Skip to content →

桃井さんとヤクザ 11

 
 度肝を抜かれたのは、きっと僕だけではないはずだ。楓子がベンチから転げ落ちそうな勢いで仰け反っている。見開かれた目は、化粧をしていないにも関わらず三割り増しに大きくなっていた。
 
 
「あたし?」
「それが一番収まりが良い」
 
 
 楓子の問い掛けに、桃井さんが現実的な返事を返す。真樹夫は、ちらりと楓子へと視線を投げてから、眉を顰めた。
 
 
「難しいなぁ」
「あんたが推薦したら何とかなるだろう」
「面倒臭い上に、得も何もあらへん。あんたの頼みにしたって、割りに合わん」
「吾妻組への上納金を、今の三割増しにしたら?」
 
 
 唐突に楓子が言う。その穏やかな口調に対して、目には微かに燃え上がり始めた情念が渦巻いていた。真樹夫がへぇとでも言わんばかりの様子で、唇を笑みに歪める。
 
 
「ほんまに出来るん? 今の上納金だけで精一杯の皇龍組が三割増しなんざ、ほら吹きもええとこやわ」
「今は、兄貴と小倉が争ってるから組自体が傾いて、金の流れが悪くなってるだけ。それにあたしが組長になったら、もっと賢い方法を使う」
「賢い方法?」
「女をつかうわ」
 
 
 簡素な一言だったが、その一言に女のおぞましさが漂っていた。真っ直ぐ前を見据える楓子の横顔には、悲壮なまでの決意が映し出されている。
 
 
「兄貴も小倉も馬鹿よ。女に稼がせるのは男の恥だと思ってるの。だから、キャバもソープも上前はねるだけで自分達で経営しようとはしない。だけど、本当に金を得ようと思うなら、自分達で女を使役するべきなのよ。だから、あたしはそれをする。皇龍組経営の女の棲家を作って、とことん金を搾り出すわ」
「ほんまにできるんか?」
「できないことは言わない。必ずやる」
 
 
 吐き捨てるように言って、楓子はじっと真樹夫を凝視した。
 
 
「女は怖いわぁ。同じ女を簡単に地獄に突き落とせるんやけぇ」
 
 
 戯れながら心臓を抉るような言葉に、楓子は表情一つ変えなかった。真樹夫は暫くにたにたと笑ったまま楓子を見下ろしていたが、次の瞬間、呆気なく言った。
 
 
「ええよ。じゃあ、俺はあんたの後見人っちゅうことで」
 
 
 楓子の髪へと指先を滑らせながら、真樹夫はぞっとするぐらい優しげな声でこう続けた。
 
 
「リスクを負うんは、あんただけやない事を忘れたらあかんよ。もし今言った事が守られんようなら、皇龍組は今度こそ跡形もなく食い潰されるってよう覚えとき。可愛え組員の内臓抜かれて、女共が全員薬漬けでソープ嬢になるの嫌やろ?」
「あたしはそんな馬鹿はしない。自分が言ったことは、ちゃんと守るわ」
 
 
 真樹夫の咽喉の奥で、隠微な笑い声が転がる。そのまま、うやうやしい手付きで真樹夫は楓子の手を取った。まるでエスコートされるかのように楓子は立ち上がり、それから桃井さんを見て一言呟いた。
 
 
「モモちゃん、こうなるって解ってたから、私を助けてくれたの?」
 
 
 助けを求めるとも糾弾しているとも取れる言葉だった。桃井さんは一瞬傷付いたように顔をくしゃりと歪めたが、結局何も答えなかった。ただ、視線を逸らして、満腹になって地面に寝そべる犬鍋太郎の腹をそっと撫でた。
 
 楓子の手を掴んだまま、真樹夫が場にそぐわぬ和やかな笑い声をあげる。
 
 
「可哀想になぁ。自分の兄貴と恋人の命守るために、背負いたくもない組長の座を横から掻っ攫って、この女は身内からとことん恨まれるやろう。その上、組員の内臓担保にさせられて、女共を売り飛ばして、食い潰して、この女はこれから鬼にならんにゃあかんのんや。誰も信用できず、金にしがみ付いて生きる人生が始まるんや。最低で最高の大団円やないか」
 
 
 心底楽しそうな真樹夫の笑い声に、胃の辺りにムカムカとした濁りが溜まって行く。桃井さんは、俯いたまま顔を上げない。真樹夫は更に続ける。
 
 
「なぁ、モモイ、あんたにずっと聞きたいことがあったんや。あんたのせいで人生滅茶苦茶になった人間は何人おるんや?」
「人数なんか、数えてない」
「あんたは自分を悪だと感じたりするんか? 他人の人生を踏み躙ったことに対して、何とも思わんのんか?」
 
 
 悪意に満ち満ちた真樹夫の言葉に、桃井さんは押し黙った。俯き、目蓋を閉じたまま、貝のように黙り込む姿は、まるで懺悔しているようにも見えた。だけど、顔を上げた桃井さんの顔面には、紛れもない嘲笑が滲んでいた。
 
