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04 いたいこと

 
 それから数日間、鹿瀬は本田のことを頭から締め出そうとした。木野を傷付けたことが許せなかったのもあるし、本田を記憶の中のあの子とだぶらせるのが嫌だったのもある。
 
 だが、本当の理由は、単純に本田が恐ろしかったからだ。あの子と同一人物だという確証を得るのがどうしても怖かった。
 
 忘れよう忘れようと思うのに、まるでとり付かれたように何度も夢に本田が出てきた。小さいあの子と鋭い目を持つ本田が二人並んで、鹿瀬を罵り、呪詛を吐き捨てる。
 
 
『裏切り者!』
『償え! 俺に償え!』
『のうのうと暮らして、罪悪感の欠片もないのか人間のクズが!』
 
 
 突き付けられる言葉に、鹿瀬は必死で耳を塞ぐ。
 
 至近距離で鹿瀬を睨み付ける本田の目。鹿瀬を貫く、憎悪に血走った眼球だ。
 
 鹿瀬は、悲鳴をあげる。悲鳴に混じって、ごめんなさいごめんなさい、俺が悪かった、許して許して、と喚き散らす。だが、あの子も本田も、鹿瀬を許しはしない。鹿瀬は、延々と言葉で嬲られ続ける。
 
 悪夢に貪り尽くされたところで、鹿瀬は目を覚ます。胸に残るのは酷い罪悪感だけだった。
 
 
 
 
 
 事件が起こったのは、本田が転校してきて五日目のことだった。昼休み、コロッケパン片手に購買から教室へと戻ってくると、教室の辺りがやけにざわついていた。教室を覗き込むと、五人の男達に取り囲まれるようにして本田が教室の中央に立っていた。椅子や机が薙ぎ倒されているところを見ると、どうやら穏やかならざる状況らしい。
 
 廊下へと逃げ出していたらしい森に、背後から肩を叩かれる。
 
 
「おい、教室に入んなよ」
「何があったの?」
「転校してから挨拶がねぇって平方が本田に因縁つけに来てんだよ」
 
 
 平方というのは、この学校で不良と呼ばれる類の生徒を取り仕切っている男だ。髪の毛を白黒のまだら状に染めて、鼻にでかい金のピアスをつけている姿を見て、まるで牛のようだと思った記憶がある。親が市議会議員をやっているということで、その容貌や素行に学校からお咎めを与えられることなく、好き放題暴れる小さなギャングだ。
 
 平方がにやにやと陰湿な笑みを浮かべて、品定めでもするように本田の周りをゆっくりと回っている。それに対して、本田は酷く億劫そうな表情を浮かべていた。
 
 
「先生を呼ばないと」
「呼んでどうすんだよ。どうせ平方の親父が怖くて、うやむやにするだけじゃん」
「でも、放っておくわけにはいかないだろうが」
「別にいいじゃん。あんな奴のこと庇うことねえよ」
 
 
 森の素っ気ない台詞に、微かに怒りが込み上げてくる。確かに鹿瀬だって、本田のことを好意的に見ているわけではない。だからといって、一方的にリンチされるのを、むざむざ見ているだけなんてできるわけがない。
 
 先生を呼ぼうと踵を返したその時、不意に鋭い悲鳴が響いた。まるで踏み潰された猫のような声だと思った。本田を取り囲んでいた男の一人が顔面を押さえて蹲っている。鼻頭を押さえる掌の隙間から、ぽつぽつと赤い液体が床へと滴り落ちていた。
 
 
「な、何すんだよ!」
 
 
 平方が狼狽したように喚き散らす。それに対して、本田は朗らかとも思える嘲笑を口角に浮かべた。
 
 
「何するって、お前らは喧嘩をしに来たんだろう?」
「でっ、でも、いきなり殴るとか卑怯だろうが!」
「はぁ? 喧嘩に卑怯もへったくれもあるかよバァカ。そもそも五対一で戦おうとしてたくせに、今更阿呆なこと言うなよ、萎えるだろうが」
 
 
 本田が余裕綽々に肩を竦める。
 
 そうして、平方が次の言葉を発する前に本田の拳が舞った。真っ直ぐ、決められたルートをなぞっているような綺麗なフォームで、平方の顔面中央を打ち抜く。一連の行動は猛烈なスピードで行われているはずなのに、なぜか鹿瀬にはそれがスローモーションに見えた。本田の右拳が平方の鼻を左へとへし曲げていき、鼻の穴から飛び散った鼻血が空中にゆっくりと飛び散る様子。パキッとまるで鉛筆でも折れたような音が響いた。それが鼻骨が折れた音だと気付いた瞬間、一気に鳥肌が立った。
 
 
「ぎゃ、ひぎゃヴぅア゛ぁ!!」
 
 
 平方の絶叫が迸る。何が起こったのか把握できず周りの取り巻きの男達が呆然と突っ立っているのを、本田はまるで流れ作業のように一人一人叩き伏せていった。鼻、顎、コメカミ、鳩尾、と人体の急所を的確に狙って、男達をオモチャのように床へと這い蹲らせる。おそらくすべて終わるのに一分も掛からなかった。気付けば、教室の中で立っているのは本田だけになっていた。
 
 本田は血に汚れた右拳をだらりと垂らしたまま、つまらなさそうな表情で平方たちを見下ろしている。買ったばかりのオモチャが思った以上に退屈だったと言わんばかりの表情だ。
 
 平方が鼻からだらだらと血を零しながら、ぐぅうと獣のような呻き声をあげる。平方の鼻は、折り目でも付けられたかのように真横にぽっきりと折れていた。鼻につけた金色のピアスが血に塗れてギラギラと卑しく光っている。
 
