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01 金田中尉

 
 金田幹中尉は、壁に向かって座っていた。壁といっても、仕官用に簡易設置された天幕の壁だから、言ってみれば布だ。縫地の粗い布を見つめながら、金田中尉はふっと息を付き、ようやく葛之宮文紀へと視線を向けた。
 
 
「虫ってえのは、その存在だけで人間に勝利してると思わないか?」
 
 
 奇妙な質問だった。よく見れば、何もないと思っていた壁に、小さな黒虫が這っているのが見えた。短い無数の足で、よちよちと天井へと向かって這い上がろうとしている。このちっぽけな虫を一心不乱に凝視していたのかと思うと、金田中尉は噂どおりの変人なのだろうと思えた。
 
 平民あがりの叩き上げ軍人。士官学校を卒業していないにも関わらず中尉まで上り詰めた実力派。戦法は奇策を好み、その型破りな戦闘で多くの功績を挙げてきた。葛之宮が士官学校卒業間近だった二ヶ月前も、金田中尉が第四小隊四十名を率いて、反逆軍二百名余を掃討したという噂がまことしやかに流れた。その噂が真実なのか嘘なのか、葛之宮は確認していない。どうせ二ヵ月後には、金田中尉の小隊に自分が配属されることは父である葛之宮文義から聞いていたし、その時確かめればいいと思っていた。
 
 それにしても、金田中尉の小隊に配属されると決定した時の父の苦虫を噛み潰したような顔は見物だった。父としては、同族出身の美作大尉のもとに葛之宮を配属させたかったのだろう。美作大尉は、葛之宮と並ぶ大貴族の長男だ。今此処で繋がりを持てれば、葛之宮家の今後にも繋がる。しかし、父の目論みは叶わず、最も父が厭う金田中尉の小隊へと配属されることとなった。露骨に平民出身の金田中尉を嘲っている父の表情は、息子である葛之宮からしても醜かった。もちろん葛之宮も父と同じ貴族出身であるからには、平民に対する偏見がないとは言い切れない。しかし、だからといって会った事もない金田中尉を端から馬鹿にする気にもなれなかった。
 
 そうして、実際に会った金田中尉は、予想以上に若かった。戦績から二十九歳という年齢以上に老衰したイメージを抱いていたが、実際には年齢よりもずっと若々しく見えた。血色の良い肌やしなやかな四肢は、今年で二十歳になる葛之宮と比べても遜色ない。ただ、感情を抑圧したような冷めた目が金田中尉の雰囲気を酷く厭世じみて見せていた。その石のような瞳からは、他人を拒絶するオーラが放たれている。パーツ一つ一つは整っているのに、全体的に見ると人好きされない頑なな顔立ちだと思った。
 
 
「おい」
 
 
 不意に不機嫌そうな金田中尉の声が響いたかと思うと、腹に鈍い衝撃を感じた。息を詰めて見下ろすと、蹴り飛ばされた机の側面が腹にぶち当たっていた。机の縁に踵を乗せた金田中尉がねめつけるように葛之宮を見ている。
 
 
「上官の質問には、十秒以内に答えろっつうのを習ってこなかったのか? それとも、御前は目を開けたまま寝れるのか?」
「…申し訳ございません。質問の意味がよく解りませんでしたので」
 
 
 息を詰めながらも素直に答えれば、金田中尉は呆れたように溜息を吐いた。
 
 
「俺が言いたかったのは、虫が人間に勝利しているってことだ」
「どういう意味なのか、解りかねます」
「少尉、随分と生真面目な性格のようだな。俺の下だと相当苦労するぞ」
 
 
 まるで葛之宮の苦労を予期するように、金田中尉の唇が酷薄に歪んだ。掌の上に顎を置いて、にやにやと笑う。まるで蛙を目の前にした蛇が、食い散らかす前にその味を品定めするような眼差しだと思った。
 
 その笑みを嗜めるように、金田中尉の傍らに立っていた下士官がわざとらしい堰を付いた。柔和な表情が印象的な線の細い下士官だった。
 
 
「金田中尉、そろそろ作戦会議のお時間ではないでしょうか」
 
 
 下士官のもったいぶった言い方に、金田中尉はふんと鼻を鳴らし、深々と背を椅子に沈めた。傲慢な仕草が可笑しいくらい似合っている。
 
 
「自分達が逃げる事しか考えていない将校共と、一体何を作戦すりゃあいいんだ。この黄半島に基地を置いて、もう二週間経つ。その間、俺達が何をした。何も、だ。貴重な兵糧を消費して、下らねぇ作戦会議を開いて、寝て、糞ひりだして、食って、何とも良いご身分だよな軍人ってのは、なぁ南軍曹」
 
