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09 疲弊の国

 
 死者の行進のようだと思った。
 
 足取りは急いており、額からは止め処もなく汗が滲み出るのに、生きている心地がしない。周りの兵士達の顔を見回しても、彼等の顔も一応に沈んでいる。目が精気を帯びておらず、まるで陸に打ち捨てられた魚のような色をしていた。
 
 葛之宮の隣では、染川大尉が苦虫を噛み潰したような顔で軍馬に乗っている。三時間前に、黄半島駐屯地を出てからずっとこの表情だ。これだけでも、気分が滅入りそうになる。
 
 それにしても、撤退する軍というのは、これほどまでに覇気のないものなのかと葛之宮は酷く心が落ち込んでいくのを感じた。負ける前に負けたも同然、最低の敗北感が周囲から津波のように押し寄せてくる。
 
 いっそこれに比べれば、残る兵士達の方が溌剌とした顔をしていた。駐屯地の周りを囲むように柵を作りながら、撤退する集団の中に葛之宮がいるのを見て、スズメと呼ばれた少年兵は笑顔で敬礼をした。自分達を置いて逃げることに、恨み言一つ言わなかった。それが三時間経った今でも、葛之宮の腸をじくじくと痛め付ける。結局軍の命令に逆らえず撤退する自分を、臆病者と罵ってくれた方がマシだ。どうして、あんな風に無邪気に笑顔を向けられるのか、葛之宮には理解出来ない。
 
 
「葛之宮少尉」
 
 
 不意に隣から声を掛けられた。背筋をぐにゃりと丸めた染川大尉が機嫌を窺うように葛之宮を見ていた。
 
 
「はい、何でしょうか」
「君の父上は、確か葛之宮伯爵だったな」
「そうです」
 
 
 父の話を持ち出された事に、葛之宮は微かに顔を歪めた。父や家に関する話は余り好きではない。それは得てして勢力争いの話になりやすいからだ。葛之宮は、貴族同士の争いがどうにも滑稽に思えて仕方ない節がある。貶め合う暇があるのならば、この国を少しでも立て直すことに労力を費やしたらどうかと思うのだ。そこまで思った瞬間、金田中尉の言葉が不意に脳裏に蘇った。
 
 
『随分と清廉潔白な信念をお持ちじゃないか葛之宮少尉』
 
 
 耳元で言葉が吹き込まれたように感じた。唇の端が思わず引き攣りそうになる。貴族同士の勢力争いが醜いと嫌悪する事ですら、あの人にとっては綺麗ごとに過ぎないのかもしれない。何故なら、争いは決してなくならないからだ。なくならないのであれば、上手くその中に“まみれて”生きていくしかない。例えそこが泥であろうとも。ただ潔癖に嫌悪するだけの葛之宮の姿勢は、あの人には不愉快なものに映るのだろうか。そこまで考えたところで、どうして自分はこんなにも金田中尉のことを考えているのか不思議になった。どれほど考えたって、あの人を理解することは一生できないだろうに。
 
 
「なぁ、葛之宮伯爵は、戦争否定論派だと聞いたが本当か?」
「え、はぁ、そうです、ね」
 
 
 微かに口元が歪む。戦争否定だなんて、単なる父のでまかせだ。実際、戦争が終わるとなれば、父はきっと戦争を先延ばしにしようとする。何故なら、勢力争いというのは戦争時にこそ拮抗が崩れやすいものだからだ。そうして、貴族が利益を吸い上げようとするのに、戦争ほど都合の良いものはない。他国に責任を押し付けながら、自国を痛め付けることが出来るのだから。実際、葛之宮文義は、戦争に紛れて所有していた領土を三倍に広げた。弱小化した貴族を狙い撃ちにして、その身ぐるみを剥ぎ取ったのだ。父が主に狙ったのは、森林を所有する者達だ。戦争になれば、飯にも武器を作るにも火が必要であり、火を作るための薪がどうしても必要になる。故に戦争時に森林地帯を持っているだけで、貴族は一財産築くことが出来るのだ。
 
