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桃井さんと犬 *残酷/猟奇描写有り

 
 あ、海老とアボガドのクリームチーズバケットだ。
 
 地面へと撒き散らされた吐瀉物の中から、一時間前に食べた消化物を見付けた。その隣には、五分前に食べたイチゴがパック二つ分吐き出されている。ぐちゃぐちゃに潰れた果肉が胃液を纏いながらも、まだ甘ったるい芳香を微かに漂わせているのを嗅いで、お腹がすいたなと暢気に思う。だけど、少なくとも後一時間は何も食べられないだろう。最悪の場合、今後一生何も食べられないかもしれない。このリンチで、殺されてしまった場合は。
 
 薄暗い路地裏で、すすり泣く夫婦が俺の身体を滅茶苦茶に打ちのめしている。この夫婦の一人息子を、つい四十分ほど前に俺が殺したんだと言う。その時間帯に俺が殺したのは、確か一人しかいなかった。今日の試合相手の男だ。
 
 
 パチンコで借金を作った上に、その借金を更にギャンブルで埋めようとして負債が三千万円を越してヤクザから回された男だと言うのを、試合前に誰かから薄ぼんやりと聞いた覚えがある。だが、それを聞いてもさしたる感慨はなかった。リングにあがる人間は、誰もが馬鹿げた理由で自分の命を投げ売った人間ばかりだった。そんな人間のバックボーンや内面を知ったところでどうする。同情する余地もなく、大半の人間は死ぬのに。
 
 頭の中で、男の顔を思い浮かべようとする。だが、曖昧模糊とした霧に覆われて、その顔を上手く思い出すことは出来なかった。ただ、痛んだ金の長髪と大きな口は覚えている。その大きな口を開いて、俺に何かを言っていた。たぶん挑発じみた侮蔑の言葉だったと思う。
 
 だが、その口は直ぐに違う言葉を吐き始めた。命乞いの叫びだ。血まみれになってリングに倒れた男は、泣きじゃくりながら必死に俺に命乞いを繰り返した。たしゅけてたしゅけて、と血を吐きながら聞き取りづらい声で繰り返す男に対して、何も感じなかった。命乞いも毎度のことだ。うんざりしていた。もう喋るのをやめて、さっさと死んでくれとすら思った。だから、舌を切り落とした。分厚いハムみたいな舌を根元からスッと切り落とすと、男は喋るのをやめて、ついでに生きることもやめてしまった。舌の断面からぴゅくぴゅくと出の悪い噴水みたいに血が出ていた。その血を掌で受け止めながら、イチゴが食べたいと無性に思ったのを覚えている。だが、そのイチゴは今胃の中から脱走してしまった。脱走と言おうか、強制排出と言おうか。まあ、どっちにしろ出たことには変わりはない。
 
 
 不意に、鳩尾に靴の先端が突き刺さった。ぐぅ、と鈍く息を呑んで、背を小さく丸める。呪いの言葉が次々と身体の上に降り掛かってくる。
 
 
 あの子は本当はいい子。
 すこし道を間違っただけ。
 きっと元に戻れるはずだった。
 それなのに、あんたが殺した。おまえが殺した。
 あんな酷い殺し方をされる子じゃなかった。
 なんて、酷い。酷い酷い酷い。
 おまえは人じゃない。豚以下の家畜だ。畜生だ。
 
 
 そんなこと知ってるよ、と言いたかった。だけど、咽喉にコールタールのようなものがべったりと貼り付いているようで喋れなかった。何か重苦しい何かが体内を覆っている。はらわたが腐って膿んだ汁をじゅくじゅくと出して、それで体内がパンパンに膨れ上がっているような感覚だった。
 
 本当は、きっとこんな中年夫婦を反対に打ちのめすことだって出来た。殺すまでいかなくても、夫婦の両手両脚を折って、戦意を喪失させることぐらい簡単に出来ただろう。だけど、彼らの流す涙が俺の心を落ち込ませた。あの男には、涙を流してくれる人間がいたのだ。だけど、俺が死んで泣いてくれる人間はいない。それが俺とあの男との決定的な違いで、俺は何だかそれが羨ましくて堪らなかった。
 
