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03 いたいこと

 
 昼休憩になった瞬間、鹿瀬は逃げるように席から立った。
 
 舌を噛みそうなほどの早口で、すこし調子悪いから保健室で薬もらってくる、と森へと告げると、そのまま男子トイレへと猛ダッシュした。トイレの個室に入って、便座に腰掛けた瞬間、まるで風船から空気が抜けるかのような深く長い溜息が零れた。緊張状態に晒されていた筋肉からじわりと力が抜けて、鹿瀬は殆ど虚脱状態に陥った。
 
 正直生きた心地がしなかった。
 
 一時限目から四時限目まで、まったく授業に集中することが出来なかった。鹿瀬は、背後の気配を息を潜めて窺い、いつ殴られたり刺されたりするのだろうと怯えていた。だが、それは鹿瀬の被害妄想でしかなかった。本田が鹿瀬に対して何らかのアクションを取ることは一切なかった。悪しげに罵ることもなければ、鉛筆で背中を突き刺されることだってない。当たり前だ。だって、本田はあの子とは別人なんだから。
 
 トイレの中で頭を抱えたまま、鹿瀬はその事実を再確認した。本田が鹿瀬に対して何の反応もしないのは、あの子と別人という確固たる証拠でしかない。
 
 同姓同名というだけで、一体自分は何をそんなに怯えているのか。馬鹿馬鹿しいほどの過剰反応に、いっそ羞恥心を覚える。
 
 
 何もなしに教室に戻るのも癪で、購買で欲しいわけでもないオレンジジュースを買って戻った。教室に戻ると、木野が鹿瀬の隣の席に座って森と話している姿が見えた。教室に本田の姿はない。そのことに安堵する自分はやはり滑稽だった。
 
 
「あっ、明人、大丈夫? 体調悪いって、頭痛いの?」
 
 
 心配そうに木野が尋ねてくる。その不安げな表情に申し訳なさを感じながら、鹿瀬は曖昧に微笑んだ。
 
 
「少しね。だけど、保健室行く途中でかなり普通に戻ったから、もう大丈夫だと思う」
「ほんとに? イブあるけど飲む?」
 
 
 ピンクのリボンが誂えられたポーチから、木野が小さなジップロックに包まれた錠剤を取り出す。
 
 
「それじゃ一錠貰ってもいい?」
「十五歳以上は一回二錠だよ。ちゃんと決められた数飲まないと、利くものも利かなくなっちゃうよ」
 
 
 諭すような口調で言いながら、木野は母親のような甲斐甲斐しさでシートから取り出した真っ白い錠剤を二錠鹿瀬の掌へと乗せた。嘘の気まずさを感じながら、鹿瀬は買ってきたオレンジジュースで錠剤を咽喉へと流し込んだ。甘ったるい味が咽喉の奥に貼り付く。
 
 
「ご飯は食べれる?」
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。少し頭がくらくらしたぐらいだから」
「でも、心配だもん。今日は部活なかったから、すぐ帰れるよね?」
「うん、そうだね」
「お前、まだ女の子部辞めてねぇの?」
 
 
 横から森が茶々を入ってきた。森が女の子部と呼ぶのは調理部のことだ。呆れたように森は肩を竦めている。
 
 
「女の子部って・・・調理部だってば」
「別れた彼女に連れられて入ったのに、まだ律儀に続けてんのかよ」
 
 
 ぐっと一瞬言葉に詰まった。木野の前で別れた彼女の話をするのは、どうにも気まずい。
 
 
「別れたんで、じゃあ辞めますなんて、他の人に対して失礼じゃないか。それに、意外と性にあってたんだよね。粉から形のあるケーキに変わったりすると、何だか魔法がかかったみたいで面白いよ」
「その理屈っつうか乙女思考? さっぱりわかんねぇな」
 
 
 アメリカ人のような大振りな仕草で、森がさっぱりとばかりに両手をあげる。それに対して、木野が頬を膨らませた。
 
 
「別に森なんかに解んなくてもいいもん。いっつも美味い美味い言いながら、明人の作ったお菓子食べてるくせに。そんなこと言うなら、もう秋人の作ったストロベリーマフィン食べさせてやんないから」
 