 
『生きるためには今何が必要なのかを見極め、それを手に入れるためのあらゆる非情を恐れぬことだ』
 
 
 パイプの煙をくゆらせながら語る父は、確かにある意味優れていたのだろう。しかし、同時に狡猾で卑怯だった。
 
 馬上で、染川大尉が安堵したように息を吐き出す。まるで有りもしない虚構に縋り付くような眼差しで遠くを見つめていた。
 
 
「君の父上が天子様に戦争終結を訴えてはくれないものかね」
 
 
 酷く疲れ切った、掠れた声だった。葛之宮は、ちらりと隣を眺めた。染川大尉は、空笑いじみたものを頬に滲ませている。
 
 
「戦争が始まって、もう五十三年経つ。私が生まれる前から、ずっと続いているんだ。もう、十分だとは思わないか?」
 
 
 葛之宮には、何も答えられなかった。ただ染川大尉を見つめ返した。染川大尉は、暫く頬を神経質に痙攣させてから、葛之宮から視線を逸らした。染川大尉の身体から滲み出ているのは、疲労だ。生まれる前から続く戦争に疲れ切った人間の一つの完成体だった。その姿に、葛之宮は一瞬言葉を失った。染川大尉の姿に、自国の姿を見たからだ。東国がもし姿を持つのであれば、きっと目の前の男がそれだ。疲労し、ただただ終結だけを願い、思考を止めようとしている。それは国の終わりを意味していた。この国は、終わりかけている。そう切実に思った瞬間、葛之宮は血の気が下がるのを感じた。
 
 暫く黙り込んでいた染川大尉が思い出したように葛之宮へと視線を向ける。
 
 
「そういえば、葛之宮伯爵は、君の入婿先として岡園侯爵の七美君を考えていると噂で聞いたが、本当かな?」
 
 
 勘繰るようなその声音には、下卑た野次馬根性が見え隠れしていた。しかし、それに嫌悪を感じるよりも、先に驚愕が走った。
 
 岡園家は、確かに父が目を付けている貴族だ。東国でも力を持つ岡園家に取り入ることが出来れば、葛之宮家の地位も自ずと上がることが出来る。特に子供同士の結婚などは、良い関係性を作るための最良の種だ。岡園家の三女である七美とも何度か会ったことがある。人の影に隠れて微笑むような愛らしい少女だった。大切に育てられたことが一目で解る典型的な箱入り娘。しかし、その七美が自分と婚約するだなんて話は、一度も聞いたことがない。単なる噂話と一笑するのは簡単だ。だが、それ以上に嫌な予感が足先から這い登ってくる。確かに七美が葛之宮家に来ている時は、葛之宮が顔を出すように言われていた。時には、二人きりにされて時間潰しのお相手をさせられた事もある。思い出せば、葛之宮を見る岡園の当主の目は、まるで品定めをするかのような眼差しではなかっただろうか。
 
『政略結婚』という言葉が思い浮かんだ瞬間、息が止まった。金田中尉の言う通りだ。自分は『使い道のある道具』でしかない。不意に心臓が杭でも刺されたかのように痛んだ。胸元を掌で固く握り締める。染川大尉は、そんな葛之宮の様子に気付く様子もなく、重苦しい溜息を吐いた。
 
 
「葛之宮伯爵が岡園侯爵と手を結べば、坂東大公の独走状態も止められるかもしれないな」
「どう、でしょうか」
 
 
 曖昧な返事を返す。
 
 坂東大公は、天子様に最も近しい位置である『大公』という爵位を持ち、東国で最も影響力を持つ貴族でもある。そして、西国と徹底抗戦をうたっているのも坂東大公だ。確か歴史書を読めば、西国との宣戦布告を公言したのは前坂東家当主の坂東英一郎だったはずだ。今はその息子である坂東正二郎が後を継いでいる。坂東正二郎は、東国軍の大将でもある軍人だ。父に連れられて宮殿にあがった際、一度顔を見たことがあるが、威圧感ばかりが目について、ろくに顔も覚えていない。
 
