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016 笑う理由

 
「先生、泣かんでええよ」
 
 
 橋本が床に蹲った私の頭をそっと撫でる。二十歳以上も年下の子供に、まるで子供のような扱いをされるのは酷く恥ずかしいことだったが、その時の私はそこまで構っていられなかった。涙が止め処もなく溢れて来る。咽喉の奥から、嗚咽まみれの声が出てきた。
 
 
「すっ、すまん、なぁ、すまん、はしっ、もと、すまんっ」
「ええんよ、先生。俺のことは気にせんでええ」
 
 
 そう言って、橋本は諦めたように笑った。肩を竦めて、私の背中を元気付けるようにポンと叩く。
 
 
「子供が出来たんなら、そりゃしゃあないわ。俺も引き際ぐらいわかっとるけぇ、先生は安心しんさい」
 
 
 自分本位に橋本を捨てようとする私に大して、橋本は何処までも優しかった。今年で三十八歳になる私よりも、十七歳の橋本の方がよっぽど大人だった。その優しさと諦念に、私の目から更に涙が飛び出す。ぐしゅぐしゅと鼻を啜って、床につかれた橋本の膝頭に額を押し付ける。
 
 
「すま、んっ、すまん、おまえのことっ、こ、こんな風、にっ、蔑ろにするつもりじゃなかった」
「先生、そんなん言わんでええよ。俺、先生が意外と俺のこと好きやったの知っとるけぇ。やけぇ、先生は今泣いとるんやろう?」
 
 
 そうだ、私は橋本が好きだった。初めは生徒に告白されて、酷く戸惑った。塾講師といえども、生徒との恋愛は御法度だし、何よりも私も橋本も男だった。それに、その時私には既に結婚して五年になる妻がいた。だから、最初は邪険に扱った。私を慕う眼差しを跳ね除けた。それでも、橋本は私を好きだと言い続けた。
 
 
『先生が俺を好きになってくれんでええんよ。ただ、俺が好きでいたいだけやけん』
 
 
 こんなオッサンを捕まえて好きも何もないだろう、と私は嗤ったが、橋本は真面目だった。橋本の想いは、無償の愛に近かった。橋本は私に何も求めなかったし、何も期待しなかった。その眼差しにほだされたのは、告白から二年後だった。私は、自分が橋本を好いていると自覚した。だから、好きだと言った。キスをした。身体の関係を持った。だが、妻を裏切ることへの罪悪感がなかったわけではない。私は、橋本を好きだったが、同時に妻を愛してた。自分が最低な男だという自覚はあった。どちらかと別れて、誠実になろうとも思った。だが、私にはどちらとも切り捨てられなかった。そんな不実な日々が一年続いて、昨日、妻が妊娠したと言ってきた。一対二、私は自分が選ばなくてはいけないものを目の前に突き付けられた気がした。
 
 
「ほっ、ほんとうに、すまんっ…わ、わわたしは、最低っ、だ」
「先生は最低やないよ。俺みたいなガキにずっと付き合ってくれとった。俺、先生とおれて、この一年間ずっと幸せだったんよ。心臓がふわふわ浮き上がって、そのままどっかに飛んでいけそうなぐらい嬉しかったんよ」
「で、もっ」
「先生、もうええから」
 
 
 橋本が私の鼻にティッシュを押し付ける。そのまま、大人しく鼻をかむと、よしよしと頭を撫でられた。その仕草に、またぶわっと涙が出てくる。初めての交わりの後、失われた男の矜持と尻に残る痛みに泣き出した私に橋本は同じことをした。
 
 
『先生、ごめんなぁ。俺ようやり方もわからんで、痛かったやろう。でも、ありがとなぁ。俺、めっちゃ嬉しいわぁ』
 
 
 まるで、テストで百点を取った子供のように締りのない顔で嬉しげに笑った。あの時、橋本のことが堪らなく愛しかった。一生傍にいてやりたいと思った。それなのに、今私は橋本を切り捨てようとしている。妻と産まれてくる子供を選んでいる。胸を押し潰すような罪悪感だった。
 
