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06 いたいこと

 
 調理部があるのは、毎週水曜日の放課後と決まっている。部長の峰谷が一抱えもある大きなボウルに入ったカスタードを力強く掻き回している。その横で、鹿瀬は上の空のまま重ねたパイ生地を棒で引き伸ばしていた。
 
 普段だったら多少の高揚感を持って部活に挑んでいただろう。お菓子作りは好きだし、女の子達の理解不能な話に笑って相槌を打ち続けるのだって苦痛ではない。だが、今は部活に打ち込むだけの精神的な余裕がなかった。
 
 頭の中を占めているのは本田のことだけだ。本田は鹿瀬が傷付けたあの子に間違いなかった。記憶も失っていない。本田はすべて覚えている。だからこそ、あんな苛烈な眼差しで鹿瀬を見るのだ。そうして、あの視線が意味するものは一つだ。
 
 
 本田は鹿瀬を恨んでいる。
 
 
 憎まれていることを自覚すると、腹の底にぢくぢくとした痛みが生まれた。あれは仕方なかったんだと言い訳をしたくなる。だけど、言い訳なんかしたところで過去の罪悪が消えるわけでもなかった。
 
 鹿瀬は本田に恨まれても憎まれても仕方ない。なぜなら、鹿瀬は本田に一言も謝っていないのだ。謝るタイミングはいくらでもあった。あの後、本田の家に行けば良かったし、引っ越しした後だって頑張れば居場所ぐらい突き止められたはずだ。それをしなかったのは、鹿瀬が臆病だったからだ。自分自身の罪を直視したくなかったからだ。臆病を理由にすべてを忘れようとした自分は、誰よりも卑怯で姑息だった。
 
 謝りたい。許されたい。本田のためではなく、自分自身のこの罪悪感を何とかしたいがために謝りたい。利己的な感情が込み上げてきて、それが余計に鹿瀬を苦しめた。猛烈な自己嫌悪にさい悩まされて、体内から破裂しそうになる。
 
 殆ど機械的な動作でパイ生地を伸ばす。上の空だったせいか、規定より大分薄くなってしまったパイ生地が真ん中からパックリと裂けてしまった。
 
 
「あらら、珍しいね。鹿瀬君が失敗するの」
 
 
 峰谷部長が横から覗き込んでくる。眼鏡の奥の瞳が物珍しそうに鹿瀬を見上げている。その視線に苦笑いを返しながら、鹿瀬はパイ生地を慌ててまとめた。
 
 
「すいません、考え事してて」
「ふぅん」
 
 
 曖昧に肩を竦められる。自分が初歩的なミスをしてしまった事に鹿瀬は露骨に落ち込んだ。一体自分は何をしているんだ。
 
 
「恋わずらい?」
 
 
 不意に問いかけられた言葉の意味が解らなかった。棒に小麦粉を振りかけながら鹿瀬は首を傾げた。
 
 
「はい?」
「考え事って恋わずらい?」
 
 
 峰谷部長は時々突拍子もない発言をしたりする。元々陽気で軽口を叩くところがある上に、人を困らせたり揶揄かうのがお菓子作りの次に好きなのだ。にやっと笑みを浮かべて、どこか窺うような表情で鹿瀬を見ている。
 
 本田のことを考えている時に、恋わずらいなどと言われて鹿瀬は見るも明らかに狼狽した。
 
 
「俺、彼女いますから」
「知ってるよ。でも、彼女がいたって恋わずらいはするよ。恋をすればするほど恋わずらうことは多しってね」
「そんなの誰が言ってるんですか」
 
 
 呆れて少しため息が零れた。峰谷部長は決して悪い人ではないが、適当に作った名言をこの世の真理とばかりに吐き出しては人の心を掻き乱すという癖がある。
 
 
「世の中の恋する皆様よ。この心が解らないなんて、鹿瀬君もまだまだ恋愛初心者だなぁ」
 
 
 そもそも考えていたのは、恋人である木野のことではなく最近転校してきた凶暴な男のことだと正直に答えたら、峰谷部長はどんな顔をするだろうと一瞬考えた。だが、それはそれで面白がって事態をややこしくさせそうだと思い、鹿瀬は苦笑いを浮かべてパイ生地を伸ばす作業に戻った。
 
 
 結局パイ生地は失敗作に終わった。パイがまったく膨らまず、ナンのようにぺちゃんこになってしまったのだ。本当はパイ生地の間にカスタードを挟もうという目論見だったが、挟むだけの厚みもなく仕方なくぺちゃんこなパイの上にカスタードを塗り付けて食べた。
 
 落ち込む鹿瀬を、部員達が「でも、これも悪くないよ」「噛みごたえが斬新で、結構美味しいかも」などとフォローを入れてくれるのが余計に切ない。峰谷部長だけが「うわっ、パイまずっ」と本音を漏らす。むしろ、今の鹿瀬にはみんなの優しさよりも、峰谷部長の毒舌の方が有り難かった。
 
 口直しの紅茶を啜りながら、峰谷部長が声をあげる。
 
 
「そういえば、鹿瀬君のクラスに転校生来たよね」
 
 
 一瞬心臓が跳ねた。平静を装いながら、鹿瀬は「はぁ」と曖昧な返事を返した。
 
 
「あの子、うちの近所に住んでるみたい。この間、えびす商店街でおばあちゃんと買い物してるの見かけたもの」
「おばあちゃんとですか?」
「そうそう、仲良さそうに腕組んでさ。みんなが言うほど凶暴そうには見えなかったけどね」
 
 
 本田の祖母がこの町いるというのは初耳だった。
 
 
「他に家族は一緒にいなかったんですか?」
「いなかったね。一人で戻って来たんじゃない?」
 
 
 高校進学のために家族と離れて、親戚の家に居候してるとかさ。と峰谷部長が言葉を続ける。思わずパイを食べるのも忘れて峰谷部長を凝視していると、峰谷部長が唇の端を意地悪く吊り上げた。 
 
 
「何? 興味津々?」
 
 
 はっとした。峰谷部長は人の弱味を探すのも得意だった。鹿瀬は一度首を左右に振ると、事もなげに「いいえ」と言い切った。
 
 
「ただ、どんな奴かなとは思います。あんな暴力事件起こした奴ですから」
 
 
 昨日の本田の暴力事件の話は、すでに全校生徒へと広まっていた。結局本田は一週間の停学を命じられたらしい。喧嘩を売ってきたのが平方側で、なおかつナイフを出したのも平方というところから多少は情状酌量がされたらしい。背後の空席を見ると、鹿瀬の心は微かに軋んだ。
 
 
「みかん好きよ」
「は?」
 
 
 それまでの会話にそぐわぬ発言に、鹿瀬は怪訝そうに峰谷部長を見遣った。峰谷部長はパイに乗ったカスタードをべろりと舐めながら、もう一度繰り返した。
 
 
「みかん好きよ」
「み、かん?」
「そう。おばあちゃんと大量のみかん買ってたの。一袋十個入りを三袋。これはみかん好きって言って間違いないでしょ?」
 
 
 頭の中に、オレンジ色の丸い形を思い浮かべる。それを本田の姿と重ねることが出来ず、鹿瀬は軽く首を傾げた。
 
 

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Published in その他

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