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025 森の奥のこども

 
 ボールを拾おうと深い草叢に手を伸ばしたら、柔らかい感触が掌に返って来た。表面は温かいのに芯は痺れるほど冷たい、半端にぬくめられた豆腐を連想させる触り心地だった。更に、その豆腐がこちらの掌を握り返して来たから驚いた。掴まれた手を思わず引っ張り出せば、草叢から白蛇のようなぬろんとした腕が付いて来た。続いて、小さな頭が出てくる。背中に付くほどの長い黒髪だ。所々がボサボサに縺れていて、不衛生なイメージを湧き起こさせる。長い前髪の間から見えた顔にも、泥や落葉がこびり付いていた。そうして、どんぐりのような丸っこい目玉が二つ、こちらを茫洋と見上げていた。どうやら浮浪児のようだ。
 
 
「何だ、おめぇ」
 
 
 問い掛けると、浮浪児はパチパチと大袈裟に瞬いた。それから、ニマァと唇を引き裂いた。幼い顔立ちに似合わない不気味な嗤いだった。ギョッとして手を引っ込めようとしても、浮浪児は手を掴んだまま放さない。それどころか更に力を込めてくる。泥の詰まった小さな爪が皮膚に食い込んできた。
 
 
「おまえさん、ヨシナガの孫じゃろう」
 
 
 罅割れた声に背筋がぞわりと震える。老人のようなしゃがれきった声が、浮浪児の細い咽喉から出ているというのが信じられなかった。まるで出来の悪いカラクリ人形のようだ。こいつはマズいと無意識の内に悟っていた。目の前にいる浮浪児は、子供の姿をした人ならぬものだ。森に住む神か鬼か。
 
 だから、森の中で遊ぶのはやめようと言ったのに。父母から伝えられていた、森に入れば恐ろしい神に一番大切なものを奪われるという怖い話。自分の祖父も何かを奪われたということを聞いた。それが何かというのは、呆けた祖父からは聞くことができなかった。でも、自分はいったい何を奪われるのだろう。命だろうか。
 
 そう考えた瞬間、内臓がキュウと縮まって、凍えるような寒気が足先から旋毛まで走った。困惑と恐怖を伝えようと、背後にいた筈の友人達を振り返っても、その姿はどこにもない。丸っきり消えてしまっている。そこにあるのは、鬱蒼とした木々だけだ。
 
 
「おまえさんに渡したいモノがある」
 
 
 浮浪児の姿をした何かは、淡々とした声で言った。じっとこちらを見上げる視線から、敵意や下心というものを感ずることはできない。
 
 
「何じゃ?」
「ヨシナガじゃ」
「おれ?」
「おまえさんじゃなくて、おまえさんの爺さんのヨシナガヘイゾウじゃ」
「じいちゃん?」
 
 
 吉永平蔵は祖父のことだ。最近はめっきり呆けて、縁側で一日中ぼんやりと座り込んでいる姿ばかり見る。数日前から身体がだるいと言って、布団に潜り込んで寝込んでいる。だけど、じいちゃんを渡したいだなんて、この浮浪児は一体何を言っているんだろう、と首を傾げる。
 
 
「わしがずっと捕まえとったから、あいつは家に帰れんかった」
「じいちゃんは、うちにおるで」
「それは八十二歳の平蔵じゃろう。わしが言うとるのは、十歳のヘイゾウじゃ」
 
 
 会話の内容が上手く理解できず、眉を潜める。
 
 
「わからん。十歳のときのヘイゾウってなんじゃ」
「十歳のとき、ヘイゾウはこの森にきた。わしはヘイゾウを捕まえて、十歳のヘイゾウの魂を平蔵から抜きとった。魂をふたつに割って、未来の平蔵だけ帰した。過去のヘイゾウは、まだわしの元におる」
 
 
 説明をされようとも、まったく全然理解出来ない。浮浪児の顔を眺めて、やっぱりこいつは神とか鬼とかじゃなくて、単なる頭のおかしい子供なのだろうかと考える。答えはでない。唇を尖らせて、反抗的に言う。
 
 
「何言うとるか、さっぱりわからん」
「わからんでもええ。とにかく連れて帰ってやれ。はようせんと、未来の平蔵が死んでしまう」
「じいちゃんが?」
「もうあと何日もない。平蔵は死ぬ。老衰の大往生じゃ」
「うそじゃ!」
 
 
 不吉なことを言う浮浪児の手を振り払う。奥歯を噛み締めて、浮浪児を睨み付けた。
 
 
「おめぇ、ようもそんなホラがふけるの! 父ちゃんと母ちゃんに言いつけるで!」
「わしに父ちゃんも母ちゃんもおるものか。それとも、言いつけるのは、おまえさんの父ちゃん母ちゃんか」
「そうじゃ、おれの父ちゃん母ちゃんじゃ! 怖いんじゃけえの!」
「ケイゾウとヨシエのなんが怖い。わしはなんも怖くない」
「ものほしでケツ叩かれるんじゃで!」
「そんぐらいがなんじゃ」
 
