれど、殺されるよりかはきっとずっとマシなはずだ。
 
 
 そうして安心した途端、一緒に飲んでいた連中はどうしたんだと思い付いた。どうして助けに来ないんだ。俺の膝に乗ってた女の子は、あんな大袈裟な悲鳴まであげていたのに。
 
 
「なん、で、みんな来て、くれないんだー」
 
 
 愚痴るように呟くと、服をずらして左肩を噛んでいた店員がご丁寧にも反応を返してくれた。
 
 
「皆、自分が一番大切だから。もしくはあんたが大切な人じゃないから」
 
 
 返された露骨な言葉にムッとしたものの、少なくとも無視はされないんだと思って安堵した。言葉のキャッチボールができるなら、まだ交渉すれば耳片方だけで解放してくれるかもしれない。そんな馬鹿丸出しな考えが浮かんだ。
 
 
「あー、あー、おれは見捨てられたあー。どおせおれは、さんりゅう大学にニロウしてはいったおとこですよーお。おふくろにも、殴られたバカですようー。だーぁれも、おれのしんぱいなんてしてませんよーう」
 
 
 酔いに浮かれたようにリズムに合わせて愚痴る。どうせ自分の背後にいる店員は他人だ。異常者かもしれない。そんな相手に遠慮なんてしてたまるか。こめかみを舌先で弄っていた店員が緩く身体を起こすのが背中から離れる体温で解った。解った次の瞬間には、後頭部の上から言葉が落ちて来た。
 
 
「俺は、御前がこんなことされてたら、助けに行くよ」
 
 
 聞いた瞬間、馬鹿だと思った。だって“こんなこと”をやってる本人が助けに行くだとか、滑稽にも程がある。だけど、次の瞬間には酒でぼやけていた脳味噌がカッと熱くなった。目尻に涙が浮かんで、その涙を自分で馬鹿だと罵った。指先が軋むくらい便器に抱き付いて、咽喉の奥から溢れ出しそうな何かを必死で噛み殺した。
 
 
 駄目だ。こういうのに弱いんだ。きっと弱すぎる。変に優しくしないでくれ。虚勢や欺瞞と毎日顔突き合わせて、作り笑い浮かべて馬鹿笑ってる俺にはそういう気まぐれな優しさは毒と同じなんだ。苦しくなる。息が詰まって、御前のためなら何でもしてやると叫びたくなる。何でもする、何でもして、だから、もう一度言って、なんて恥も外聞もなく足元に縋り付いてしまいそうになる。
 
 
「あ、あんたが言うのは、変だ。ムジュンしてる。はなせよ。放せ。おれ、帰る」
 
 
 また手足が藻掻く。無意味に壁や便器を引っ掻いて、引っ掻いても店員に押えられた身体はピクリと動かなくて、もどかしくて、歯痒くて、最後には子供みたいに泣き出してた。
 
 
「こんなんいやだ。嫌だあ。ひでぇよひでぇ。人のこと食う気なくせに、んなこと言うなんてひでぇ」
 
 
 鼻声混じりに呻く。いつの間にかTシャツの裾から突っ込まれていた店員の爪先が胸の突起を引っ掻いて、咽喉がひんと泣いた。そのまま店員の指先が突起をこねくり回す。引っ掻いて、指で摘んで転がして、引っ張って押し潰して。男の乳首を弄くって一体何が楽しいかと尋ねたい。それともハニバルな店員は俺の乳首を食うつもりなんだろうか。ロシアの連続殺人鬼だったアンドレイ・チカチロは女の乳首を噛み千切ったが、店員も同じことを俺にするんだろうか。
 
 
 思った瞬間、脳味噌から足先までの血が一気に冷えた。脳味噌が直に冷水をぶちまけられたみたいに冷えて、一瞬クリアになる。悲鳴を上げようと唇が大きく開いたけれども、その口に店員の腕がフルートみたいに咥えさせられる。そうすれば、結局俺の口から出たのは「ヴぅ」とも「ん゛ぅ」とも付かない唸り声だけで、代りのように涙がぼろぼろと際限なく零れた。
 
 
 食われるのは嫌だ。あんな事を言われて食われるのは嫌だ。いっそのこと冷酷無比に何一つの優しさも温かさもなく、犬畜生のように打ち殺された方がマシだ。生ゴミのように棄てられる方が楽なのに、脇腹を撫で擦る掌は温かくて、下顎を舐める舌の動きは女に対する愛撫のようで、その事実に打ちのめされる。頭を遠慮なくフライパンで殴り飛ばされたような衝撃を心臓に感じる。やめてくれ。脳味噌が破裂しそうだ。心臓が弾けてしまう。頼むから、お願いだから、俺を生き難い人間にさせないでくれ。お願いお願い。それ以上、人間というものに触れさせないで。
 
 
 『俺を作り笑いだけで全てが滞りなく済む世界から引き摺り出さないでくれ』
 
 
 店員の腕を噛み締めたまま、馬鹿みたいに泣きじゃくる。このままでは酷い世界に連れて行かれてしまう気がした。嘘も虚勢もない、真実だけしか許さない世界に引き摺り込まれてしまう。そこは膝の上に女の子を乗せて、キャアキャアと笑っていられる世界なわけがない。真正面を向いて、作り笑い一つできず、撃ち抜くような瞳を御互いに交わさなくちゃいけない。それは怖い。完全なる恐怖だ。それが例え真実で、いつか目を覚まさなくちゃいけない現実だとしても、耐えられない。
 