 
 皮肉じみた金田中尉の口調に、南軍曹と呼ばれた下士官は困ったように眉尻を下げた。金田中尉を見つめる眼差しは、まるで駄々を捏ねる子供を見つめる親のようにも見える。
 
 
「西国軍が対岸に駐軍しておりますから、我が軍が停滞するのも仕方がないことだと私は思います」
「ならば此方から打って出れば良い。いずれ衝突するんだ。ならば此方が有利なうちに攻撃を進めるべきだとは思わないか? どう思う、葛之宮少尉」
 
 
 唐突に話を振られて、葛之宮の身体は小さく揺れた。数度瞬いて、試すように葛之宮を見つめる金田中尉を凝視する。金田中尉は、頬杖を付いたまま嫌味ったらしく笑っていた。頬に刻まれた笑い皺が眉を顰めるほど醜悪だ。
 
 
「先手を切るか、後手に回るか、という事ですか」
「そうだ、御前ならどう動く」
 
 
 とうとう呼び方が『御前』にまでなっていた。その事に微かに目を細めるが、目の前の傲慢な中尉が気付いた様子はない。
 
 壁に掛けられた地図へと視線を移す。白と黒に色分けされて塗り潰された地図は、圧倒的に白の方が多い。白が西国、黒が東国の領土だ。海に浮かんだ小さな島国、白に囲まれるようにして在るその黒点は、まるで先ほどの虫のようにちっぽけに見える。
 
 我らが東国が隣国である西国と開戦したのは、葛之宮が生まれる何十年以上も前のことだ。宣戦布告をしたのは東国からだったという。天子様の皇子が西国を外交訪問中に暗殺されたのが開戦の発端だ。東国には、神がいない。神がいない代わりに天子様を崇拝する。天子様は、東国を御作りになった方の一族で、国民全員の親であり子であるというのが東国で公的とされている信仰だ。その天子様の皇子を暗殺され、国民は我が子を殺されたように怒り狂った。破裂する爆竹のような勢いで開戦を申し込んだが、今になって思うと、それら全てが西国の思惑通りだったのではないかと思わずにはいられない。東国は広大な領土は持たないが、その周りには広大な海が広がっている。西国は、その広大な海域を手に入れたかったのだろう。そうして、今手に入れようとしている。開戦して五十年、長引くばかりの戦いに東国は疲れ切っていた。当初は西国を勝る勢いだったが、ここ数年は勝利したとの話はない。負け戦が続き、まるで小屋に隠れる犬のように尻尾を巻いて震えている。
 
 今回の黄半島での対峙がまさにその結果だ。東国の最南端、貿易の中心地であった黒州が今まさに西国に攻め入られようとしていた。対岸の后島は、既に西軍に占拠され、敵軍駐屯地と化している。東軍も攻め入られまいと黄半島に軍を配置したが、いつまでも持つものではないと葛之宮は考えている。上層部は、既にこれを負け戦と思い込んで逃げ腰だ。だが、本当にそうだろうか。本当に東国は敗戦国となってしまうのだろうか。そう考えた瞬間、背筋に寒気が走った。
 
 
「―――私は、先手を切るべきだと思います」
「何故だ?」
「后島に構える西国軍の戦力は、最低でも師団、下手をすると旅団とすら考えられます。それに対して、黄半島にいる我々は連隊程度の戦力しか持っておりません。兵力の差が明らかなのであれば、正面からぶつかって行っても負け戦にしかならない。それならば、少しでも我らに有利に動くようにしなくてはならない。それは、こちらから奇襲に打って出るしかないと言うことです」
「奇襲、ねぇ」
「后島には、食料になる植物や野生動物はいません。また、物資補給の船が来ている形跡もありません。ならば、西国軍は自らが持ち込んだ兵糧だけを頼りにしていることになります。数千から数万の兵士達を賄うのには、莫大な兵糧が必要です。この二週間の駐軍で、西国軍の兵糧は尽きかけていると考えても良いかと思われます。西国軍は兵糧が尽きる前に、黄半島へ攻め入ろうとするでしょう」
 