 
 浮浪児が「わしのほうがずっと怖い」と冷え冷えと囁いた瞬間、視界が反転した。悲鳴をあげる間もなく、足が吊り上げられて、身体が逆さまに宙に浮いていた。左足首に巻きついているのは木の根だ。根が足首をギリギリと締め付けて痛い。そうして、次の瞬間、パシィンという高い音と共に尻に鋭い痛みが走った。
 
 
「ギャ!」
 
 
 吊り上げられたまま、背後へと視線をやれば、細い枝が鞭のように尻を打ち据えていた。尻肉に染み渡るような痛みに、背筋が勝手に反り返る。
 
 
「ギャ、ヤッ、かあちゃん、かあちゃんごめん! ごめんなさい! ゆるして!」
「わしはおまえさんのかあちゃんじゃない」
「いたいッ!」
「痛いのはあたりまえじゃ」
「やめろよぉ!」
「ヘイゾウを連れて帰るか?」
「連れて帰る! 連れて帰るから、やめろぉ!」
 
 
 喚き上げた瞬間、浮浪児は甲高い鳥のような声を一声上げた。途端、足首に絡まっていた枝が解けて、身体がどすんと地面に落される。衝撃と鈍い痛みに悲鳴を上げて、背中をさする。
 
 
「ヘイゾウ、おいで」
 
 
 浮浪児が草叢へと向かって手招きしていた。関節部分が蛇のように滑らかに動いているのを見て、改めてぞっとする。草叢がガサガサと音を立て始めたと思ったら、葉っぱの間から幼い顔がひょっこりと覗いた。浅葱色の薄汚れた着物を着ている。生意気そうな目尻が印象的な子供だった。
 
 
「なんじゃ、神。こいつは誰じゃ」
 
 
 ヘイゾウと呼ばれた子供は吊り上った瞳で、睨み付けるように此方を見詰めてくる。その敵意とも見える眼差しに、肩が強張った。
 
 
「こいつは御前の孫じゃ」
 
 
 神の言葉に、ヘイゾウは足の裏にこびり付いた泥を脛にこすり付けて落しながら「ふぅん」とどうでもよさそうな相槌を返した。
 
 
「わしの孫か。あんまりわしに似とらんのぅ」
「おれは、ばあちゃん似じゃ」
「わしは女子と結婚するのか」
 
 
 ヘイゾウの顔に、わずかな驚きが浮かんで、直ぐに消える。代わりのように「わしには関係ないことか」と皮肉そうに呟く小声が聞こえた。未来の自分を切り捨てるような乾いた声音だった。
 
 
「そんで、わしをわしの孫に会わせてどうしよう言うんじゃ神」
「未来の平蔵が死にそうなんじゃ。御前は孫に家に連れて帰ってもらえ」
「ほう、わしが家に帰りたいと泣き喚いても何十年も家に帰らせてくれんかったくせに、いざ未来のわしが死にそうになったら帰すとは都合がええのお」
 
 
 嫌味ったらしいヘイゾウの言葉に、神が痛ましそうに眉根を寄せる。唇を固く閉ざして、神は一息呼吸を零した。それと同時に、森を一陣の風が吹き抜ける。木の葉が舞い散って、ヘイゾウと神の間をざわざわと通り抜ける。空気がピンと張り詰めて、今にも弾けてしまいそうだった。
 
 
「――まぁ、ええ。帰るぞ、孫」
 
 
 先に折れたのはヘイゾウの方だった。投げ遣りな言い様で、くるりと踵を返す。
 
 
「おれの名前は孫じゃのうて…」
「そんなもん知りとうない。わしには関係のない話じゃ」
 
 
 切り付けるように吐き捨てて、ヘイゾウは小さく唇を噛み締めていた。背後でざわりと草叢が蠢く気配が伝わって来る。振り返れば、もうそこには神の姿はなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
「何十年ぶりの家じゃろうなぁ」
 
