Skip to content →

012 先生の愛し方

 
 初めは殴打だった。徹底的に打ちのめされた。
 
 
 その男は穏やかな草食動物面をミンチ機にでも突っ込んだようにグチャグチャに歪めて、俺の腹に馬乗りになったまま俺の顔面を叩き潰した。雨のように降って来る拳に、肋骨や内臓を圧迫する膝頭に、時折戯れるように柔らかく、しかし確実に絞め付けられる首に、恥も外聞もなく泣き喚いた。
 
 
 ただ少し揶揄かっただけだった。ウチの危ない家柄のせいか、それとも俺の捻くれた性格のせいか、週ごとに代ってやってくる家庭教師を、いつも通り揶揄かって遊ぼうと思っただけだ。夏休みの初めにやって来たその家庭教師は、いかにもな優男だった。気弱そうな眼差しに、ハの字に垂れ下がった眉毛、どこからどう見ても人畜無害な草食動物だった。それなのに、教科書の代りにエロ本を開いて、「女のセンセーだったら、こっちの勉強させて貰うんだけどさぁ」と嘲り笑った瞬間、男の顔付きが変わった。柔らかな顔立ちが二三度痙攣し、醜悪に引き攣ったかと思った瞬間、後頭部を掴まれて、額を机に打ち付けられていた。頭蓋骨が鈍い音を立てて、脳味噌がぐらりと揺らいだ。意識が酩酊する。それから、椅子を蹴り倒されて、床に叩き付けられた後は、もうまな板の上の鯉だった。
 
 
 とことん甚振られて、顔面どころか舌まで腫れ上がって、「やめて」が「やめひぇ」としか言えなくなった頃に、ようやく男の苛烈な暴力が止んだ。縋り付く様に「たすけひぇ、たすけひぇ」と何度もしゃくり上げると、男は仕方ないなぁとでも言いたげに小さく笑った。
 
 
 男の指が半開きになった口の中にするりと潜り込んで、感覚のない口腔を探る。「あぁ、歯が欠けちゃってるね」そう他人事のように呟いたかと思うと、男の指先が欠けた歯を摘んで、次の瞬間、思いっきり引っ張った。歯の神経がブツリと寸断され、歯茎をグリッと180度に捻られて、歯がギチギチと引き千切られる。歯医者のドリルで、歯やら歯茎やら口内を滅茶苦茶に突き刺されているような鋭痛が爆発する。咽喉からギエェともギャアとも付かない汚い悲鳴を迸らせると、「五月蝿い」と言われて、今度は平手で頬を張られた。
 
 
 全身から這い上がって来る苦痛と口腔の疝痛、それに耐え難いまでの屈辱に、涙と鼻水が滝のように流れる。それなのに、凍える程の恐怖に全身が締め付けられて動かない。
 
 
 男は、血塗れの歯を一度しげしげと眺めたかと思ったら、興味をなくしたように床に放り投げた。男の視線が再び俺のもとに戻ってくる事に、内臓が収縮するような感覚を覚えた。
 それから、男は泣きじゃくる俺の頭を撫でて「先生に逆らっちゃ駄目だよ」と優しく囁いた。その囁きに、全身の細胞が恐怖を訴えて、ざわざわと戦慄いた。無我夢中で「せんひぇ、ごめんなひゃい、ごめんなひゃい」と繰り返すと、男は再び笑った。暴力を欠片も匂わせない、淡く柔らかな微笑みだった。
 
 
 それが、先生との初対面。
 
 
 
 
 
 
 
 
 それからの先生は馬鹿みたいに優しい。
 初めは問題を一問でも間違えば、初対面の時のような暴力が施行されるかとビクビクしていたが、例え全問不正解でも、先生は怒ったりしない。困ったような顔で笑って、馬鹿な俺でも解るように一問ずつ丁寧に説明してくれる。
 先生は優しくて一生懸命だ。俺のためにお手製の教科書まで作ってくれた。小学生の教科書みたいに、絵で解りやすく説明された教科書だ。お世辞にも上手とは言えない先生の絵を見た瞬間、俺は何だか上手くいえない言葉で胸がいっぱいになって泣きそうになった。
 