 そうして、坂東家と葛之宮家の関係は、余り良いものではない。父が『戦争否定論派』などという肩書きを持ったのも、坂東家への反発からだ。元々戦争が始まる前、葛之宮家は、爵位自体は男爵だった。それが戦争が始まって以来の五十年間で、貴族の浮き沈みを見計らって幾度となく政略結婚を繰り返した。少しでも爵位のある家ならば娘を妾として貰えるだけ貰い、節操のない猥雑な男女関係の末に伯爵まで成り上がった。その結果、父には正妻の他に二十人もの愛人がおり、葛之宮の兄達も既に十人以上の愛人を手にしている。正妻達は、皆、葛之宮家よりも爵位の高い貴族達ばかりだ。葛之宮家は着々と政権に礎を築きつつあり、いずれ他の野心深い貴族達と共に坂東家と拮抗することは想像できうる事だ。そういった経緯から、葛之宮家は坂東家のような由緒正しい家柄からは『下半身貴族』として軽蔑の対象とされている。
 
 その名称を聞いた時、葛之宮の中に生まれたのは憤怒でもなく羞恥でもなく、単なる冷笑だった。『下半身貴族』、言い得て妙だと思った。父や兄達だけでなく、正妻や愛人達までも、相手を構わず寝台へと引き摺り込み、周囲をはばかることなく嬌声をあげる。腹の子が誰の子なんて、もう誰も気にしない。生まれれば、それは葛之宮家の子供であり、葛之宮家の政権を築くための『道具』に成り下がるのだ。まるで、ねずみ算式に増えていく、その無節操に絡み合う大量の四肢が葛之宮には耐え切れない。だからこそ、葛之宮は軍隊に入ったのだ。少なくとも兵役中は、葛之宮家の呪縛から離れられると思った。しかし、実際にはどうだ。葛之宮家の坊ちゃんという事で、戦いもせず逃げ帰っている。そうして、戻れば待っているのは、ろくに知りもしない女との婚約だ。
 
 馬上で額を押さえた葛之宮を、染川大尉が物珍しそうに覗き込んでくる。
 
 
「どうした、気分でも悪いのか?」
「いえ、いいえ、はい、少し気分が優れなくて…」
 
 
 否定と肯定を繰り返す葛之宮に、染川大尉が怪訝そうに眉を顰める。その顔を見返しながら、葛之宮は口元に無理矢理笑みを浮かべた。唇が惨めに痙攣する。
 
 
「久しぶりの馬上で酔ってしまったようです。申し訳ございません、少し隊列を外れても宜しいでしょうか?」
 
 
 染川大尉が納得していない表情のままながら頷く。葛之宮は、そっと手綱を引き隊列から逸れた。死者の行進は、葛之宮を置いて進んでいく。
 
 葛之宮は、自分の顔が青褪めているのを感じた。撤退しても、所詮自分は父の道具にしかなれない。父が自分を疎んでいるのは知っていた。だからこそ、早急に厄介払いをしたいのだろう。指先でそっと目蓋を押さえる。母親に似てきてしまった葛之宮を、父親は『出来損ない』と呼んだ。他の兄弟達も同じだ。皆、葛之宮を蔑んでいる。戻っても、自分の居場所はない。ならば、自分は一体何処へ行けばいいのだろう。
 
 
『恥とは何だ?』
 
 
 金田中尉の言葉が不意に脳裏を過る。確か自分は『仲間を見捨てること』だと答えた。それは嘘ではない。しかし、それ以上に、
 
 
「――自分が何者か解らないことです」
 
 
 咽喉から縋るような声が零れた。誰にも聞かれる事のない声は、馬の嘶きにかき消されて、空気へと虚しく溶けて行く。葛之宮は、両手で顔を覆った。目蓋の下にある眼球を思う。逃げ続けて、此処までやってきた。もう逃げ場所はない。指先が手綱を強く握り締める。死者の行進へと背を向けて、葛之宮は強く手綱を引いた。
 
 

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Published in 地平の戦争

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