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05 綺麗事と反吐

 
 将校用の天幕に戻ってからの数分間、金田中尉は頭を抱えたまま執務机に突っ伏していた。極限まで力が込められた指先が金田中尉の頭皮にギリギリと喰い込んでいる。筋張った指先に数本の髪の毛が絡み付いているのを見た時、葛之宮はようやく『捨て駒』という言葉が示す現実に思い至って、背筋がすぅと冷たくなるのを感じた。
 
 金田中尉が顔を上げて、傍らに立つ南軍曹を見据えた。ゆっくりと手の甲で、頬に触れながら問い掛ける。
 
 
「南、俺の顔色は悪いか?」
「いいえ、いつも通りです」
 
 
 葛之宮から見ても、金田中尉の顔は微かな疲労を滲ませているだけで、青褪めているようには見えなかった。金田中尉は、椅子に腰を深く沈めると、静かな声で「そうか」と答えた。
 
 
「そうか、ならまだ大丈夫だな」
「石川曹長をお呼びしましょうか?」
「ああ、そうしてくれ。それから、苗代も一緒に連れて来てくれ」
「あの双子をですか?」
 
 
 珍しく南軍曹が笑顔を崩した。ゴキブリでも見つけたような嫌悪の滲む声音で問い返す。
 
 
「あの二人は、頭がイカれてます」
「イカれてる奴の方が役に立つときもある。毒を喰らわば皿までとかいう言葉があるだろうが」
「皿どころか毒を喰らわば毒までですよ。でも、仕方ないですね。お呼びします」
 
 
 諦めたように溜息をついて、南軍曹が緩やかな足取りで天幕の外へと出て行く。天幕内に残ったのは、何処かぼんやりとした眼差しで壁に掛けられた地図を眺める金田中尉と、葛之宮だけだ。
 
 先ほどの金田中尉と染川大尉の会話を思い返す。要約すると『二百人程度兵士を残すから、将校達が逃げ切るまで足止めしろ』と、三十文字にも満たない命令だ。ただ、その命令は重い。もし葛之宮がそれを命じられた将校だったならば、その場で舌を噛み切っていたかもしれない。二百人を無駄死にさせろと言われたも同然の命令だと思った。金田中尉の激昂が今になって皮膚に染みて来る。彼はこれから死ぬ人間を選ばなくてはならないのだ、二百人も。
 
 
「葛之宮少尉、君は染川大尉と一緒に行け」
 
 
 壁の方へと視線を向けたまま、金田中尉が小さく呟いた。葛之宮は、咄嗟にその言葉の意味を理解できず、口を半開きにしたまま首を傾げた。
 
 
「今、何とおっしゃいましたか?」
「君は染川大尉と共に撤退しろ」
 
 
 まだ金田中尉は葛之宮に視線を合わそうとしない。葛之宮は、体温が一瞬氷点下に下がり、そうしてマグマのように一気に沸騰するのを感じた。かつてないほどの激情に駆られる。皮膚が燃え上がり、毛穴から湯気が噴き出しそうなほどの屈辱だった。戦う前から戦力外通告され、逃げ帰れと言われることの惨めさがこの男には解らないのだろうか。しかし、顔面は凍り付いたかのようにピクリとも動かない。
 
 
「何故ですか?」
「君を残すと、上が五月蝿い。君は葛之宮伯爵の息子だろう」
「私は嫡男ではありません。軍人になるしか道のない四男坊です」
「四男坊だろうが政治的には幾らでも使い道はある」
「私は、父の政治の道具になるつもりはありません」
「君が望もうと望むまいと、上にしてみれば君は使い道のある道具だ。戦場で農家の息子と同じように、むざむざ野垂れ死にさせるわけにはいかない」
 
 
 あからさまに道具扱いされる事に不快感を感じる。葛之宮は、口角をひくりと痙攣させた。この男は、一体何処まで自分をコケにする気なんだろう。
 
 
「今此処で逃げろと言われるぐらいなら野垂れ死にしろと言われる方がマシです。中尉には解らないんですか?」
「解らないな、俺は逃げたいからな」
 
 
 ずっと逸らされていた金田中尉の眼差しが葛之宮に突き刺さる。逃げたいと言ったにも関わらず、その眼球にはまるで石のように冷め切っていた。
 
 
「御前が逃げないなら、代わりに俺を逃がして欲しいぐらいだ」
「指揮官の貴方が一体何をおっしゃってるんですか」
「指揮官なんて、そんな重いもの、背負いたくねぇんだよ。今だって、今までだって」
 
 
 そこまで言ってから、金田中尉は目蓋を伏せた。自身のつま先をじっと見つめたまま、呼吸だけを静かに零す。浅い呼吸に胸が上下する蠢きを眺めながら、葛之宮は一体この人は何を言っているのだろうと思った。将校が逃げ出したいなんて、それではこの人は守本中佐や染川大尉と同じじゃないか。名誉である中尉という肩書きに、誇りや責任感を感じないのだろうか。
 
 深く吐息を零して、金田中尉は続ける。
 
 
「御前は、まだ死ぬ事を本当には知っていない。いや、知ってはいるかもしれないが、感じてはいない。だから、野垂れ死にする方がマシだなんて気安く言える」
 
 
 諭すような金田中尉の声に、ふっと皮膚の温度が下がった気がした。
 
 
「私は…ただ恥のある人生を送りたくないだけです」
「恥とは何だ少尉」
「仲間を見捨てて生き残ることです」
 
 
 不意に、金田中尉の咽喉が隠微に震えた。零れてきたのは転がるような笑い声だ。仄暗い笑い声が天幕内に淡く響き、不気味に溶けて行く。椅子を軋ませながら足を組んだ金田中尉が嗤いを含んだ声をあげる。
 
 
「随分と清廉潔白な信念をお持ちじゃないか葛之宮少尉。俺は御前みたいな奴を見ると、這い蹲らせて死体の浸かった泥水を飲ませてやりたくなるよ」
「中尉、何を…」
「少尉、はっきり言っておく。俺は御前のような綺麗事を言う人間は、反吐が出るほど嫌いだ」
 
 
 噛み付くような台詞に、息が止まる。底光りした金田中尉の瞳には、紛れもない憎悪が滲んでいた。まるで獣が襲い掛かる瞬間を窺っているかのような獰猛な目だった。
 
 様々な言葉が頭の中に思い浮かんでは消えていく。咽喉の詰まった言葉を一つも口にすることが出来ず、葛之宮は押し黙った。金田中尉が小さく鼻を鳴らす。
 
 
「ともかく来て早々だが御前は帰還しろ。御前が送り込まれた直後に、こんな事になるなんて、上の方も予想外だっただろう。おそらく本日中にでも、染川大尉辺りの部隊にでも異動の連絡が来るはずだ」
「…中尉、私は残りたいです」
「なら、生まれてきた環境を恨むんだなお坊ちゃん」
 
 
 皮肉げにそう言ったきり、金田中尉は葛之宮に一切視線を向けなくなった。まるで家具の一つでもあるかのように黙殺される。葛之宮は固く握り締めた掌に爪を食い込ませながら、込み上げて来る熱いものを必死で堪えた。
 
 

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Published in 地平の戦争

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