 
「先生、ありがとう」
 
 
 掠れた声で呟くと、背後で先生が戸惑ったのが分った。もう一つ判ったこと、先生は意外と照れ屋だ。暫くの沈黙の後、俺の言葉に応えるように、先生の細い指が霞める程度に肩に触れた。その不器用さが無性に愛しかった。
 今まで誰かに甘えたことなんてなかった。だって、俺はヤクザの息子だし、そんな重苦しい肩書きを背負った俺が誰かに甘えるなんて許されない。だけど、今目の前にいる怖くて優しくて不器用な先生には甘えずにはいられなかった。
 
 
 だから、思わず言ってしまった。
 
 
「先生、好きです。好きです」
 
 
 肩に置かれた先生の指先が小さく跳ねた。
 
 
「私も好きだよ」
 
 
 平静を振舞った声で先生が応える。だけど、指先を通して先生の困惑が伝わってくる。
 
 
「先生好きです」
 
 
 もう一度繰り返す。強請るように、肩に置かれた掌に頭を摺り寄る。途端、バネのようにパッと先生の掌が退いた。先生は俺の好きの意味を理解して、逃げた。
 
 
「勲夫君は、私にとって生徒だ」
 
 
 余りにも予想通り過ぎる言葉が返って来て、少し失望した。肩越しに仰ぎ見れば、先生がバツの悪そうな顔で俯いているのが見えた。恋人から詰られているような表情だ。一度極めれば、暴力の権化になる先生がそんな平凡な表情をしているのが妙に不満で仕方なかった。
 
 
「俺は先生に恋人になって欲しいなんて言ってない。先生が俺のこと好きになってくれるようにとも願ってない。俺は先生に何の要求もしてない」
「しかし、好きだと言った」
「好きだけど、何もしてくれなくていい」
 
 
 衝動のままいい加減な言葉を吐き散らかす。先生が偽善者の顔をしながら、微かな嘲りに頬を歪ませていた。
 
 
「何もしてくれなくてもいいだなんて嘘だね。好きだと言った時点で、君は何かを期待しているんだ。それが愛情かセックスか私の困惑なのかは私には判断のつけようがないけれども」
「俺は先生から愛して貰えなくてもいいよ。セックスだってしなくてもいい。先生を驚かせて困らせたいわけでもない」
「じゃあ、別の何かを期待しているんでしょう」
「別の、何か?」
 
 
 言葉をオウム返しに反芻して、唇の内側で何度も繰り返す。俺は先生に何かを期待してる。求めてる。懇願している。切望している。手を伸ばして欲しがっている。救いを求める子供のように、飢えた獣のように、卑屈な笑顔を浮かべながら、牙を剥き獰猛に唸りながら、何かを求めている。――俺は先生にどうして欲しい。
 
 
「先生、俺に教えて」
「勉強をですか?」
「先生の愛し方」
 
 
 口に出した瞬間、ぽとり、と涙がノートに落ちた。鉛筆の文字が滲んで、輪郭をぼやけさせる。ぼやけた文字は「人」という字だった。瞬くと、瞼の間から涙が滲み出て、頬を伝った。先生の大きな掌が戸惑いがちに濡れた頬を撫ぜる。
 
 
「先生、撫でるぐらいならキスしてよ」
「出来ません」
「なら、殴って」
 
 
 数秒沈黙が続いた後に、頬に軽い衝撃がきた。初めての殴打には程遠い、じん、と痺れるような、甘い殴打。
 
 
「…痛くないよ」
「痛くできません」
「痛くしてよ」
「できません」
「酷いよ先生。こんなの空しいだけじゃんかぁ…」
 
 
 自分の鼻声が悲しかった。諦めたように首を左右に振る先生が憎らしくて大好きだった。口内で「先生、先生」と繰り返して、きっと俺を一生愛してくれない人の掌にそっと頬を擦り寄せた。
 
 

< back ┃ top ┃ next >

Published in 短編

Top