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02 いたいこと

 
 朝礼のチャイムが鳴る十分前に、木野京香が息を切らせて教室に飛び込んできた。机を挟んで森と雑談していた鹿瀬へと迷わず近付いてくる。
 
 
「明人、りっちゃんの特ダネフラッシュ見た?」
 
 
 突拍子もない問い掛けだとも思うが、それも毎度のことになるといい加減慣れてくる。木野は、何か一つのことを思い立ったら、そのことにしか頭が働かなくなるのだ。
 
 
「りっちゃんって女子アナの北原リカ?」
「そう、りっちゃんが担当してるニュースにね、ホワイトタイガーの赤ちゃんが出てたの。中野動物園で十二月に一般公開されるんだって」
 
 
 まるで今日の出来事を語る幼稚園児のように忙しない口調だ。そこに本物のホワイトタイガーの赤ん坊がいるかのように何かを抱き締める仕草をする木野を、鹿瀬は緩く微笑んで見詰めた。うんうんと小さく相槌を打ってやると、それだけで木野は嬉しそうに破顔する。
 
 
「それでね、希望者は抱っこして写真も撮れるんだって。だから、十二月になったら一緒に行こうね? 動物園デート。いいでしょ?」
「うん、いいよ。楽しみにしてる」
「本当? 絶対ね。約束したからね!」
 
 
 じゃあ、またお昼にね。と早口でそう残すと、木野は来た時と同じように飛ぶような勢いで教室から出て行った。まるで嵐のように現れて去っていく。木野が出て行った扉を眺めながら、ぽかんと口を開いた森が呟く。
 
 
「相変わらずだな、お前の彼女。俺はどこの猪が突撃してきたのかと思ったぞ」
「猪ってのは、言いすぎじゃない?」
「いいや、間違いなく前世は猪だね。万が一前世じゃなかったとしても来世は確実だ。どうなんだよ、猪の彼女ってよ」
「俺は、ウリボー可愛いと思うけど」
 
 
 呆れたように首を左右に振る森に、鹿瀬はのんびりと笑みを返した。多少起伏の激しいところはあるが、率直でその時の感情が解りやすい木野が、鹿瀬には素直に可愛かった。
 
 木野は、毎朝何かと話題を作っては、わざわざ違うクラスの鹿瀬に会いに来てくれる。昨日三つ上の兄が彼女を連れて来て家中が大騒ぎになっただとか、雑誌を持ってきてこのモデルが明人に似てて格好良いだとか、そんな他愛もない話を、身振り手振りを交えて一生懸命語るのだ。そういうところが酷く微笑ましい。
 
 木野京香とは、四ヶ月前から付き合い始めた。もともとは小学生の頃の同級生で、その頃は対抗戦などと称して、よく男女に別れてドッジボールなどをしていた。木野は運動神経が良く、クラスの誰よりも早い球を投げていた。鹿瀬は、よく木野にボールを当てられて外野に押し出されていた記憶がある。
 
 中学はそれぞれ別の学校へと進学したが、高校になって再会した。高校一年生のときはただのクラスメイトで、高校二年生になって鹿瀬が三人目の彼女と別れた一週間後に、木野から告白された。
 
 
 ――鹿瀬のこと好きだから、付き合いたいんだけど。
 
 
 飾り気のないストレートな木野の告白に、鹿瀬は正直戸惑った。鹿瀬は、なぜだか昔からよくモテた。おそらく中性的とも取れる優しげで端整な顔立ちと、器用貧乏の気配がある世話好きなところが女子にはウケたのだろう。幾人もの女子から告白され、それも中学生だった頃は断っていたが、高校一年生の夏に初めて女性と関係を持ってからは、誰かに告白されれば流されるように付き合うようになった。
 
 それは、その相手が好きだというよりも、誰かを好きになりたいという曖昧ながらに切実な鹿瀬の願望があった。だが、好きになろうと努力はしても、結果は付いて来なかった。結局、恋人らしい甘やかさのない鹿瀬の態度に嫌気がさして、女の子の方から去っていく。
 
 高校入学してから付き合った三人の中で、一人として半年も続いた相手はいない。しかも、三人が三人とも、鹿瀬に同じ言葉を告げて去っていったのだ。
 
 
 ――鹿瀬君は、つめたい。わたしのこと好きじゃない。
 
 
 冷たくしている自覚はなかった。優しくしたし、デートもした。友達よりも家族よりも優先した。それでも、彼女達の評価は『つめたい』だったのだ。その事実が鹿瀬を打ちのめした。自分は、心のない人間なのかと思うと泣きたくなった。その矢先に、木野に告白されたのだ。告白された瞬間に、木野とはいつまで続くんだろうと考えた自分がいた。そうして、別れる時にはまた同じ言葉を投げ掛けられるのかと。
 
 それでも、付き合うことに決めたのは、木野の指先が小さく震えていたからだ。きつく握り締められた指先は赤く染まり、そのくせ指の関節は真っ白に血の気を失っていた。その姿が痛々しくて、なぜだか胸が締め付けられるような庇護欲が込み上げてきた。夏なのに冷え切った木野の掌を両手で包んで、鹿瀬は今度こそこの子のことを好きになろうと決めた。好きになれる気がした。
 
 四ヶ月経った今でも、木野との交際は円満そのものだ。木野は思ったことをずかずかと口に出す癖はあるが、いざというときの気遣いは人一倍上手い。よく気が付く優しい子だと思う。
 
 そもそも、木野が二ヶ月も先のデートを取り付けたのは、鹿瀬と別れないための布石のためだったんじゃないだろうか。半年も続いたことのない鹿瀬の恋愛歴を断ち切ろうとしたんじゃないだろうか。
 