 
 ストロベリーマフィンは鹿瀬の一番得意な菓子だ。森と木野の大好物でもある。月に一回作った時は、二人で奪い合いになるほどだ。
 
 森が慌てて、身を乗り出す。
 
 
「な、何で木野が決めてんだよ」
「だって、彼女だもーん。彼女の意見は最優先にするべきって世の中の常識があるのよ」
 
 
 腰に手を当てて、堂々と木野は言い放つ。その姿を見て、唖然と森が呟いた。
 
 
「おい、鹿瀬。御前の彼女、相当な暴君だぞ」
 
 
 力ない森の一言に、鹿瀬は声をあげて笑った。木野の清々しいまでの理屈が鹿瀬には気持ちよかった。腹を抱えて笑っていると、思い出したように木野が鹿瀬の顔を覗き込んできた。その顔は不安そうに強張っている。
 
 
「ちょっと調子良くなってきたみたいだね。でも、何でいきなり体調悪くなっちゃったのかな?」
「ストレスじゃねぇの?」
 
 
 木野の声に被さるようにして、森がしらっと呟く。木野が小首を傾げながら、ストレス?と鸚鵡返しに訊ねる。
 
 
「ストレス、って何のストレス?」
「ヤバげな転校生が来たからさ、“気にしい”の鹿瀬がさっそくストレス溜めたんじゃねえかなって思って」
「転校生が来たの?」
 
 
 木野の顔が怪訝そうに歪む。その眉間に浮かんだ皺を横目で見遣って、鹿瀬は余計なことを言うなとばかりに慌てて森をねめつけた。だが、森がその視線に気付く様子はない。くるりと後ろ向きに椅子に座ると、世間話を楽しむ主婦のような薄笑いを浮かべる。
 
 
「そうそう。顔面痣とか傷だらけでさ、すっげーヤバげな空気かもし出してんの。不良っつうかヤクザみてぇな感じの奴」
「そいつが明人に何かしたの?」
「俺は何もされてないよ」
 
 
 一気に不機嫌になった木野の声音に、鹿瀬は慌てて言葉を差し込んだ。胡乱気に木野が鹿瀬を見遣る。まるで自分の子供がイジメられているのではないかと心配する親のような眼差しだ。
 
 
「本当に、何もされてないから」
 
 
 誤解を解こうと、今度は同じ言葉をゆっくりと繰り返した。しかし、鹿瀬の弁明などどうでもいいと言わんばかりに森が更に言葉を続ける。
 
 
「でも、何つうか、あの威圧感? すげーよな。居るだけで、何か内臓にビリビリ来んもん。マジ俺の後ろの席じゃなくて良かったわー」
 
 
 こういう森の無神経と紙一重の素直さを、鹿瀬はそれほど嫌いではなかった。だが、流石に今の言葉には苛付く。眦を微かに尖らせると、鹿瀬の苛立ちに気付いたのか、森が慌てて言葉を付け加えた。
 
 
「いや、鹿瀬の後ろでよかったっつう意味じゃねぇかんな。ごめんな、俺ヤなこと言ったな」
 
 
 謝罪の言葉を返されれば、多少は込み上げていた溜飲が下がる。森のこういう表裏のないところがどうにも憎み切れない。鹿瀬は一度首を左右に振ってから、溜息混じりに呟いた。
 
 
「本田は、まだこのクラスに来たばっかりなんだぞ。不良とかヤクザみたいとか、変な先入観持ったら可哀想だろうが」
「でも、俺が言わなくたって、もうクラス中で噂になってんぜ。武闘派ヤクザの跡取り息子とか、実は二回留年してて少年院返りだとか」
 
 
 そう言われてみれば、確かに教室は普段よりもざわついていた。みんなの視線の先には、黒板に書かれた名前がある。その視線を追うように、木野が黒板をちらりと見遣った。そうして、ぱちぱちと数度瞬くと、「あれ?」と不思議そうな声をあげた。
 
