Skip to content →

017 clear

 
 彼は、シロと言う。
 
 
 いつもコインランドリーの椅子に裸足のまま座り込んで、首を左右にゆらりゆらりと揺らしている。すきなものは粉末洗剤。まるで砂のような感触がして、いい匂いがするから。液体洗剤はあまりすきじゃないらしい。一度ジュースだと思って呑み込んだら、暫く口からしゃぼん玉がでつづけて怖かったから。
 
 
 夕方になると、迎えに来たおばあちゃんと手をつないで一緒に帰る。嬉しそうにつないだ手を揺らして、調子っぱずれな鼻歌を口ずさんで。彼は、ひとりでは決して外にでない。おばあちゃんは以前は彼のことをヒロムと呼んでいたけれども、最近は痴呆症が激しくなってきたのか昔飼っていたネコの名前でシロと呼ぶ。彼はシロと呼ばれると、嬉しそうにぺたぺたと駆け寄って行く。僕は、シロの周りで流れるゆるやかな時間にひたっていると安心する。
 
 
 ひたりとあたたかい手を握り締めると、シロははにかむ。照れくさそうな、うれしそうな、恥ずかしそうな、そんな顔ではにかんで、ほんのかすかな力で僕の手をそっとにぎりしめる。そんなとき、僕は、この世界にシロとふたりっきりになったような気がする。真っ白な世界で、シロとふたりぼっち、それはとても美しい空想だった。
 
 
 
 
 
 
 ある日、シロにキスをした。唇にかすかに触れるぐらいの、やわらかな。シロは、おどろいたように目を大きく開いて、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。それから、不意にくしゃりと顔を崩して、とても悲しそうな顔をした。近付こうとする僕の身体を弱々しく押し返して、いやいやするように首を左右にふり続けた。その彼の仕草に、僕は酷く傷付いた。僕は、自分が世界に拒絶されたように感じた。それから、ランドリーには行かなくなった。僕の世界は薄暗く集約されて、あの真っ白な世界は丸っきり夢へと変わってしまった。
 
 
 
 
 
 
 雨音がひたひたと聞こえる朝方、シロが僕の家の前に立っていた。おばあちゃんの花柄の傘をさして、水たまりに裸足をひたしたまま、玄関に立つ僕をじっと上目遣いに見ていた。服の裾をつかむシロの指先が小さく震えていて、その震えに、僕は彼が本当に勇気をだして、僕のところに来てくれたんだと思った。決してひとりでは外にでない彼が、僕をさがしに。
 
 
 引き寄せると、花柄の傘が水たまりの上を転がる。抱きしめたシロの身体は弱々しく震えていた。耳元に頬を押しつけたまま、そっと息を吐き出す。シロの指先が僕のシャツをきつく掴んでいる。そうして、ひどく掠れた声が聞こえた。
 
 
「とても、だいじ」
 
 
 僕は、きっとその言葉を一生大切に胸に抱きしめていく。シロが僕にくれた言葉を、決して忘れない。たったそれだけの言葉だけども、それは僕の世界を透明に洗い流してくれた。僕の胸もとに甘えるように額を擦り付けて、シロがだいじ、だいじと繰り返す。僕は、シロとふたりぼっちの真っ白な世界で、泣き出しそうな自分の声を聞いた。
 
 
「なみだが出そう」
 
 
 あんまりにも、しあわせで。
 
 

< back ┃ top ┃ next >

Published in その他

Top