 
「てめえ゛ぇ、ごんな゛ごとして、どうなる゛か分がってんだろうなぁあ」
「どうなるか教えてくれよ」
 
 
 平方の呪詛に対して、長閑さすら感じさせる声音で本田は尋ねた。平方の前にしゃがみ込むと、本田はその顔をゆっくりと覗き込む。
 
 
「だ、退学に゛じでやるから゛なあぁ。ぞれだけじゃねぇ゛。ごろして、コンクリ詰め゛にじて、海に゛沈めでやる゛ヴぅう」
 
 
 もう既に、平方の言葉は幼稚園児の駄々のようにも聞こえた。だが、血と憎悪にまみれたその表情は壮絶だ。本田が薄っすらと笑みを浮かべる。
 
 
「いいね、殺してみろよ」
 
 
 挑発の言葉に、平方の目が血走る。赤黒く染まった眼球は、明らかに脳味噌のどこかがプツンとキレた証拠だった。平方の手がズボンのポケットへと滑り込んだと思った次の瞬間、鈍く光るナイフが視界に映った。
 
 周りから女子生徒の甲高い悲鳴があがる。
 
 
 『馬鹿、よけろ!』
 
 
 頭の中の声よりも先に、身体が動いていた。滅茶苦茶なフォームで、右手に持っていたコロッケパンを思いっきり投げる。
 
 ナイフの切っ先が本田の顔面へと向かって突き出される。本田は相変わらず笑っている。まるで刻一刻と自分自身へと近付いてくる死が楽しくて堪らないと言いたげな酷薄な笑顔だ。
 
 肉厚なコロッケパンは、ナイフを握り締める平方の腕にぼすんと音を立てて当たった。そのおかげか、僅かながらにナイフの軌道がズレる。ナイフの切っ先は、本田の左頬を掠めて、空を切った。血が空中を飛び散った。本田の左頬が薄く裂けて、ゆっくりと血を零し始める。
 
 本田はどこからか飛んできたコロッケパンに瞬きを数回繰り返した後、鹿瀬を見て露骨に眉を顰めた。余計なことをしやがって、という軽蔑の表情だった。左頬から流れる血に気付いても、本田の顔からは焦りは見えなかった。
 
 それに反して、平方はナイフについた血を見て、茫然自失状態になっているようだった。他人から流れる血を見て、ようやく自分がしでかした事に気付いたようだ。結局のところ、平方は他人を傷付けることに慣れていない甘ったれでしかなかった。
 
 
「つまんねぇの。ナイフなんてガキでも持ってるもん出して粋がってんじゃねぇよ。せめて銃ぐらい出してから、殺すとかほざけっつうの」
 
 
 平然とした口調でそう言って、本田は右拳で平方の頭部を思いっきり殴り飛ばした。ゴギッと頭蓋骨が鈍い音を立てる。ガクンと平方の身体が跳ねて、完全に意識を失ったのか床へと突っ伏した。
 
 本田の左頬からは、たらたらと真っ赤な血が流れ続けている。本田は焦るわけでもなく、ゆったりとした仕草で床に落ちたコロッケパンを拾った。鹿瀬へと近付くと、億劫そうに差し出してくる。
 
 
「よりにもよってコロッケパンかよ」
 
 
 嘲りじみた台詞を吐き出して、コロッケパンを鹿瀬の胸元へと乱暴に押し付ける。本田の左頬に赤黒く開いた生々しい傷口が見えて、くらりと眩暈を覚えた。
 
 
「本田、血が出てる」
「切られりゃ誰だって血ぐらい出る」
「痛くないのか?」
「そりゃ痛ぇよ」
 
 
 こともなげに本田は言い放って、ぽたぽたと左頬から流れる血を手の甲で拭った。その手の甲にべったりと血の色がこびり付く。その色の鮮やかさに、息が止まりそうになった。
 
 
「早く、病院に行こう」
「必要ねぇよ」
「何言ってんだ。そんなに血が出てるのに」
 
 
 咄嗟に本田の腕を掴もうと動いた。だが、本田に触れる前に、パシッと破裂音にも似た鋭い音が響いた。本田に手を払われたと気付いたのは、触れようとした手がぢんぢんと痺れるように痛み始めた頃だ。本田が憎悪の眼差しで、鹿瀬を睨み付けている。
 
 
「余計なことすんな、お節介野郎」
 
 
 一言吐き捨てて、本田は早足で去っていった。本田が歩いた床には、ぽつぽつと血の跡が残っている。
 
 本田の姿が消えた頃になって、ようやく周囲がざわつき始めた。大半が本田に対する侮蔑の言葉だが、中にはあんなにも簡単に平方を打ち倒したことに対する賞賛も聞こえてくる。だが、そのどちらも鹿瀬の耳には入らなかった。
 
 鹿瀬は見た。鹿瀬の手を振り払った本田の掌が細かく震えていたのを。余計なことをするな、と吐き捨てた声が微かに掠れていたのを。憎悪を映し出した眼球の奥に、紛れもない恐怖が覗いていたのを。その目を、鹿瀬は見たことがあった。小学四年生の時、忘れられない記憶の底にその目があった。
 
 今この瞬間、鹿瀬は確信した。
 
 
 本田は、あの本田仁だ。鹿瀬の親友だったあの小さくて可愛いあの子が、大きく凶暴な暴君になってこの町に戻ってきた。鹿瀬の目の前に。
 
 
 過去の罪悪が心臓をぞわりと舐めるのを感じながら、鹿瀬は首筋を粟立たせた。
 
 

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Published in その他

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