 
 そこまで言ったところで、不意に金田中尉が動いた。壁に掛けられていた地図をもぎ取ると、会議用の机の上に叩き付けるように置く。木炭の欠片を手に取ると、黄半島と后島を黒い丸で囲む。
 
 
「俺の意見も概ね一致だ、葛之宮少尉。諜報隊からも、西国軍が軍馬を殺し始めているとの報告があった。自軍の馬まで食い始めるなんざ、相当切羽詰まってる。向こうの兵糧は尽きかけているだろう。ただ、問題はこちらがどう奇襲に出るか、ということだ」
 
 
 地図から視線を上げた金田中尉の目は、ギラリと鈍く光っていた。その光に、葛之宮の身体は戦慄いた。心臓からを揺さぶられるような衝撃が体内を走った。まるで獲物の食い付く虎のような目だと思った。先ほどまで石のように冷めた目をしていた男とは思えない程、その眼球は熱を孕み、燃え滾っていた。
 
 震えそうになる指先を必死で堪えて、地図に描かれた、后島のやや斜め後ろに位置する小さな島、己姫島を指差す。
 
 
「一個大隊を己姫島へと移動させ、潜伏させます。夜、黄半島より后島へと攻撃に出、こちらへと意識を向けさせたところで、己姫島より背後から攻撃を仕掛けます」
「挟み撃ちで攻撃を仕掛けるわけか」
「はい」
 
 
 そこまで言ったところで、不意に金田中尉の瞳が醒めた。先ほどまでの熱を忘れたかのように、その眼球は再び石へと戻っていた。
 
 
「残念ながら葛之宮少尉、己姫島へは潜伏出来ない」
「何故ですか」
「御前、己姫島を見た事があるか?」
 
 
 金田中尉の口角が皮肉げに歪む。まるで葛之宮の無知を哀れむかのような、小馬鹿にした笑みだった。まるで、このお坊ちゃんは何も知らない、と目だけで言われているような不快感があった。
 
 
「己姫島は、島全土から絶えず酸が噴き出す島だ。御前は、戦闘前に一個大隊を全滅させる気か?」
「酸…」
「西国軍が后島を占拠して、その背後の己姫島を野放しにしている理由を考えたことはないのか? 西国軍が慎ましやかだからか? せめて、あの小さな島ぐらい残してやろうって、俺達への気遣いからか? 己姫島を手にしないのは、占拠する価値もないからだ」
 
 
 はっきりと言い切って、金田中尉は時間の無駄だったとでも言いたげに目を細めた。
 
 南軍曹へと命じて、軍刀を持って来させると、それを腰へと吊り下げる。椅子へとぞんざいに掛けていた漆黒の上着を手に取ると、それを翻すようにして踵を返した。すれ違い様に、葛之宮へと視線を向けると、唇を薄らと彎曲させる。
 
 
「まぁ、考え自体は悪くない。悪くないが、現実を見ろ葛之宮少尉」
「現実とは何ですか」
「此処が死体の山になるってことだ」
 
 
 それは、俺の死体かもしれない。御前の死体かもしれない。此処にいる全員のかもしれない。
 
 そう酷薄に言い放って、金田中尉は肩を揺らすようにして笑い声をあげた。不吉な言葉とは正反対な、快活な笑い声だった。楽しげとすら評せそうな。そうして、ふと笑いをとめると、葛之宮の目をじっと見詰めた。
 
 
「御前、目はその色か?」
 
 
 率直に問い掛けられた言葉に、葛之宮は息を呑んだ。引き攣りそうになる唇を必死で抑えて、素知らぬふりで答える。
 
 
「勿論、黒、ですが」
 
 
 喉から、まるで反吐を吐き出しているような気分だった。頭の芯が鈍く痛む。
 
 金田中尉は一度頷き、「そうか」と一言だけ呟いて天幕を出て行った。南軍曹は相変わらず困ったような笑みを浮かべて立っている。
 
 南軍曹と目を合わせたくなくて、天幕の壁へと視線を滑らすと、金田中尉が見ていた虫がまだいることに気付いた。小さな黒い虫。確かに、自分はこの虫にすら勝てないかもしれない。自分は決して黒くはなれないのだから。ぼんやりと思いながら、疲れ始めた目頭へとそっと指先を当てる。もうそろそろ眼薬を注す時間だ。
 
 

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Published in 地平の戦争

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