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032 愛について

 
 碁石を置く、細い指先が美しいと思った。
 
 短く切り揃えられた爪が固い碁石の表面と擦れ合ってカチリと硬質な音を立てる。寝起きの亀のような緩慢な動作で、碁盤の上を皺だらけの掌が這う。骨と皮だけの人差し指と中指に挟まれた碁石が蛍光灯に反射して静謐に輝くのがやけに眩しかった。碁石が碁盤へと置かれた瞬間、パチッと雷鳴のような音が高らかに鳴り響いた。凛とした、美しい音だった。
 
 
 その音にはっとして、俯いていた視線をあげる。途端、こちらを見据える鋭い眼差しと目があった。
 
 
「お兄ちゃんの番だよ」
 
 
 老人特有のしわがれた声で、その人は一言だけ呟いた。まるで反抗期の中学生のような、素っ気なく冷たい声音だった。僕は、慌てて白石を拾い上げて、碁盤へと目を滑らせる。選んだ目へと、石をそっと置く。当たり前だけれども、目の前の老人のような美しい音は鳴らせなかった。
 
 
 ちらりと窺うように老人へと視線を向ける。老人はその細い指先で下顎をゆるゆると撫ぜて、碁盤を睨み付けるように見下ろしている。その鼻から、ふぅん、と相槌じみた音が漏れた。
 
 
「うん、死にだね。負けました」
 
 
 呆気無い物言いをして、老人がすっと背筋を伸ばして頭を下げる。ありがとうございました、と自分よりも何十歳以上も年下であろう僕に丁寧にお礼を言う声を聞いて、僕も反射的に頭を下ろした。
 
 
 だけど、視線を戻した瞬間、僕は酷く驚いた。老人は、皺だらけの顔を更にくしゃくしゃに歪めて、その目から涙を零していたからだ。頬に刻まれた深い皺の間を、一筋の涙が緩やかに伝っている。老人は、手首の付け根でぐいと濡れた目元を拭うと、ぐずりと子供のように鼻を鳴らした。
 
 
「悪いね、お兄ちゃん。良い歳した爺がみっともねぇな」
 
 
 老人は酷く投げ遣りな口調で呟くと、手早く碁盤の石を碁笥へと戻した。碁笥の中で、石同士が擦れ合う音がカチャカチャと響く。その音を聞きながら、僕は呆然と老人を見詰めた。
 
 そそくさという言葉がピッタリ当て嵌まる仕草で、老人が去っていく。その直後に、友人が僕の肩を叩いた。
 
 
「気にすんなよ。うちの爺ちゃん、負けず嫌いなんだ。負けたらいっつもああやって泣くんだよ」
 
 
 その言葉が頭の中を右から左へと抜けて行く。今の僕にとって、言葉は何の意味もなかった。
 
 
 老人しかいない寂びれた碁会所、そこで僕は恋におちた。
 
 
 
 
 
 
 佐竹敬吾さん七十二歳。
 
 八年前に年上の奥さんを亡くしてから、一階建ての長屋に一人で住んでる。近所には、息子夫婦が住んでいて、時々孫が様子を見に来る。鯖寿司と缶詰のみかんが大好物。意外と無精なのか、居間には年がら年中炬燵が置きっぱなしになっている。負けず嫌いで、囲碁に負けると必ずその後泣く。…でも、正直に言うと、形だけは綺麗だけど、そんなに勝負には強くない。最近、孫の友人がやけに家に遊びにきている。
 
 
 これが僕が知っている敬吾さんのすべてだ。時々、頭の中でその情報を反芻しては、僕はもどかしいような愛しいような複雑な感情を味わう。
 
 
 今、僕と敬吾さんは、縁側に置いた碁盤を挟んで向かい合っている。ぐずぐずと鼻を鳴らして泣く敬吾さんへとティッシュ箱を差し出す。敬吾さんは乱暴な手付きでティッシュを二三枚引っ掴むと、チーンと盛大に音を立てて鼻をかんだ。
 
 
「また、負けたな」
「はい」
 
 
 独りごちる声にそう相槌を返すと、敬吾さんは少しだけ悔しそうに目を細めた。泣くぐらいなら勝負なんてしなければいいのに、と僕は時々思うけれど、それを口に出すことはない。敬吾さんが勝負する事をやめてしまったら、僕は敬吾さんに会いに来る理由がなくなってしまう。それに、僕は敬吾さんの泣き顔がとても好きだ。僕に負けて、悔しくて涙する彼を見る度に、僕の恋しさは積もった。
 
 
「敬吾さん」
「何だ」
「好きです」
 
 
 何度繰り返してもぎこちない僕の告白に、敬吾さんは、またか、という顔をして丸めたティッシュを床へと転がした。
 
 
「いつまで、そんな冗談を続けるつもりだい?」
「冗談じゃありません。僕は敬吾さんが本当に好きです」
「七十二の爺に言うには面白くねぇぞ。今度一緒に寄席にでも行くかぁ?」
「それってデートってことですか?」
 
 
 敬吾さんの目が一気に丸くなる。ぽかんと半開きになった唇は薄くて乾いていて、女の子のような艶かしさなんて欠片もない。でも、堪らなく心が惹かれる。その唇にキスしたいと思う。この気持ちが恋じゃなかったら何なのだろう。
 
 
 敬吾さんが深く溜息を付いて、呆れたように首を左右に振る。
 
 
「最近の若いやつの考えてることはさっぱり解らん」
「それ若者に対する差別用語です」
「そのうえ口だけは達者で、可愛気がねぇ」
 
 
 憎まれ口を叩く癖に、その声は優しい。孫に向けるような柔らかい情愛を、敬吾さんは僕に抱いてくれている。だけど、僕が欲しいのはそれじゃない。
 
 
 縁側へと置かれた敬吾さんの指先をそっと掴む。僕の手とは違う、末端が冷たくて、乾いてゴツゴツとした皮膚の感触。きゅっと掌を握り締めると、敬吾さんは不思議そうに僕を見詰めた。頭をこつんと敬吾さんの肩へと寄り掛からせる。敬吾さんの身体からは、淡く線香の匂いがした。
 
 
「線香の匂いがします」
「爺だからなぁ」
「それ老人に対する差別用語です」
「可愛くねえ」
 
 
 ふふ、と短く笑い声を漏らして敬吾さんが笑う。目尻に刻まれる深い皺が愛しい。その真っ白な髪も、ブルドッグみたいにくちゃくちゃな顔も、何もかもすべて。あの一瞬で恋に落ちてから、僕は五十五歳も年上な彼にずっと夢中なままだ。
 
 
「敬吾さん、好きです」
「またそれかい」
「貴方のすべてを愛してます」
 
 
 肩先に額を擦り寄せて、祈るように言葉を紡ぐ。途端、敬吾さんの身体がピクリと小さく震えた。
 
 
「お願いです。長生きして下さい」
 
 
 一分一秒でも長く、この人の傍にいたかった。一生この思いが伝わらなくてもいいから、敬吾さんが死ぬ瞬間までその隣に在り続けたい。いつか彼は僕を置き去りにして、先に逝ってしまう事は解っている。きっと僕は、泣いて打ちひしがれて、敬吾さんを愛したことを死ぬほど後悔するんだろう。それでも、どうしても、彼を愛さずにはいられない。心が勝手に惹かれていく。
 
 
 長い沈黙の後、敬吾さんがぽつりと小さな声で呟いた。
 
 
「あぁ、負けそうだ」
 
 
 その言葉の真意を訊ねることは出来なかった。ただ、冷たい指先が僕の掌を、そっと握り返すのを感じた。
 
 

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Published in 短編

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