 
「本田仁って、あの本田仁かな?」
「木野ちゃん、知ってんの?」
 
 
 森が好奇心丸出しで問い掛ける。森は野球をやめてからはこういう俗っぽい話に目がないのだ。木野は数秒思考を巡らせるように目蓋を伏せてから、鹿瀬へと視線を向けた。
 
 
「ね、小学生の同級生に本田仁っていたよね? 確か、明人は結構仲良かったんじゃなかったっけ?」
 
 
 今ばかりは木野の記憶力の良さが恨めしかった。鹿瀬は苦笑いを零しながら、とりあえずは「そうだったっけ?」と曖昧な答えを返しておいた。
 
 
「でも、よくある名前だし、同姓同名なだけの別人じゃないかな。顔も姿も…全然違ったし」
 
 
 それが自分の願望だということは解っていた。歯切れ悪く答えるのと同時に、教室後方の扉が開いた。片手に牛乳の紙パックを持った本田が相変わらずの無表情で教室へと入ってくる。
 
 途端、教室のざわめきが乱れた。話題を必死に逸らそうとするよそよそしさが教室内部を満たす。当の本人を目の前にして噂話をするほど、このクラスの生徒達は図太くはないのだ。だが、一人だけ例外がいた。木野は、席についた本田へと無遠慮に近付くと、開口一番でこう訊ねた。
 
 
「ねぇ、朝日小学校で同級だった本田君でしょう?」
 
 
 一瞬、鹿瀬は悲鳴をあげそうになった。今すぐ木野の首根っこを掴んで、この教室から逃げ出したい。だが、身体は硬直したままピクリとも動かなかった。
 
 本田はその唐突な質問に対して驚くわけでもなく、細いストローを口の端に咥えたまま、気だるげに溜息をひとつ零した。
 
 
「あんた誰?」
 
 
 ぶっきらぼうで傲慢な口調だった。木野が一瞬怯んだように口角をキュッと引き締めてから、気を取り直したように明るい声をあげた。
 
 
「覚えてないかな? 六年生のときに同じクラスだった木野京香。ほら球技大会のときに、本田君の顔に思いっきりボールぶつけちゃって先生にすごい叱られたんだけど。あの時、本田君口元まで真っ赤になるぐらい鼻血出しちゃってさ…」
「悪いけど」
 
 
 思い出話を制止するように、本田が鋭い声をあげる。
 
 
「悪いけど、事故にあったせいで小学生の頃の記憶がないんだ。あんたのことも全然覚えがないし、そもそも俺があんたの同級生の本田仁なのかも解んねぇよ」
 
 
 露骨に苛立った声だった。昔話をされるのが不愉快で堪らないというような様相だ。威嚇する犬のように鼻梁に皺を寄せたまま、本田はちらりとも木野の顔を見ようとはしない。
 
 
 『小学生の頃の記憶がない』
 
 
 その言葉に、硬直していた鹿瀬の身体から力が抜ける。
 
 
 ――本当、本当に? 覚えていない? あの事を全部忘れてしまったのか?
 
 
 安堵と紙一重の疑惑に包まれたまま、鹿瀬は必死で二人の会話に耳を澄ませた。
 
 
「え、事故って交通事故とか?」
「それがあんたに関係あるのか?」
「そりゃ、関係っていう関係はないけど…」
 
 
 眉ひとつ動かさずに、本田は拒絶の言葉を吐き出す。狼狽する木野の姿が妙に痛々しい。普段から人懐っこくて明るい木野は、誰かにこんな冷たい態度を取られたことがないのだ。
 
 もう本田に構わない方がいい。唸る獣の鼻面を無防備に撫でようとするものだ。今にも噛み付かれそうで危なっかしくて仕方ない。それを伝えたくて、鹿瀬は押し留めるように木野の手首をそっと掴んだ。
 
