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15 地平に立つ男 *猟奇表現有

 
 耳鳴りのような音が、響いていた。
 
 ぶぅん、ぶぅん、と耳の横で独楽でも回しているかのような音が周期的に聞こえてくる。その音は時折酷く近くなったり、遠くなったりはするものの、一向に消える気配はない。そうして、音が止まった瞬間、頬に何かが触れる気配があった。頬の上を小さな生物が這い回っている。ぴたぴたと頬を舐める音が隠微に聞こえた。その音が何とも不愉快で、無意識に掌が頬を払う。途端、神経をぢくぢくと甚振るような独楽の音が復活した。その音は、次第に四方八方から聞こえ始める。
 
 
――ぶぅん、ぶぅん――
 
 
 不快音の合奏だ。五月蝿いと喚き散らそうとした瞬間、目が開いた。顔の周りを黒く小さな塊が飛んでいる。蝿だ。あの独楽のような音は、蝿が飛んでいる音だったのかと合点がいく。
 
 身じろごうとするが、重石が乗せられたかのように身体が動かない。目の前に腕があった。自分の腕だ。それを動かそうとするのに、どうしてだか指先がピクリとも動かない。指先から肩へと視線で辿る。そうして、その終点が視界に映った瞬間、葛之宮の全身は凍り付いた。腕は肘から十センチ程度進んだところでバッサリと千切れている。断面から、引き千切れた筋組織が赤々とした肉を覗かせていた。絶叫を殺せなかった。長い悲鳴を上げて、葛之宮は四肢を振り乱した。頭の中が真っ白になる。
 
 
――嗚呼、僕の腕、腕が、
 
 
 脳内で繰り返されるのは子供の駄々のような台詞ばかりだ。ぬかるんだ地面を、まるで泥遊びでもするように転がり回る。そして、突然ぐにゃりと両手が柔らかい何かに触れる感触があった。その感触に気付く。腕は両方共ある。泥に顔を伏したまま、それぞれの腕で肩や肘を探りあう。確かに二本共あった。あの千切れた腕は自分のものではなかったのだ。途端、安堵が胸を突いて溢れる。溜息を吐き出して、自分の恐慌に対して微かな羞恥を覚えた時、ふと思った。考えてしまった。
 
 
――それなら、あの腕は誰のものだ。
 
 
 考えた瞬間、全身の筋肉が硬直した。地面から顔を上げられなくなる。顔を埋める土は、妙に生臭い臭いがした。錆臭く、湿り、赤く染まっている。見開いた目が閉じられない。呼吸の感覚が短くなっていく。死に掛けた野良犬のような浅い呼吸を繰り返す。顔を上げるんだ。顔を上げろ。顔を、
 
 顔を上げた瞬間、眼球が赤と黒に染まった。悲鳴は上げなかった。悲鳴を上げることすら出来なかった。
 
 人間かどうかも判らないほど焼け焦げた死体、はらわたが盛大に飛び出た死体、顔面が半分崩れて脳漿が飛び出た死体、死が地面を埋め尽くしていた。見開いた何千何万もの眼球が恨めしそうに虚空を見詰めている。死体の周りを、大量の蝿が飛び回っていた。血の流れる頬や顔にとまり、美味そうに死体の血を啜っている。さながら死を貪り食っているかのようだ。
 
 焼け焦げた柵の向こうに、真っ赤に染まった海が見えた。水面には、何百もの敵兵らしき死体がぷかぷかとクラゲのように浮かんでいた。引き千切れた手足や零れた内臓が波に揺られて、海面を緩やかにたゆたっている。空には暗雲が立ち込め、地も海も、死に埋もれている。鮮烈なまでの黒と赤のコントラスト。その鮮やかで残虐な色彩に、目が眩む。見渡す限り、地平には死以外の何もなかった。
 