 
「おまえにっ、なにも、してやれなかっ、た」
「先生は俺にいろんなことしてくれたよ」
「おまえっ、に、なにか、してっ、やりたい。何でもっ、してやり、たかった」
 
 
 唐突に、私の頭を撫でる橋本の手が強張る。吃驚するぐらいの無表情になって、薄く開いた唇から凍え付くような声を零した。
 
 
「なら、子供おろせや」
 
 
 ビクッ、と自分の身体が跳ねるのが分かった。橋本は冷めた目で私を見下ろしている。先ほどまでの優しさが嘘のように、その目は冷たい憎悪を燃やしていた。
 
 
「今すぐ奥さんに子供おろせ言うてこいや。先生が言えんのんやったら俺が言うたる。先生は生徒の俺と浮気しとって、そんな浮気男のガキなんざ産んだってしゃあないけん堕ろせって言うたる。奥さんがおろさん言うんなら、俺が奥さんの腹殴って子供流したる」
 
 
 淡々と残酷な言葉を吐き出す。そうして、まるで≪そう≫するのが楽しみで仕方ないとでも言いたげに、唇を笑みに歪めた。その笑みに、私の呼吸は止まる。
 しかし、直ぐに橋本の顔がくしゃりと崩れた。ガチガチに固まった私の手を両手で掴み、縋り付くような声をあげる。
 
 
「先生、俺を選んでや…! 奥さんも子供もいらん言うてや…! 俺のこと捨てんで…」
 
 
 橋本の背が大きく震える。私の肩に額を押し付けた橋本は、声を殺して泣き始めた。小刻みに震える背が、悲しいぐらい痛々しい。その背を撫でようと、手を伸ばす。その瞬間、「触らんでっ!」と橋本が張り裂けそうな叫び声を上げた。
 
 
「俺がどれだけ頼んでも、先生は俺を選ばんのんやろう。奥さんと子供選ぶんやろう。なら、触らんで。俺に優しくせんといて。俺のことなんか、いらん言うて放り投げて。俺に、先生は酷い奴思わせて。あんな最低な奴、すぐに忘れたるって思わせて。やないと――」
 
 
 俺、もう誰も好きになれんやんかぁ。か細い声で囁いて、橋本はしゃくり上げた。咽喉をヒ、ヒッと詰まらして泣く姿は、まるで赤ん坊だ。産まれてくる子供が橋本だったら良かった。そうしたら、いつまでも愛せたのに。残酷な想像を思い浮かべて、小さく吐息を吐き出す。
 
 
「私は、妻を愛してる」
 
 
 橋本の肩が跳ねる。惨い言葉を吐いている自覚はあった。
 
 
「産まれてくる子供も愛している」
 
 
 橋本がそっと頷く。
 
 
「すまん」
「もうええよ、先生。もう言わんで…」
 
 
 はよどっか行って…。切なく吐き出された声に促されて、立ち上がる。立ち上がった瞬間、心臓が真っ二つに裂かれるような痛みを感じた。溢れそうになる涙を必死で堪える。泣いてはいけない。泣く権利はない。私は、傷付けた側の人間なのだから。泣く権利があるのは、橋本と私の妻、そして新しく生まれてくる子供だけだ。心ではそう分っていても、涙腺が勝手に緩んで、鼻がぐずっと鳴る。自業自得で、酷いことをしたのは自分の方なのに、悲しくて悲しくて、涙が止まらない。
 
 
「――先生」
 
 
 背後から声がかかった。目尻を赤く染めた橋本が、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった私の顔を見て、ニッと笑み浮かべる。
 
 
「先生、泣かんでええよ」
 
 
 必死で笑顔を作ろうとしている橋本が切ない。唇は笑っているのに、情けなく下がった眉尻が悲しい。駆け寄って抱き締めたくなる心を抑えて、私も笑顔を作った。橋本とそっくりの今にも泣き出しそうな笑顔。その笑顔のまま、家に帰ろうと思った。妻に尋ねられたら、「大事なものを失くした」と答えよう。大事に思っていたのは、嘘じゃないから。
 
 

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Published in 短編

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