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01 グッバイ・オフェーリア

 
そして詩人は語るのだ、
星の輝く夜になると摘んだ花を探し求めにおまえが来ると、
長いヴェールに横たわる蒼白いオフェーリアが大きな百合の花のように流れを漂うのを見たと。
ランボー 『オフェーリア』より
 
 
『グッバイ・オフェーリア』
 
 
 扉を開くと、見知らぬ男が立っていた。
 
 日曜日の朝七時、いつもの高雄なら、まだ惰眠を貪っている時間だ。少し汗臭いシーツに抱き付いて、朝日から顔を背けた時だった。無遠慮な呼び鈴の音が響いた。築三十年経つボロアパートの呼び鈴は、ピンポーンではなく、ピンポと尻切れトンボな音を響かせる。何とも情けなくて哀愁のある響きだ。
 
 初めは無視しようとシーツに顔を埋めた。呼び鈴は一度諦めたかのように静止したが、三十秒後、再びピンポと音を響かせた。ピンポ、ピンポ、ピンポと三度目の呼び鈴で、堪忍袋の緒が切れた。
 
 
 ランニングとトランクスしか着用しておらず、寝癖で髪の毛がボサボサなのも構わず、古びた扉を開いて、「ア゛ァ?」とどすのきいた声を上げる。扉の前では、背の高い男がぱちぱちと目を瞬かせていた。身長が百八十センチある高雄よりも、五センチは高い。
 
 久々に見上げるという動作をしたと思いながら、高雄は目蓋を擦りながら男を見遣る。格好良いというよりも、綺麗という形容詞が当て嵌まる顔立ちをしていた。何処かの劇団で、フリフリのシャツでも着て王子様役でもやっているのがピッタリだというのが初対面の感想。男が口元をほんのりと笑みに緩めると、いっそ胸焼けしそうなほど王子様臭は濃くなった。男の左目の下には、小さな泣きぼくろが見える。寝起きの不機嫌さを隠さぬまま、睨み付けるように男を見据える。
 
 
「はい?」
 
 
 鈍い声で威嚇するように言えば、男の肩がビクリと跳ねる。眉がくんにゃりと下がって、まるで気の弱いゴールデンレトリバーのようにも見えた。
 
 
「あ、あの…」
「はいはい、何の用ですか。新聞は要らないすよ。洗剤は十分足りてます。宗教もお断り。俺、神様に祈るとか、そういうの好きじゃないすから」
「いえ、そういうのでは、ないです」
「そうすか。じゃあ、新しいお隣さんですか。月水金日が燃えるゴミの日、火木が燃えないゴミの日、リサイクルゴミと大型ゴミは月一っす。ネット張らねぇと、カラスにゴミ漁られるんで、そこんとこ気を付けて下さい。そんじゃ」
 
 
 謎の男を、新しいお隣さんと断定して、畳み掛けるように言葉を紡ぐ。押し寄せる睡魔は、謎の男の正体よりも睡眠の方を重視していた。それじゃなくても、昨夜の飲み会のせいで、寝不足と二日酔いのダブルコースなのだ。愛想良く人様の相手をしてやれるほど、自分は聖人君子じゃない。
 
 そんじゃ、と言葉を締め括って、扉を閉めようとする。途端、男が慌てたように扉の隙間に足を挟み込んできた。憎らしいぐらい長い足だ。
 
 
「ま、待って」
「強引な勧誘は止めてもらえねぇっすか」
「かん、勧誘ではないです。お隣さんでもないです。お願い、わ、わた、僕の話を聞いて下さい」
 
 
 男の細い咽喉から、切なげな声が零れる。聞いていると目頭辺りがヒリヒリするような切実な声音だった。しかし、それと同時に怪訝さも募った。顔が僅か覗く程度に、扉に隙間を開け、男を見遣る。男は今にも泣き出しそうな顔をして、高雄を見詰めていた。男の咽喉が上下する。そうして、男は掠れた声で呟いた。
 
 
「タッちゃん、私のこと分からない?」
「…は?」
 
 
 唐突にタッちゃんなどと呼ばれて、高雄は面食らった。顔を苦渋に歪めて、一体あんたは何を言っているんだ、と目で訴える。男は悲しげに目線を落として、「分からない?」ともう一度呟いた。そもそも、自分のことを僕と呼んだり、私と呼んだり、忙しい奴だ。こいつはオカマなのだろうか。であれば、高雄は今まで新宿二丁目に行ったこともなければ、オカマの知り合いもいない。ついでに言えば、高雄のことをタッちゃんと呼ぶのは、呼んでもいいのは、この世界でたった一人しかいない。もちろん、それは目の前の男ではない。
 
 
「は、ぁぁ? 何言ってんのあんた。あんたとは会ったこともねぇし、覚えもございません。ちょ、ほんとあんた帰ってくれない? つうか、帰れ」
 
 
 振り払うように吐き捨てれば、男は縋り付くような眼差しで高雄を見詰めた。その目は微かに潤んでいるようにも見える。潤んだ目の下には、小さな泣きぼくろ。男の泣きぼくろに閉じた記憶がチリチリと刺激されるのを、高雄は感じた。
 
 高雄には触れられたくない事が二つある。
 
 一つは、水泳のこと。
 二つ目は、彼女のこと。
 
 特に彼女のことは、高雄の中でも鬼門中の鬼門だ。彼女の左目の下にも、小さな泣きぼくろがあった。彼女はそれを指先で触れながら、『何だか泣くばかりの人生って暗示されてるようで、あまり好きじゃないの』と困ったように言っていたが。
 
 チリリと、脳髄のシナプスが痺れる。記憶が刺激されて苛立つ。苛立ちのままに、ドアの間に挟まれた膝頭を蹴り飛ばす。男が痛みに眉を顰めて、鈍く呻き声をあげた。
 
 
 
「う、っざってぇなぁ、わけわかんねぇし、帰れっつってんだろうが」
「タッちゃん…」
 
 
 不意に、男の手がドアの隙間から伸びてきた。まるで蛇でも滑り込んできたかのような、滑らかで生々しい動きだった。湿り気を帯びた大きな掌に手首を掴まれて、一瞬身体が竦む。男は、高雄の手首を掴んだまま、熱をおびた目で高雄を凝視していた。そうして、高雄がこの世で一番聞きたくない名前を口に出した。
 
 
「私、ハルカです」
 
 
 言葉の意味を理解する前に、男の頬へ向かって右拳が飛んでいた。
 
 

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Published in その他

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