 葛之宮は地面に座り込んだまま、その光景を凝視し続けた。全身がガクガクと震えているのに気付かなかった。自分が呼吸しているか、生きているかすら判らなかった。この世は地獄だった。地獄よりも地獄らしい世界。こんな世界のために、どうして戦っているのか。こんな世界を、どうして今まで生きてこれたのか。それすら解らなくなる。戦う価値なんてない。生きる意味なんてない。生きていたって、どうせいずれ死に呑み込まれる。この地平に辿り着き、死体の山に埋もれるだけじゃないか。全身を押し潰すような絶望が湧き上がってくる。
 
 こんな惨い現実なんて知りたくはなかった。夢うつつの中を、青臭い思考にまみれて生きていたことの幸福を思う。今、初めて解った。理解ではなく実感した。世界は糞だ。糞以外の何物でもない。そうして、糞の中で足掻き死んでいくのが、生きるという事なのだ。
 
 あぁ、短い呻き声が咽喉の奥から溢れる。涙は流れなかった。虚無だけがあった。血だまりへと額を押し当てて、葛之宮は背筋を戦慄かせた。
 
 その時、不意に何かの音が聞こえた。子犬がきゅうんと鼻を鳴らすような微かな声。その声は、死体の山から聞こえてきた。咄嗟、死体の山へと両手を伸ばす。まるで死の中に残った生へとしがみ付くような惨めな行為だった。動いた弾みに、背に鋭い痛みが走ったが、気に留めているだけの余裕はなかった。死体の山を無我夢中で漁る。ぐちゃりと柔らかく冷たい感触が掌に伝わってくる。死の感触だ。だが、手は止まらない。やがて、死体の下から泣き声をあげる兵士が見えた。スズメだ。葛之宮は、スズメの身体を力ずくで引き摺り出した。スズメは両手で腹を押えたまま、ぐずぐずと鼻を鳴らして泣いている。
 
 
「スズメ君、大丈夫か…?」
 
 
 聞いておきながら、馬鹿な質問だと自分自身を嘲った。何が大丈夫だ。大丈夫な人間なんて、此処にいる訳がない。スズメの掌を腹からどかすと、まるで泉のように血がどくどくと湧き出てきた。驚きに身を仰け反らせる。
 
 
「お、おな゛が…刺、され゛、っま゛し、…」
 
 
 戦慄く唇でスズメが必死に言葉を紡ぐ。上着をそっと捲り上げると、引き裂かれた腹部が視界に鮮やかに映った。腹部中央を真っ直ぐ貫かれている。血色が抜けてぞっとするぐらい白い肌に、真っ赤な傷口。そうして、血にまみれた傷口から、生きようと足掻く内臓が微かに覗き見えた。濡れ光り、まるで芋虫のように蠕動している。その光景に、咄嗟に吐き気が込み上げてくる。咽喉を引き攣らせ、必死でそれを呑み込みながら、葛之宮は上着を脱ぎ、スズメの腹へと押し当てた。痛みにスズメの身体が地面で跳ねる。
 
 
「ぎゃッ!」
 
 
 スズメの身体は、限界を超えた痛苦に打ち震えていた。青褪めた唇の隙間から、ガチガチと震える歯の根の音が聞こえる。腹部へと押し当てた上着が血を吸って、じっとりと重くなる。押え付ける葛之宮の掌にまで血が浸透してきた。止まらない血がスズメの命の残り時間を通達しているようで、葛之宮は恐怖を隠せなかった。温かい血に触れた指先が氷のように冷たい。
 
 
「だ、いじょうぶだ、たすかる。助かる」
 
 
 それは、スズメに言っているというよりも自分自身へと言い聞かせているような声音だった。吐き出す言葉の語尾が頼りなく震える。スズメがしゃくり上げる。その時、不意に背後から鈍い声が響いた。
 
 
「そいつはもう助からない。トドメを刺してやれ」
 
 
 死神を思わせる陰鬱な声だった。肩越しに振り返った瞬間、葛之宮は息を呑んだ。醒めた石の目が葛之宮を見下ろしていた。
 
 赤い大地と黒い天を背に、顔面を血に染めた金田中尉が立っていた。死に塗れた地平を踏み締めて、彼は君臨している。たった一人、何物にも依ることもなく、必要もせず、ただその皮膚に死だけを纏って――その姿は、あまりにも凄惨だった。
 
 

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Published in 地平の戦争

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