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022 螺旋の腕(上)

 
 児童心理学の講義をぼんやりと聞いている時、見知らぬ男が隣に座った。周りの席がガラガラにも関わらず座る様子に、これはアレ目当てだなと予想をつける。野球帽を目深に被った、その男は小さく折り畳んだ福沢諭吉を指の間に挟んで、机の下から俺へと差し出して来た。指先を擦り合わせながら札を受け取aる。
 
 その際見えたものに、僕は少しだけ目を見張った。男の肘から手首にかけて、明らかにリストカットであろう深浅な痕が刻まれていたからだ。だが、普通のリストカット痕のような横一直線な傷とは違い、男の傷は腕を何十にも廻っていた。まるで、ぐるぐると螺旋でも描いているかのようだ。皮膚の下にまるで長いミミズでも飼っているかのような歪な隆起を凝視していると、男が焦れたように膝頭を太腿にぶつけてきた。鈍い衝撃が伝わって来る。
 
 
「おまえ、アレ売ってんだろ? 早くくれよ」
 
 
 舌が乾いているのか、酷く滑舌の悪い声だった。ちらりと帽子の下の眼球を見遣ると、白目の部分が赤く充血していた。これはヤバイ、そうとうキてる。鞄を漁って、小さなジップロックに入れたものを取り出す。中には数枚の半透明の四角い紙が入っている。男は急いた手付きでそれを奪い取ると、掌の中にぎゅっと握り締めた。
 
 
「ありがと。そんじゃ」
 
 
 短い言葉を漏らして、男が立ち上がる。まるで小便に行きたくてたまらない小学生のようだ。事は小便よりも、よっぽど急いているのかもしれないが。
 
 去ろうとする男の手首を、慌てて掴む。ざらりとした皮膚の感触が指先を舐めて、首筋の産毛が逆立つ。男は何処か不機嫌そうな顔で僕を見遣ると、素っ気ない声で言った。
 
 
「金払っただろ?」
「ねぇ、この腕どうしたの?」
 
 
 小声で問い掛けると、男の手首が小さく戦慄いた。まるで皮膚の内側から溢れ出るような震えに、僕はちょっとうっとりする。男は苦虫でも噛み潰したかのような表情で、僕を睨み付けた。
 
 
「関係ねぇじゃん」
「気になるんだもの。教えてくれたら、お金返してあげてもいいよ」
 
 
 指先に挟んだ札をひらひらと男の眼前で見せびらかすと、男の眼球に色鮮やかな怒りが浮かび上がった。血走った目が更に赤く染まる。兎の目と称するには、おぞましく生々しい色を持っていた。たぶんもう一押しすれば、男は僕を殴り倒す。もしかしたら、勢い余って殺してしまうかもしれない。それを想像すると、腹の底からぞくぞくと込み上げて来るものがあった。それは性的興奮に近い。
 
 
「金なんかいらねぇよ」
「じゃあ、教えてくれないなら今度から売ったげない」
 
 
 まるで子供の駄々のような事を言ってみる。すると、男が肩を大きくいからせて、怒声を上げようと口を開いた。その瞬間、後方のスピーカーから雑音混じりの声が届いた。
 
 
「そこの二人、喋るなら外に出なさい」
 
 
 ホワイトボードの前で、老年の教授が僕らをじっとりと睨んでいた。今どき白髭なんか時代遅れにも程があるよ先生。だから、あんたの講義を受ける生徒が少ないんじゃない? そんな嫌味を頭の中で漏らしながら、はぁい、と間延びした声を上げて、鞄を肩に引っ掛ける。男の手首を掴んだまま引っ張って歩けば、背後から男が不服そうに唸り声を漏らすのが聞こえた。だけど、大人しく付いて来る辺り、そこそこ素直な奴なんじゃかと思えた。廊下に出る直前、教授の平坦な声が聞こえて来た。
 
 
「児童虐待は、子供の心に根深い傷を残します。そうして、虐待されていた子供が親になった時、親と同じように子供を虐待してしまう。こうして負のスパイラルが続くのです」
 
 
 そういえば、スパイラルの意味は『螺旋』だったと思いながら、男の傷を指先でなぞった。
 
 

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Published in 短編

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