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01 いたいこと

 
 鹿瀬明人が童貞をなくしたのは、小学校四年生のときだ。
 
 これを誰かに言えば、本当なのかとばかりに胡散臭そうな目で見られるかもしれないし、随分成熟だねとひやかしの目で見られるかもしれない。あるいは、軽蔑の眼差しを突き付けられるのかもしれない。有り難いことに、鹿瀬は今までそれらのどの目で見られたこともない。それは、鹿瀬がずっとその事実を隠し続けてきたからだ。
 
 男同士の猥談などでは、鹿瀬は高校一年生の夏に童貞を失ったことにしている。実際、初めて女の肌を知ったのはその頃だ。高校一年生の夏、塾の帰りに地元の美大生だと名乗るお姉さんから声を掛けられて、わけもわからぬうちにホテルのベッドに転がされていた。ゴムを被せられた自身の性器が他人の生あたたかい体内へと潜り込んでいくのを、どこか呆然とした心地で眺めていた記憶がある。
 
 快楽もあったが、それ以上に驚愕や衝撃の方が大きかった。鹿瀬は、自分はもう二度と誰ともセックスできないのではないかと思っていたのだ。他人の肌に触れた瞬間に嘔吐したりだとか、性器に触れられた瞬間に絶叫してしまうだとか、そんなセックスに酷いトラウマを抱えた自分を何となしに思い描いていた。
 
 それなのに、セックスという行為は、拍子抜けするぐらい呆気なく鹿瀬を通過してしまった。薄いゴムに青臭い精液を吐き出しながら、鹿瀬は自分にトラウマなんてなかったのだと今更ながらに気付いた。そうして、安堵したような落胆したような複雑な気持ちを味わった。トラウマだなんて、自意識過剰な被害妄想もいいところだ。自分は自分自身で思っているよりもずっと図太くて、無神経だったのだ。
 
 十七歳になった今では、トラウマがあるだなんて思い込んでいた自分が阿呆とも思えるほど、ごく自然に誰かと付き合ったり、肌を合わせることが出来るようになっている。
 
 それでも、一回目のセックスのことは記憶の奥底に押し込んで、今まで誰にも語ったことはない。きっと、これからも話すことはないだろうと思っている。
 
 
 
 
 朝の空気に指先がかじかんで、微かな薄桃色に染まっている。学校への道のりをゆっくりと歩きながら、そろそろ手袋とマフラーを引っ張り出す季節になってきたと考える。十月の中頃にもなれば、九月に感じた夏の残り香も消えて、長い冬の始まりを予感させる。
 
 生ぬるい息を、冷えた指先に吹き掛ける。すると、朝食に食べた白菜の漬物の匂いが淡く広がった。そういえば、そろそろぬか床を掻き混ぜないといけない。鹿瀬が自家製の漬物に凝り始めたのは、つい最近のことだ。お隣の斉藤家から長年熟成させてきたという漬物をおすそわけされ、その味の奥深さに感銘を受けてから一気に漬物の魅力に目覚めた。斉藤家に頼んでぬか床を分けてもらってからは、自分自身なかなかに満足できる出来のものが作れている。漬物というのは、手間暇を掛ければ掛けるほど美味に仕上がるのだから一時も気が抜けない。自分でも男のくせに随分と所帯くさいと思わなくもないが、ジャンクフードをたらふく食べるよりかはずっと健康的かと納得させている。
 
 口臭消しにミントガムを口に放り込んだところで、背後から甲高いブレーキ音が聞こえた。
 
 
「はよっす」
 
 
 すぐ斜め前に自転車が止まって、眉の下までニット帽を被った男が気の抜けた声をあげる。クラスメイトの森孝也だ。高校一年と二年と鹿瀬とは同じクラスで、変なところでマイペースな鹿瀬の性格と、森のあけすけながらもどこか憎めない性格とが中々に馬が合って、クラスの中では一番仲が良い。
 