 
 頬に唾を吐き掛けられる。夫婦が俺の頭と顔を蹴り飛ばしながら、淡々とした声で語る。
 
 
「おまえみたいな畜生は死ねばいい。きっとこれから何年何十年も死ぬより辛い目にあう。生きながら、死にたいと願うような苦しい羽目に陥る。大事なものを無くして、愛する人を失って、苦しんで苦しんで、苦しみ抜いてから死ね」
 
 
 それは紛れもない呪詛だった。そのおぞましさに皮膚が細波を打った。どうして、と頭が繰り返す。何で、どうして、俺は頑張ってるのに。ただ、頑張ってるだけなのに。何も失いたくなかったから、大切なものを守りたかったから、だから、こんな非道なことまでしているのに、どうしてそんな事を言うんだ。地面をバタバタと暴れて、駄々っ子のように喚き散らしたかった。だが、身体が動かなかった。恐怖で固まったまま、息を潜めていることしか出来なかった。
 
 気付いたら、夫婦の姿はなかった。代わりのように、ボロボロな毛並みをした野良犬が一匹倒れたポリバケツの中に頭を突っ込んでいるのが見えた。イチゴの甘ったるい匂いに混じって、生ゴミと胃液の饐えた臭いがぷんと立ち上っている。地面に倒れたまま、ぼんやりと犬を眺める。薄暗闇の中で、犬の姿はまるでハイエナのようにも見えた。
 
 
「―――おれ゛、のことも゛食ってい゛いよ」
 
 
 戯れにそう囁いてみる。言った瞬間、馬鹿馬鹿しいと自分で思ったが笑えなかった。口の中が切れているのか、くぐもって酷く聞き取りづらい声だった。まるであの命乞いをした男のような声だと思うと、何だか無性に悲しくなって、途端に涙が溢れた。涙が顔面にできた傷口に染みて痛い。
 
 
「い゛、たぃ」
 
 
 痛いと呟く。呟いた瞬間、もっと痛くなった。地面に倒れたまま、子供のように何度も痛い痛いと繰り返す。その度に、涙が止め処もなく溢れ出した。
 
 悲しかった。この世界から今すぐ消えてしまいたかった。あの夫婦が言ったように、これからもっと辛い目に合う。今だって生きながら死んでいるも同然なのに、これ以上の苦しみにはもう耐えられない。人殺しの代償がこれから降り掛かって来るだろうことを思うと、恐怖で全身が打ち震えた。嗚咽を零しながら、いや、いやだ、たすけて、と繰り返す。でも、誰も助けてなんかくれない。当たり前だ。これだけ酷いことをしてきながら、救われたいと思うのはあんまりにも虫が良すぎる。だから、苦しみながら、救いはなく、腐りながら藻掻き死んでいくしかないのだ。
 
 膝を抱えたまま、赤ん坊のように泣きじゃくった。うあ゛ぁあ、ヴわ゛あぁ、と声を嗄らして叫ぶ。ふと涙に濡れた目を上げると、さっきまで生ゴミを漁っていた野良犬が目の前に座っていた。じっと、俺のことを見下ろしている。
 
 不意に、本当に食いに来てくれたのだろうかと思った。俺のさっきの言葉を鵜呑みにして、食ってくれるのかと。死なせてくれるのかと。だが、次の瞬間、犬はこう言った。
 
 
 
『腐った桃は、犬も喰わねぇよ』
 
 
 
 空耳かもしれない。ただの幻聴かもしれない。気が狂った人間の思い込みに過ぎないのかもしれない。だが、確かにそう聞こえた。
 
 犬を見上げる。黒目がちな瞳を見詰めても、犬はもう何も言わなかった。ただ、尻尾を一振りすると、途端踵を返して歩き出した。思わずボロボロな身体を起こして、その後ろを追い掛けていた。
 
 犬に聞きたいことがあった。腐ってなかったら喰ってくれるのかと。もしそうなら、俺は御前の傍にいて喰ってくれるのをずっと待つよ。腐ってない桃になるように、頑張るから。
 
 犬の隣に並ぶ。犬は逃げなかった。何か物言いたげに俺を見上げて、それからすんっと鼻を鳴らして歩き続けた。
 
 

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