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029 炊飯器の隕石とナイフ

 
 たぶん俺の記憶が確かなら、もう二度としない、と聞いたのはこれで五回目だ。
 仏の顔も三度までというが、俺の顔は五度が限界だったようだ。
 
 
「ごめんなさい! もう二度と絶対死んでも女の子に手ぇ出さないから!」
 
 
 女物のピアスを指先にぶらさげた俺の足元に膝をついて両手を合わせているのは、俺の幼馴染み兼恋人の夏樹だ。猫みたいに大きい目玉と甘えたなアヒル口が可愛くて、馬鹿みたいに飽き性なところもそこそこ好きだった。だった、ってもう完全に過去形だし。それに気づいて、自分自身で失笑した。自分で思っているよりも、俺の決意は固いみたいだ。
 
 微かに笑う俺の表情に、夏樹は一瞬安堵したように頬を緩めた。バァカ、許したわけじゃねぇよ。
 
 
「何でお前みたいな奴と付き合ったんだろうな」
 
 
 独り言みたいに溢した一言に夏樹の顔色がすっと悪くなった。今更青ざめたって遅いっつうの。女に突っ込む前に、この結末ぐらい予想しとけよ。
 
 
「じゃあ、お疲れさん」
「…それ、どういう意味?」
「聞かなくても解るだろうが。今日中に出てけ。炊飯器は俺が貰うけど、あとは好きなもん持ってっていいから」
 
 
 人間一回決意したら、これほど判断が早くなるんだな。今まで二十年間、だらだらとこんなお荷物背負ってきたのが馬鹿みたいだ。夏樹は言葉を失ったように唇を半開きにしたまま呆然としている。その途方にくれた表情にもう同情すら覚えない。悲しみなんて、五回の浮気で一気に吹き飛んでしまった。
 
 
「あと、これは持って行けよ。胸糞悪ィから」
 
 
 指先に摘まんでいたピアスを夏樹の膝元へと投げる。ピアスが落ちるカチャンという無機質な音に、あぁ呆気ないな、なんて思う。二十年以上に渡るうざったい腐れ縁も、くだらない恋情にもこれでおさらばだ。ジ・エンド。さいなら、ばいばい。どっかで野垂れ死ねクソボケ。
 
 
「ゆ、ゆーすけ…」
「うっせぇ、さっさと消えろヤリチン。女がいいなら、女のマ●コに思う存分突っ込んどけ」
「ヤダ!」
 
 
 女みたいな金切り声をあげた夏樹が俺に飛びかかってくる。腰をガッチリとホールドされて、俺は心底うざったくて堪らなくなった。畜生うんざりだ。
 
 
「ごめん、ごめんなさい、もう二度と浮気しないから、絶対他のやつとエッチしたりしないから! 俺は雄輔じゃないとヤダ!」
「お前に狼少年の話してやりてぇわ。今まで何回もう二度としないっつった? マナミやらアキやらノリコやらヒトミやら四回も人のこと裏切っておいて、更にミユキちゃんだぁ? 人をコケにするのも大概にしろよ」
 
 
 無性に煙草が吸いたくなった。夏樹と暮らし始めてからは禁煙していたが、いい加減もう無理だ。禁煙も、女も、夏樹も、我慢の限界だ。
 
 
「…あぁ、うっぜぇ…」
 
 
 咽喉の奥で唸るように零す。相も変わらず人の腰に抱き着いたままギャンギャンと喚く夏樹を、一気に蹴り倒す。ぐえ、と蛙みたいな声をあげて夏樹は床の上に仰向けに倒れた。その股間を踵でぐっと踏み潰すと、夏樹が引き攣った悲鳴を漏らした。
 
 
「つ、つぶれる!」
「潰れろよ。お前何様のつもりだよ。男の尻穴に突っ込むのが嫌なら最初っから言えよ。そしたら、俺だってお前みたいな浮気性と付き合ったりしなかった」
「イ、イヤじゃないって! 俺、だって雄輔の尻大好きだし!」
「なら、何で浮気すんの?」
「だ、だって…」
 
 
 途端に口ごもる夏樹に、俺はほとほと呆れ果てる。あぁ、結局時間の無駄だった。最後の仕返しとばかりに鳩尾を踵で蹴り付けてから、俺は台所の炊飯器を小脇に抱えた。夏樹が床の上で痛みに悶えながら、それでも足掻くように声をあげる。
 