 
 
「―――たかが、人生じゃねぇか」
 
 
 
 そう確かに、吐き捨てるように桃井さんは言った。鼻先でせせら笑い、さっさと行けとばかりに真樹夫へとぞんざいに顎をしゃくる。
 
 真樹夫は笑い、楓子は少し悲しげな眼差しで桃井さんを見詰めた。桃井さんは真っ直ぐ前を見据えたまま、誰とも視線を合わせようとしない。傲慢な姿だった。他人の人生を食い潰して、それに罪悪感も感じていない、感じることすら愚かだと言いたげな様子だった。
 
 だけど、僕は見た。ベンチの背凭れの裏に垂れ掛けた桃井さんの指先が小さく震えているのを。嗚呼、と呻き声が零れそうになった。この人は、本当にどうしようもない。
 
 
「またなぁ」
 
 
 気の抜けた声で挨拶を漏らして、真樹夫と小山、それから楓子が去っていく。公園入口につけられた車まで戻ったところで、真樹夫が思い出したように車のトランクを開いた。
 
 
「モモイ、これやるわ」
 
 
 トランクからずるりと引き出されたのは、擦り切れてボロ雑巾のようになったあのぎょろ目男だ。ビリビリに破れたシャツの隙間から、鮮やかに赤い血が滴り落ちていた。マッチ棒のように細い腕が二本とも見当違いな方向に折れ曲がっており、口を塞がれた顔面は目を覆いたくなるほどパンパンに腫れ上がっている。つい数時間前には桃井さんの事務所に銃弾を撃ち込んでいたはずなのに、一体何があったのかというぐらい傷付き憔悴し切った様子だった。
 
 桃井さんは一瞬眉を顰めてから、ゆったりとした足取りで車へと近付き、コンクリートの上を転がされたギョロ男を見下ろした。
 
 
「こいつ、あんたんとこの事務所襲った奴やろ? ほんまはこのままコンクリート詰めにして沈ませたろう思っとったんやけど、あんたが欲しい言うならくれたるけど?」
 
 
 真樹夫がにっこりと笑って、芋虫のように蠕動するぎょろ目の脇腹を爪先で蹴り飛ばす。ぎょろ目が鈍い唸り声を上げるながら悶える。桃井さんを見上げるぎょろ目の眼球には、微かな焦燥と、温情を乞うような惨めさが浮かんでいた。
 
 桃井さんはぎょろ目を見詰めたまま、何も答えない。真樹夫が緩く首を傾げる。
 
 
「要らん? 要らんのんなら、まぁ可哀想やけど沈めようかぁ」
 
 
 可哀想なんて欠片も思っていないような声で言う。ぎょろ目の眼球が極限まで開かれる。瞳孔が広がって、その咽喉から呻き声が溢れ出す。
 
 そんなぎょろ目の様子を意に介することもなく、真樹夫がゆったりと欠伸を漏らすのを見て、皮膚がぞっと粟立った。良心の呵責なんて、この男にはきっとない。誰が殺されようが、誰を殺そうが、この男が罪悪感に魘されたり、悲しみにすすり泣くなんてことはありえない。
 
 だけど、桃井さんは違う。きっと違う、と思う。駆け出し、僕は桃井さんの手首を掴んだ。その皮膚は、吃驚するぐらい冷たかった。桃井さんが緩慢な仕草で僕へと視線を投げる。濁り汚れ、感情が完全に抑圧された死人のような目だった。その眼球を凝視して、僕は小さく頷いた。何て声をかければいいのか解らなかった。ただ頷いた。
 
 桃井さんの唇が一瞬戦慄いて、それから眼球に微かな色が浮かぶ。その淡く揺らめく青色を、きっと悲哀と呼ぶ。
 
 
「いる」
 
 
 泣き出しそうな声で、桃井さんは答えた。頼りなく、今にもかき消されてしまいそうな子供の声だった。しゃがみ込み、血を垂れ流すぎょろ目の頬を掌でそっと撫でて、桃井さんはもう一度呟いた。
 
 
「ほしいよ」
 
 
 まるで祈るような声音に、真樹夫が困ったように肩を揺らす。
 
 
「あんたは、阿呆やなぁ」
 
 
 台詞自体は暴言なのに、その声は酷く柔らかかった。そのまま真樹夫は、何処かはぐらかすような仕草で掌をひらりと動かすと、車へと乗り込んだ。ぎょろ目を置いて、車が去っていく。後部のウィンドウに楓子の後頭部が見えたが、楓子が桃井さんを振り返ることはなかった。
 
 安堵したようにくたりと身体から力を抜くぎょろ目の頭を撫でて、桃井さんがそっと囁く。
 
 
「ただ、やさしくしたかっただけだよ」
 
 
 あぁ、なんて馬鹿な人だ。
 
 

backtopnext

Published in その他

Top