 そんな事を考えていると、朝礼のチャイムが鳴った。前の席に座った森が「あ、転校生」と呟く声が聞こえて、鹿瀬は顔を上げた。
 
 
 
 
 
 担任の柴田に続くようにして、真っ黒な髪をベリーショートに切り揃えた男が教室に入ってくる。柴田よりも頭一つ分背丈が高い。おそらく百八十センチは超えているだろう。
 
 一瞬教室に静寂が広がった。それは、転校生が来たことに対する驚きだけではなく、その男の容貌が明らかに異質だったからだ。
 
 男の口元や眉の上には真っ白なガーゼが貼り付けられており、左頬には鮮やかな青紫色の痣が色濃く浮かび上がっている。青と赤と紫でまだらになった頬は、コスモスの花を皮膚に咲かせているようにも見えた。痛々しい傷痕を顔面に残しているのにも関わらず、その男からは負け犬じみた卑屈さはまったく感じられなかった。むしろ、肉食獣のような獰猛性を感じさせる。切れ長な目は、じっと床へと伏せられたまま上げられない。向けられる視線をすべてシャットアウトしているような、仄暗く閉鎖的な眼差しだった。
 
 柴田がいつもどおりの朝礼の挨拶を終わらせた後に、本田へと視線を向ける。
 
 
「今日から新しくこのクラスの一員になる本田君だ。みんな仲良くするように」
 
 
 お決まりな台詞を述べてから、本田へと挨拶を促す。本田は、伏せていた眼差しをちらりとあげた。瞬間、鹿瀬は息を呑んだ。真正面から見た本田の目は、極限まで研ぎ澄まされたナイフのように鋭くギラついていた。そのくせ、その眼球の奥底には、鬱屈し、粘着いた泥が沈殿しているようにも見える。餓えた獣に睨み付けられたような怖気が体内を走り抜けて、鹿瀬の指先は無意識にぶるりと震えた。
 
 だが、それも一瞬のことで、本田は再び眼差しを伏せて、素っ気ない口調で漏らした。
 
 
「本田です」
 
 
 それだけだった。よろしくの一言も言わなかった。柴田が困ったように肩を竦める。
 
 
「おいおい、それだけかぁ? せめて、名前ぐらい言っとけ」
 
 
 促されて本田が気だるそうに口を開くと、柴田が思い直したようにそれを押し留めた。
 
 
「いや、黒板に書いてもらおうか。今日は一日消さずに残しておけば、みんな明日には本田の名前を覚えられるだろうからな」
 
 
 今どき小学校だってそんな事はしないだろう。柴田は妙に過保護といおうか、変なところで生徒に気を使うところがある。大抵それは空回りするのだが、本人はその事実に気付いていない。
 
 チョークを差し出されて、本田が面倒臭そうに一瞬眉を動かす。だが、結局黙ってチョークを受け取ると、黒板の隅に大雑把な字で名前を書いた。
 
 
 【本田 仁】
 
 
 一瞬、鹿瀬の息は止まった。咽喉がひゅっと音を鳴らして、粘膜にどろりと粘着いた液体が詰まったような感覚に陥った。苦々しくどす黒い記憶が胸の内側から噴き出してくる。
 
 
 ――あっくん。
 
 
 鹿瀬のことをそう呼んでいた、小さな誰かの姿が目蓋の裏にフラッシュバックする。大きな瞳にばら色のほっぺた、華奢な身体、大人しくて弱虫で、笑うと花のように愛らしくなる男の子。鹿瀬が夏祭りの射的で取った熊のぬいぐるみをプレゼントすると、ふにゃりと顔を崩して笑って、どこに行くにも嬉しげに持ち歩いていた。
 
 小学生の頃のいちばんの友達。鹿瀬の大事な親友。本田仁。
 
 皮膚から体温がじわじわと抜け落ちていく。身体から感覚が消えて、今自分がここにいる実感がなくなる。気付いたら、鹿瀬は瞬きをしていなかった。目を見開いたまま、黒板の前に立つ男をじっと見据える。
 
 記憶の中のあの子の姿と、目の前の男は欠片も似通っていなかった。その体格も、顔立ちも、まったく別人のそれだ。あの子は女の子よりもずっと女の子らしくて、その姿も心も可愛くて儚かった。だが、今目の前にいる男は肩幅だって広く、体付きもガッチリとしている。何よりも今にも破裂しそうなほど刺々しい雰囲気を放っている。“男”というよりも“雄”と称した方がいいだろう圧倒的な存在感だ。
 
 だから、あの子のわけがない。同姓同名なだけの、単なる別人だ。それなのに、こんなに動揺してしまうのは、鹿瀬に拭い切れない罪の意識があるからだ。鹿瀬は、あの子に酷いことをした。あまりにも酷過ぎることをしてしまった。それがどうしても忘れられない。
 
 
「席はどこですか?」
 
 
 名前を書いたら用済みとばかりに、本田が柴田に問い掛ける。示された席は、鹿瀬の真後ろの席だった。間髪いれず本田が大股で歩いてくる。距離が縮まるたびに、心臓が嫌な感じに跳ね上がった。知らず冷汗が額から滲んでいた。頭の中で同じ言葉が繰り返される。
 
 
 ――別人だ、別人だ、別人、別人。
 
 
 擦れ違うときも、本田は鹿瀬をちらりとも見なかった。鹿瀬は俯いたまま、じっと背後の気配を窺っていた。握り締めた掌がじっとりと汗で湿っていた。
 
 

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Published in その他

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