 
「木野、もう…」
「じゃ、じゃあ、明人のことは覚えてない? 鹿瀬明人、よく一緒に遊んでたでしょ?」
 
 
 足掻くような木野の台詞に、逸らされていた本田の目が不意に鹿瀬を向けられた。
 
 鹿瀬は見た。本田の首筋に一気に鳥肌が浮かんで、それからその皮膚から血の気がすっと失せていくのを。見開かれた本田の目に映っているのは驚愕だ。だが、その驚きの色はすぐに消えて、一気に眼球の奥に憎悪の炎が鮮やかに燃え上がった。隠し切れない殺意に血走った眼球が鹿瀬を貫く。
 
 目を、逸らすことが出来なかった。その眼差しが鹿瀬を業火の底へと引き摺り込む。今まで必死に閉じ込めていた記憶がおぞましい唸り声をあげる。
 
 目を逸らしたのは本田が先だった。
 
 
「――覚えてない」
 
 
 冷たく低く、水底へと沈んでいく死人のような声音だ。本田は噛み締めるように呟くと、そのまま不愉快そうに下唇を薄っすらと噛んだ。
 
 
「え、本当に覚えてないの? じゃあ、六年のときの担任の長谷川先生は…」
「あんた、鬱陶しいな」
 
 
 なおも会話を続けようとする木野の言葉を遮って、冷え冷えとした本田の声が響く。低いくせに、よく通る声だった。木野が凍り付く。
 
 
「え…」
「うざってぇっつってんだよ。自己満足なお節介やいてんじゃねぇ。俺が覚えてようが覚えてまいが、お前には何の損得もねぇだろうが。くだんねぇ好奇心で首突っ込んできてんじゃねぇよ。そういうのが一番苛付くんだよ」
 
 
 つらつらと悪態を吐き散らかす。だが、決して感情的ではなく、どこか事実を告げるような平坦で抑揚のない口調だった。だからこそ余計に冷酷に聞こえた。
 
 掴んだときは温かかった木野の手首から少しずつ体温が抜けていくのが判る。木野が傷付いているのが顔を見なくても判る。不意に猛烈な怒りが込み上げて、鹿瀬は下唇を噛み締めて言った。
 
 
「そんな言い方はないだろうが」
 
 
 怒りを滲ませた鹿瀬の言葉に、本田が鼻で嗤う。
 
 
「お優しいことで。王子様気取りかよ」
「木野は、ただ話し掛けただけだろうが。そこまで言う必要がどこにある」
「思ったことを言って何が悪い。それとも愛想笑いのひとつでも返してやりゃ良かったのか? それこそ俺がその女にそこまでしてやる理由がどこにある。お前らの常識を、勝手に俺に押し付けてくんじゃねぇよ」
 
 
 そう吐き捨てると、本田は空になった牛乳パックをゴミ箱へと投げ捨てて、平然とした足取りで教室から出ていった。その後姿は、嫌悪を覚えるほど傲慢だった。人一人傷付けて、何の良心の呵責もない姿だ。
 
 最低だ。どうして、ただ話しかけてきただけの相手にあんな酷いことが言えるんだ。
 
 教室にざわめきが戻ってくる。うへぇ怖えーだとか、悪ぶってるのが格好良いとでも思ってんのかとか、せっかく話しかけてあげたのに木野ちゃんが可哀想だよ、あいつ最悪、などと大抵が本田に対する罵りで占められている。
 
 
「木野、大丈夫?」
 
 
 木野は、まだ放心状態だ。手を引いて椅子へと座らせると、木野は気の抜けた声でぽつりと呟いた。
 
 
「あたし…何か悪いこと言っちゃった?」
「何にも言ってないよ。たぶん虫の居どころが悪かっただけで、木野は何も悪いことはしてない」
「そうかな…? それなら良いんだけど…」
 
 
 はは、木野が小さく笑い声をあげる。どうやっても空笑いにしか聞こえない笑い声が悲しい。予期せず傷付けられたことに対して、心が上手く対処が出来ていないようだった。軽く背中を撫でると、ひくりと木野が咽喉を震わせた。
 
 
「結局、あれってあの本田仁だったのかなぁ…?」
 
 
 力ない木野の呟きに、森が肩を竦める。
 
 
「どっちでもいいよ。とりあえず超感じ悪いし、もう関わんないようにしようぜ」
 
 

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