 
 店員の息が耳の穴に吹きかかって、その歯痒さに身を捩らせる。次の瞬間には、店員の手がズボンの中に突っ込まれていて全身がビクリと大きく跳ねた。咽喉の奥から悲鳴にも似た声が零れて、店員の腕の肉に吸い込まれる。温かいというよりも熱い店員の掌が、しな垂れた俺自身を何度か宥めるように撫で擦る。その柔らかな手つきに鼻から抜けるような甘い息が零れた。
 
 
「ん゛、ん」
 
 
 くぐもったあえやかな声が留め様もなく零れ出す。その事実に憤死しそうな程の羞恥を覚えた。下半身に熱が溜まって、腰が震える。僅かに勃ってきた自身に対して羞恥よりも憤怒を覚える。食われちまうかもしれないというのに、何だこの節操無しは、と自分の息子に対して心の中で罵声を浴びせる。それでも、男の生理は正直なもので、何度か竿をすかれれば先端からとろりと液体が溢れ出す感触がした。店員の掌が粘つきを何度か撫でてから、ズボンの中から引き抜かれた。
 
 
 そうやって気を抜いたのもほんの一時で、背後から小さな水音がした瞬間に全身の血の気が引いた。口に咥えさせられた店員の腕を振り払うように慌てて右肩越しに振り返れば、店員が粘つきを絡めた指先を舐めている所で、その光景を見た瞬間、咄嗟のことに記憶は薄れているけれども、俺はたぶん「何してんだよ!」と素っ頓狂な声で叫んだと思う。
 
 
 店員は指先についた生クリームでも舐めてるみたいに透明な粘りを舌先で味わってた。気色悪い。信じられない。正気の沙汰じゃない。この瞬間になって、ようやく俺は店員の異常性というものを初めて認識したと思う。酔いは何処かに押し遣られて、ひたすらこの場から逃げなくてはという危機感に顔面から血の気が引いて、手足が震えた。
 
 
 まず店員を殴るか振り払って、この便所から出て、この居酒屋からも出て…。
 そこまで考えた所で、ねちゃりと指先を舐める店員が呟いた。きっと世界で一番酷い言葉だ。
 
 
「愛しい」
 
 
 息を呑んだ。固く握り締められた拳が戦慄いて、唇が「あ」の形に開いて止まった。気付いたら店員の顔が近付いてて、口ん中に舌が突っ込まれてた。咽喉の奥まで舌先が入り込んで、固まった舌を無理やり絡め取られる。思うが侭に嬲られて、ねぶられて、上顎も奥歯も舌の裏側もぐちゃぐちゃになるまで嘗め尽くされて、唾液が口の端から締まりなくだらだらと垂れた。唾液がねちゃねちゃと粘ついた音を立ててて、気持ち悪い音だと思ったけれど、行為自体は気持ち悪いとは思えなかった。
 
 
 そして何故か酒臭い自分の息を後悔した。こんなくさい息のままキスするなんて最低だ。嫌わないで。嫌わないでお願いだから。呆けたみたいにそんな言葉を脳内で繰り返して、流れ込んで来る店員の唾液を一生懸命飲み込んだ。
 
 
 先ほど店員に感じた気色悪いという気持ちが変わったわけじゃない。その感情は確かに自分の腹の中に在る。ただ怒涛のように押し寄せた他の感情に覆われて見えないだけだ。その感情に名前を付けることができない。「嬉しい」も「悲しい」も全てがごちゃまぜになって「愛おしい」としか繰り返せなかった。自分を「愛しい」と言ってくれた店員が愛おしくて仕方ない。好意とは違う。愛情とも違う。もっと切実で歪な形をしていた。
 
 
 息苦しかったけれども唇が離れるのがとてつもなく悲しくて、離れそうになる唇を必死で追い掛けて噛み付く様にキスをした。平らげるような無我夢中なキスに舌を返してくれる店員が嬉しい。いつの間にか背を便器に預けて、向かい合うようになって腹も胸もくっつけて、ドクドク音を立ててる店員の心臓が嬉しくて、両腕を首筋に回して引き寄せた。
 
 
 口の周りをどちらの物とも判らない唾液でぐちゃぐちゃにして、ようやく唇を離した。息が上がって、咽喉を仰け反らせれば、伸びた咽喉の声帯を下から辿るように店員が舌を滑らせた。
 
 
「愛しい」
 
 
 喉仏を軽く口に含んだまま、店員がもう一度呟く。その行為にも言葉にも、くすぐったさに鼻が鳴って下半身が痺れた。
 
 
「うん」
 
 
 曖昧に相槌を打てば、懐くように頬に側頭部が擦り付けられる。犬のようだと思ったし、母親に甘える赤ん坊のようだとも思った。
 
「愛しい」
 
 
 また呟く。もう殆ど譫言のようだった。夢現にその言葉を聞いて、自分の意思とは関係ない場所で涙がぽろりと零れた。
 
 
「うん」
 
 
 今度は鼻声混じりだけどはっきりと返した。自分と同じくらいの店員の背中を抱き締めて、その肩口に顔をうずめた。
 
 
 こんな優しさやめてくれ。だけど、やめないでくれ。飽きるほど繰り返して、甘えさせて、信じさせて、俺の虚勢を剥ぎ取って。作り笑いのない世界は怖いけど、そんなこと忘れるさせるぐらいに酷くして、優しくして、キスをして、愛しいと噛み付いて。
 
 
 鎖骨に噛み付く店員の頭を撫でて、ようやく気付いた。
 
 
 こいつも怖かったんだ。
 
 

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Published in 短編

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