 
 然程感動したようでもない平坦な声で、ヘイゾウが呟く。古ぼけた家をぼんやりとした眼差しで眺めながら、低い垣根越しに庭の池を覗き込んだりしている。
 
 
「ありゃカヨコかのぉ」
 
 
 そう言って指差したのは、小さな鶏舎の中でコッコッと密やかな鳴き声を立てている鶏だ。鮮やかに赤い鶏冠が目に眩しい。
 
 
「わしが雛から育てとった鶏じゃないかのぉ。縁日で買った家畜じゃったが、なかなか元気に育って、わしの誕生日に初めて卵を産んでなぁ」
 
 
 鶏の事を語っているヘイゾウの顔は、その時ばかりは輝いていた。何十年も前の記憶に浸るように、目を細めて、唇を緩めている。
 
 
「おれらは鶏に名前なんか付けとらんで」
「――ほぉか、そうじゃよなぁ。よう考えてみれば、何十年も鶏が生きとるわけがないんじゃ」
 
 
 目が覚めたようにヘイゾウの顔から表情が消えた。のろのろと遅い足取りで玄関口から、知ったように家の中へと入っていく。人の気配に気付いたのか、母親が「誰か来たのー?」と奥から顔を覗かせてきた。割烹着を身に付けたまま、柔らかな笑みを浮かべている。
 
 
「と、ともだちが来たんじゃ。うちで遊ぶけぇ」
「居間にせんべいが置いてあるけぇ、出してやり。おやぁ…」
 
 
 ふとヘイゾウの足元に目を落して、母親が眉間に皺を寄せた。
 
 
「裸足で遊んだのかい? ちゃんと足洗わんといけんよ」
 
 
 頭に巻いていた手ぬぐいを取って、甲斐甲斐しい仕草でヘイゾウの足を拭う。ヘイゾウはぽかんとしたまま、されるがままになっている。母親が調理場に戻っても、ヘイゾウは気の抜けた様子で調理場の方を眺めていた。
 
 
「どうしたんじゃ」
「ありゃぁ…わしの娘かの?」
「違うで、じいちゃんの息子はとうちゃんじゃ」
「ほぅか…わしの息子は随分と器量の良い娘を嫁っ子にもらったんじゃのぉ…」
 
 
 ヘイゾウの唇に、薄っすらと愛しさにも似た笑みが滲み出る。込み上げてくる感情を抑えるように、ヘイゾウの指先が着物の胸倉を握り締めていた。
 
 
「――わしの息子はどこにおる」
「とうちゃんは畑にいっとると思う。そろそろ稲刈りの時期じゃけぇの」
「良い嫁っ子もらって、畑も持って、子宝にも恵まれて……わしの息子は幸せもんじゃ」
 
 
 そう呟いた瞬間、ヘイゾウの顔がくしゃりと歪んだ。泣き出しそうで今更泣けないという切ない表情。苦しそうに咽喉を一瞬引き攣らせて、「わしは息子の顔も名前も知らん」と呟く掠れた声が聞こえた。
 
 
「得るはずで得ることが出来んかったもんを突き付けられるようで、堪らん。わしには耐え切れん。もう何も見とうない」
 
 
 咽喉の奥から引き絞るような声を発したと思うと、ヘイゾウは途端駆け出した。あっと驚きの声を上げる間もなく、風のように玄関を飛び出す。慌てて追いかければ、玄関から直ぐ出たところにヘイゾウの背が見えた。ヘイゾウが呆然とした顔で何かを見詰めている。その視線の先には、縁側に座り込む〝祖父の平蔵〟の姿があった。今日は調子が良かったのか、縁側でうたた寝でもしているのだろう。平蔵は、殆ど目を閉じた状態でうつらうつらと船を漕いでいる。その皺々になった皮膚、薄くなった頭髪、骨と皮になった自分の未来を見て、ヘイゾウは唇をわなわなと震わせていた。
 
 
「あれは、わしか…?」
 
 
 自問自答するように呟いて、ヘイゾウは覚束無い足取りでその場から離れた。数十メートル歩いたところで不意に立ち止まって、ヘイゾウはその場にしゃがみ込んだ。両膝に額を押し当てて、咽喉から小さな呻き声を零している。
 
 
「わしが失くしたものは大きい」
 
 
 そう呻いたと思うと、唐突に此方を見上げた。その瞳は潤みながらも、尖っている。
 
 
「平蔵は優しかったか?」
「え?」
「御前のじいちゃんは優しかったか?」
「…うん」
「ならええ。それでええ」
 
 
 自身を納得させるようにヘイゾウは繰り返し、両手で顔を覆った。その小さな掌の隙間から、涙の粒がぽろぽろと零れ落ちていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 祖父は数日後に息を引き取った。ヘイゾウは森へと帰り、あの深い木々の中で神と共に暮らしているのだろう。あれから、森へは足を踏み入れていない。あの時の記憶は薄れ、何処か夢物語のようにすら今は思えている。それなのに、ヘイゾウが悲しげに呟いた最後の言葉だけが記憶の片隅にこびり付いて離れない。
 
 
「これからはお前も一緒じゃ…」
 
 
 森へ置き忘れたものがあるような気がするのに、もう思い出せない。
 
 

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Published in その他

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