 
「ゆ、ゆーすけ、どこ行くの…!」
「お前が出て行かないなら俺が出てく。じゃあな、ばいばいさよなら。とっととくたばれ糞野郎」
 
 
 捨て台詞を残して、部屋から出て行く。背後で夏樹が俺の名前を叫んでいたけれども、もうどうでも良かった。名前を呼ばれるのももう嫌だ。
 
 
 真夜中の道を炊飯器を抱えた男が歩く。何てシュールで馬鹿馬鹿しい光景だ。その光景を想像して少しだけ笑って、それから俺はようやく声をあげて泣いた。深夜に、うわぁ、わぁ、うえぇ、えぐっ、と声をあげて泣き咽ぶ男一人。あぁ、惨めだ。
 
 抱えた炊飯器がずっしりと重たい。そりゃそうだ。今日は夏樹の好きな豆ご飯にしようと思ってたのだから。付き合い始めて三年の記念日を祝おうと、早起きまでしてえんどう豆をちまちまと剥いていた自分が情けない。帰ってきたら部屋は精液臭いわ、これ見よがしに女のピアスが落ちてるわ、乱れたベッドの上に大の字になって寝てる全裸の夏樹がいるわ、本当にくだらない。畜生、豆がついてなくて悪かったな。どうせ俺にはバナナしかついてねぇよクソが。バナナご飯でも食わせてやりゃ良かった。
 
 マンションから離れた公園のベンチに座り込んで、ぼんやりと煙草を吸った。臓腑に染み渡るニコチンがぢくぢくと胸を痛ませる。その上、頬を伝う涙が煙草のフィルターをぐずぐずに湿らせて、舌の上まで苦い味が広がる。
 
 これからどこに行こうか考える。実家には帰れない。同性愛者であることをカミングアウトしてからは家族とは殆ど絶縁状態だ。男が好きだと告げた瞬間、家族は絶句して、次に俺の正気を疑った。思春期の勘違いや思い過ごしではないかと何百回も諭されて、最後には精神科にまで連れて行かれた。その度に俺は傷付いた。自分自身を否定されている気持ちになって、もうやめてくれ、と何千回も叫び出しそうになった。
 
 夏樹だけだ。夏樹だけが俺を否定しなかった。男が好きかもしれないと打ち明けた時も、怖じ気づく俺と一緒に新宿二丁目に探索してくれた時も、夏樹を好きになったと告白した時も。夏樹は俺を受け容れてくれた。今考えると、何でもかんでも受け容れることこそ夏樹の浮気性の証拠だったのかもしれない。誘われるまんまに女にほいほい着いて行きやがってクソが。
 
 だけど、好きだった。猫みたいに大きい目玉と甘えたなアヒル口が可愛くて、馬鹿みたいに飽き性なところも、そこそこどころか滅茶苦茶好きだった。ダメだ、過去形なんかで言えない。現在進行形で好きで好きで仕方ないのに。
 
 俺が女だったら良かったのか。おっぱいがあって、豆があって、誰からも祝福されるような関係だったら良かったのか。そしたら、五回も浮気されて、こんな風に真夜中の公園で惨めに泣く羽目にならなかったのか。
 
 ぐずぐずになった煙草を銜えたまま、ひっひっと短くしゃくり上げる。
 
 
「くそぼけぇ、おれの処女かえせよあほぉ」
 
 
 人の処女食っておきながら、何で女にまで突っ込むわけ?超痛かったのに、夏樹がすげぇ気持ちイイっつうから滅茶苦茶我慢したのに。血まで出て、次の日泣きながら軟膏塗ったんだぞボケ。俺の処女は、女のガバマンほどの価値もねぇってことか畜生が。
 
 阿呆らしい恨み辛みが口をついて出てくる。煙草が湿り過ぎて、とうとう火すら消えてしまう。半開きになった唇からぽろりと落ちる煙草を眺めて、俺は更に嗚咽を漏らした。
 
 傍らに置かれた炊飯器を引き寄せて、両腕で抱き締める。炊飯器はまだほんのりと温かかった。蓋を開ければ、炊き立ての豆ご飯が入っているんだろう。誰も食べる人もいないのに。
 
 
「もう、イヤだ…」
 
 
 炊飯器に額を押し当てて、しゃくり上げながら囁く。
 
 ゲイになんか生まれるんじゃなかった。ノンケに恋をするんじゃなかった。何よりも浮気性な幼馴染みなんかを好きになるんじゃなかった。
 
 今度生まれ変わるなら女になりたい。不細工でもデブでも一生独身でもいい。おっぱいがついてて、夏樹に突っ込んでもらえるマ●コがあるなら、どんなのでも我慢する。俺は、ただ夏樹に愛されたいだけなんだ。
 
 
 真夜中の公園に、慌ただしい足音が聞こえた。息を切らした夏樹が俺へと向かって駆けて来る。
 
 
「ゆーすけ!」
 
 
 その切羽詰まった声に喜びを覚えるよりも、烈火の如く怒りが湧き上がって来る。嗚呼、ぶっ殺してやりたい。俺の名前を呼ぶそのアヒル口は、女の名前を囁いて、女のおっぱいを吸って、女のマ●コをぐちゃぐちゃに舐めたりしたんだ。そう思った瞬間、二度目の爆発が来た。体内が噴火するみたいに、頭の天辺まで怒りが噴き上げてくる。
 