 高校一年生まではずっと野球部に所属していた森は、今まで髪型を坊主から変えたことがない。昨年肘を故障して野球部を退部してからはイケメンヘアーを目指すと公言していたものの、結局一センチも伸びてくると鬱陶しくなってしまうのか、二年経った今でも坊主のままだ。今では、坊主頭をニット帽で隠すという、臭いものには蓋をする的な方法を取っている。それはそれで野球以外は適当をモットーにしている森らしいとは思うが。
 
 
「おはよう、今日は結構寒いな」
「ん、寒ぃな」
 
 
 寒いねと話しかければ寒いねと答える人のいるあたたかさ、という詩を書いたのは誰だっただろうか。そんなことを思い浮かべながら、ミントガムを奥歯の辺りでゆっくり噛み締める。辛味にも似た刺激が口腔をピリピリと刺激する。
 
 森は自転車を手押しに変えて、鹿瀬と並ぶように歩いた。まだ眠気が去っていないのか、大口を開いて欠伸を零す。
 
 
「寝不足?」
 
 
 短く問い掛けると、森は緩慢な仕草で頷いた。
 
 
「いっつもフツーに眠たいけどさ。昨日はさ、阪神対カープの試合あって、親父と三回ぐらい見直してたら二時になってた」
「同じ試合を? 三回も何を見直すのさ」
「一回目と三回目じゃ見方が全然違うんだよ。一回目は純粋な観賞用で、二回目は戦略やら選手の考察用。三回目は自分ならこの選手を使って、ここでこのサインを出したらっていう想像っつうか妄想をすんだよ」
 
 
 森がもう一度欠伸を零す。目尻に滲んだ涙を上着の袖でぞんざいに拭いながら、癖のようにニット帽の側面を掌で撫でる。その森の人差し指には、野球から退いた今でもボール蛸が残っている。
 
 
「俺は、観るなら一回で十分だけどな」
「大抵そういうもんだろうけど慣れたら楽しいんだよ、これが。マジじゃなくて遊び感覚で、あれこれと口出しすんのがさ。もう自分が選手側じゃなくなったからかもしんないけどさ、今更ながらに第三者っつうのは楽だって思うよ」
 
 
 第三者という単語に、一瞬心臓が軽く跳ねるのを感じた。だが、不整脈にも似た鼓動の揺れは、すぐに収まる。
 森は、ふと思い出したように視線を宙へと浮かべた。
 
 
「そういえばさ、転校生来るんだってな」
「えっ、いつ?」
「今日か明日か明後日か、何か今週には入るっぽい」
「うちのクラスに?」
 
 
 二学年は、クラスが五つある。そのうち一クラスは特進コースだから転校生が入る可能性はないとして、あと四クラスのうち鹿瀬達のクラスに入るかは確率次第だろう。
 
 
「さぁ、わかんね。柿本先生が言ってた。でも、男だってよ」
 
 
 へぇ、と鹿瀬は短い相槌を返した。柿本は、今年で勤続三十年を超えるベテランの古文教師だ。そうして、野球部の顧問でもある。森が退部した今も何かと目を付けてくれているようだ。
 
 
「女じゃないなら、あんま興味でないよなぁ」
 
 
 森が肩を落として、演技みたいな大きな溜息を吐き出す。その残念そうな表情を横目で見ながら、鹿瀬は曖昧な笑みを返した。
 
 森はガッカリしているが、鹿瀬は転校生が男だと聞いて正直ほっとした。もし鹿瀬のクラスに転校生が入れば、クラス委員長である鹿瀬がまず面倒を見なくてはならなくなる。付き合ってる彼女がいる身としては、転校生といえども他の女子に構っている姿を見られるのは、どうもばつが悪い。
 
 男だとしても、もしうちのクラスに入るなら、そこそこ気の合う奴だったらいい。たとえ気が合わなくても、表面上そこそこ取り繕える奴なら問題はないけれども。生徒達の声でざわめく校門を潜りながら、鹿瀬はそんなことをぼんやりと考えた。
 
 

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Published in その他

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