 
「ふ、っざけんなぁあ゛あ゛!!」
 
 
 両腕に抱えた炊飯器を振り上げて、駆け寄ってくる夏樹へと向かって思いっきり投げ付けた。炊飯器はまるで隕石みたいに、夏樹の顔面へと目掛けて落ちて行った。ぶえっ、と夏樹が妙な声をあげて、炊飯器と一緒に地面へと背中から崩れ落ちる。スローモーションみたく空中に飛び散った血は、きっと夏樹の鼻血だろう。くそくそくそっ、ざまぁみろバカ。
 
 
「食えよ!」
 
 
 鼻血を垂らした夏樹を見下ろして、俺は炊飯器をビッと指差して叫んだ。自分で一体何を言ってるのか訳が解らなくなってきた。ただただ、滅茶苦茶ムカついて、制御不能なぐらい悲しいだけだ。
 
 
「食え! 今すぐここで食えよ!」
「へ、ぇ?」
「食えっつってんだよ! テメエは豆が大好きなんだろうが!」
 
 
 女の豆がよぉ!と叫んで、地団駄を踏んで言葉にもならない罵声を喚き散らす。夏樹は地面に尻餅をついたまま、猫みたいに大きな瞳を見開いて呆然と俺を見上げていたが、最終的には気迫負けしたように、おずおずと炊飯器の蓋を開いた。真っ白い水蒸気がむわっと暗闇に浮かび上がる。
 
 
「あ、豆ご飯……おれ、好きだなぁ…」
 
 
 夏樹はそう言って、ふにゃりと嬉しそうに頬を緩めた。その表情に、涙腺が再び緩み始める。夏樹のこの顔が見たくて、俺は豆ご飯を作ったんだ。こんな風に真夜中の公園で、鼻血を垂らした夏樹に無理矢理食わせるためじゃない。こんなのちっとも嬉しくなんかない。
 
 そう思ったら、もう涙が止まらなかった。全身の水分が枯れ果てそうな勢いで、大量の涙が溢れ出した。ゔぅうー、と咽喉から鈍い呻き声を零して、濡れそぼった瞼を両拳で覆う。
 
 
「…ゆーすけ、泣いてるの?」
「これがっ…泣いてる以外に、見えんのかヴォケっ…!」
 
 
 嗚咽混じりの声は、掠れてるし途切れ途切れだし惨めったらしくて仕方ない。こんなのは嫌だ。こんな浮気性なクズ、俺が捨ててやるのに、何で捨てる俺の方が泣かなきゃいけないんだ。何で俺が傷付かなくちゃいけない。
 
 お前には一生解らない。お前のことが好きだと告白した時、これで人生終わるかもしれないなんて思ったことなんて。俺も好きだと言われた時、もう人生終わってもいいなんて思ったことなんて。お前には死んだって教えてやりたくない。
 
 
「俺じゃ…駄目なんだろっ…!」
 
 
 男で、お前よりも背が高くて、柔らかいおっぱいも濡れるマ●コも持ってない。ブチ切れやすくて、ろくにお前に甘えたりもできなくって、そんな俺じゃ夏樹は駄目だったんだろう?お前は元々ノンケで、俺のせいでこんなホモ街道に引き摺られただけで、本当は女が良かったんだろう?結局のところそれが答えなんだろう?
 
 
「そっ、んなことない! 俺は雄輔が世界で一番好きだよ!」
 
 
 慌てたように言い返される言葉に、もう白々しさしか感じない。だって、五回の浮気でもう結論は出てるじゃないか。それなのに、まだ嘘をつくのか。まだ言い訳しようって言うのか。それが堪らなく腹立たしかった。
 
 
「お前なんかっ…殺してやりたい…!」
 
 
 自分でもドン引きな一言が零れた。でも、これが俺の真っ正直な本心だ。
 
 女とキスした唇を切り裂いてやりたい。
 女を抱き締めた両腕をもぎ取ってやりたい。
 女に突っ込んだチンコを引き千切ってやりたい。
 でも、それ以上にこんな薄情な裏切り者に恋した自分を殺してやりたかった。
 夏樹の浮気に気が付く度にずだずだに引き裂かれる馬鹿な自分が一番大嫌いだ。
 
 
「…殺していいよ」
 
 
 炊飯器を胸に抱いた夏樹がそっと俺に近付いて来る。容易く口に出された言葉に、俺は夏樹を射殺しそうな眼差しで睨み付けた。
 
 
「殺される気もねぇくせに、よく言うよ」
「そんなことない。雄輔なら、俺は殺されてもいいよ」
「浮気がバレるたびに、誰にでもそんなこと言うんだろうが」
「俺は、好きも愛してるも、殺していいも雄輔にしか言ったことない」
 
 
 噛み付くような俺の発言に、夏樹が今にも泣き出しそうな声をあげる。
 
 
「五回も浮気しといて、俺がそんな言葉で納得するとでも思ってんのかよ」
「ごめんなさい」
「五月蝿ぇ」
「本当にごめんなさい」
「黙れクズ」
「雄輔のこと好きだから、捨てないで」
 
 
 巫山戯んな。何でそんな事言うんだよ。不意に咽喉がぐっと詰まって、下唇がぎこちなく戦慄いた。
 
 こんなのは嘘だって解ってる。苦し紛れの馬鹿げたホラだ。きっと今言ったことも忘れて、こいつは同じ事を繰り返す。大事な記念日に女と寝て、もう二度としないなんて嘘をついて、その度に俺は毎回炊飯器を投げ付けなきゃならないのか? こんな惨めな思いを、あと何回、何百回味わえばいいんだ。
 
 
「もし六回目の浮気があったら、俺のこと本当に殺していいから。包丁で刺してもいいし、炊飯器で殴り殺してもいい。だから、お願い。俺のこと捨てないで。俺…雄輔がいないと生きていけないよ…」
 
 
 切なげに夏樹が俺へと囁きかける。
 
 嘘吐き嘘吐き嘘吐き、この詐欺師野郎が!!
 
 そう喚き散らしてやりたい。無邪気で狡猾な男は、一度許せば際限なくつけあがる。自分の言葉も忘れていつか平然と女を抱いて、俺の心をボロ雑巾のようにずたずたに引き裂いて、そうやって大きな瞳に涙を滲ませて謝れば許されると信じ込むんだろう。何が俺がいないと生きていけないだ。そんなつもりもないくせにクソが。その傲慢さが堪らなく許し難かった。
 
 それなのに、何も言えなくなった。咽喉が小刻みに痙攣して、唇から「あ゛ぁ」とも「ゔぅ」ともつかない呻き声が零れる。くらりと足元が縺れて、身体が後ろによろめく。覚束なく揺れる俺の身体を支えるように、夏樹の腕が腰へと回される。ぐっと引き寄せられる力に、身体からぐにゃりと力が抜けるのを感じた。
 
 
「俺の傍にいてよ、雄輔…」
 
 
 耳元でこんぺいとうを転がすみたいに甘く囁かれる夏樹の声。あまりにも悔しくて、息が苦しくなった。
 
 どうして、最後の最後で、こうやって負けてしまうんだろう。捨ててやるって決めたのに。不毛で軽薄な関係からの脱却を図ったはずなのに。どうして、俺はこんな薄情な男の腕にまた抱かれているんだろう。
 
 夏樹の背中へと腕を回して、その背中と肩口に強く爪を突き立てる。服越しに皮膚を破って、肉を抉るぐらいきつく、きつく。
 
 
「本当に…次やったら殺してやるっ…」
 
 
 嗚呼、これで俺の負けだ。こんな言葉、もう許したも同然じゃないか。その悔しさと恨み辛みで涙がじわじわと滲んで、目の前の光景が酷くぼやけた。
 
 
「うん、殺して」
 
 
 そう答える夏樹の声は、どこか恍惚としていた。一瞬、ふと考えた。もしかしたら、夏樹は俺に殺されたがってるんじゃないだろうか。だから、こんな風に浮気を繰り返して、わざと俺に浮気の証拠を見付けさせているんじゃないだろうか。
 
――あぁ、馬鹿な想像だ。
 
 
「帰って、一緒に豆ご飯食べよ? ね?」
 
 
 夏樹がふにゃりと柔らかく微笑む。そんな笑顔で誤摩化されてやるのはこれで最後だと思う。最後であって欲しいと、心の底から願う。
 
 
 炊飯器を片手に、夜道を手を繋いで歩く。月の明かりに、チカリと輝くものが見えた。それは夏樹の尻ポケットから少しだけ飛び出していたものだ。それを見た瞬間、こいつも俺のことが案外好きなんだなと思えて安心した。
 
 
「なぁ、俺がそれでもお前捨てるって言ってたらどうしてたんだ?」
「…内緒っ!」
 
 
 ふふ、と短い笑い声をあげて夏樹が大きな目をぎゅっと細める。その笑顔が可愛くて、やっぱり好きで。
 
 
 俺が夏樹を殺すのと、夏樹が俺を殺すのは、どっちが早いかななんて考えた。
 どっちでも一緒のことか。
 
 

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Published in 短編

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