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16 笑った少年 *猟奇表現有

 
 金田中尉は、肩に長剣銃を担いだまま、尊大な足取りで葛之宮へと近付いてきた。葛之宮の背後で足を止めると、もう一度呟く。
 
 
「トドメを刺してやれ」
 
 
 石の眼球が泣きじゃくるスズメを見下ろす。その倣岸な言葉に、耐えられない程の憎悪を覚える。何故、何故この男は、死を目前にしたこの少年に、欠片の慈悲も与えてやることが出来ないのか。それが人間だというのか。人間だと言えるのか。
 
 
「でも、まだ彼は生きてる」
 
 
 言葉を噛み締めるように吐き出す。憎悪が体内で唸りをあげて暴れていた。拳が怒りに震える。金田中尉は頓着した様子もなく、呼吸をするような当然さで答えた。
 
 
「だが、助からない」
「そんなこと解らないだろうがッ!」
 
 
 咽喉から怒声が溢れた。あまりの憤怒に声が嗄れている。未だかつて感じた事もないほどの熱の感情だった。吐き出した咽喉が震える。金田中尉が何処か蔑むような眼差しで、葛之宮を見下ろす。葛之宮は金田中尉から視線を背けて、スズメへと視線を落とした。
 
 
「まだ、あたたかいのに…!」
 
 
 そう口にした瞬間、後方へと肩を引き摺られた。そうして、間髪入れず、頬に衝撃が走る。頬骨を砕くような激しい殴打だった。頬が陥没して、ガギッと歯が軋む音が頭蓋骨の内側で響き渡る。そのまま葛之宮は、死体の山へと倒れ込んだ。頬骨が芯から痺れるように痛んで、頬肉が痙攣している。仰向けになったまま呻き声を上げていると、強い力で胸倉を掴まれ、上半身を引き起こされた。
 
 
「温かいから何だ! どうせすぐ冷たくなる! いいか!? 助からない人間に、御前はまだ生きれるかもしれない、と希望を与えることは、殺すことよりも残酷なことだ…!」
 
 
 言葉が身体に叩き付けられる。内臓を抉り、腹を突き抜けて行く。至近距離から見た金田中尉の眼球は、憎悪に煮え滾っていた。紛れもない殺意の眼差しだ。その目を見た途端、すぅっと自分の身体から体温が抜けて行くのを感じた。顔を真っ白にした葛之宮を見据えて、金田中尉が顔を歪める。葛之宮の顔面に、唾でも吐きたがっているような苦みばしった表情だった。その時、酷く弱々しく掠れた声が聞こえた。
 
 
「…ちゅ、中尉、どの、…少尉ど、の、…を、せっ、責め、…ないで…くだ、さ……」
 
 
 苦しそうに喘ぎながら、スズメが途切れ途切れな声をあげる。そうして、言い終わると、ごぶごぶと濁った咳をした。口から赤黒く濁った血が溢れ出して、スズメの幼い顔立ちを陰惨に染め上げる。掴まれていた胸倉が離されて、葛之宮は力なくその場に座り込んだ。
 
 
「……少尉どの、は、おやさしい、…だ、だけ、…なんです…ぼ、ぼくは、だいじょぉ、ぶ、です……」
 
 
 健気だった。あまりにも健気で痛々しかった。葛之宮は死に直面しても自分を庇おうとする少年の姿に、心を引き裂かれた。虚無で満ちていた心に、血潮が流れて来る。それはスズメから溢れる血だ。スズメの命だ。咽喉から呻き声が溢れる。嗚咽だ。気が付けば、世界が透明な膜で覆われていた。血でぬるつく頬に、滑らかな液体が伝わる。こんな哀れみだけの透明さは、残酷な世界にあまりにも似合わない。涙を流す葛之宮を見て、スズメが血に濡れた口角に柔らかな笑みを滲ませる。
 
 
「しょ、ういどの、なっ、泣かないで……くださっ…、しょうぃどのが、笑って、くださっ、ないと、…ぼ、ぼく、も、うまく、わらえな、ぃ…、ぼく、ぼく、笑うっ、しか…ない…んです……笑って、死、ねって…かぁ、ちゃんも……」
 
 
 かあちゃん、と口に出した瞬間、スズメの穏やかだった表情に悲しみの色が走った。その色は次第に色を濃くして、スズメの顔を泣き顔に歪ませる。そうして、恐れていた声が聞こえた。スズメがしゃくり上げて泣き出していた。
 
 
「う、うぁあ゛、か、かあちゃん、かあちゃん、たすけて゛、死にたくない、死にたくな゛い、いたぃ、いだい゛よぅ、かあ゛ちゃん、がえりたい、家にかえり゛たいぃ」
 
 
 子供のようにぽろぽろと涙を零しながら、スズメは足掻くように指先で地面を掻き毟った。藻掻き、蠢き、生にしがみ付くその哀れな姿に、葛之宮には打ちのめされる。人間の最期だった。スズメの最期だった。こんな、こんな惨めに終るものなのか。これが家族を亡くし、辛いときも悲しいときも笑顔を浮かべて、健気に生きてきた少年に与えられる最期なのか――
 
 
「あ゛ぁぁ、天子ざま、た゛すけて、なんで、なん゛でっ、ぼく、どうして、死にたくなぃ――」
 
 
 かける言葉はなかった。動けなかった。くだらない木偶の坊のようにへたり込んだまま、この世から消えてしまいたかった。生に縋り付こうとする、その手が悲しい。葛之宮は、その手を掴むことができない。どうしても、できなかった。それなのに、空を掻くスズメの指先をそっと掴む手があった。金田中尉がスズメの掌を握り締めて、その傍らに膝を付く。
 
 
「鳥居、泣くな」
 
 
 眠りに落ちる子供に囁くような、穏やかな声だった。スズメが涙でぐちゃぐちゃになった顔で、金田中尉を見上げる。金田中尉は、まるで出来の悪い子供でも見るかのような、微かな呆れと愛しさを含んだ笑みを滲ませた。そうして、スズメへと顔を寄せると、その目を覗き込んで囁いた。
 
 
「笑うんだろ?」
 
 
 訊ねながら、金田中尉は微笑んだ。まるで死ごと包み込むような柔らかな笑みだった。葛之宮が今まで一度も見た事のない顔、目、心。一瞬葛之宮は呼吸を忘れた。金田中尉の顔から目が逸らせない。悪魔よりも悪魔らしい男がどうしてそんな表情を浮かべることが出来る。
 
 スズメは、金田中尉の笑みを暫く見つめて、それから口許に微かに引き攣った笑みを浮かべた。しゃくり上げながら、必死で笑っていた。笑おうとしていた。そうして、ひゅう、と息が吐き出されるか細い音が聞こえたと思えた瞬間、スズメの身体が一度だけ大きく跳ねた。筋肉が極限まで硬直して、それからゆっくりと弛緩していく。半開きの目が空を見つめて、そのまま閉じられなくなる。動かなくなる。スズメは、地平に広がる死体の一つとなった。
 
 スズメの左胸には、短刀が刺さっていた。その血に濡れた柄を、金田中尉が握り締めている。ずるりと刃をスズメの体内から抜き出しながら、金田中尉がスズメの耳元へと唇を寄せた。
 
 
「皆同じところに逝く」
 
 
 手向けにも慰めにならない言葉だ。それは金田中尉の願いのようにも聞こえた。切なく、あまりにもちっぽけな願いだ。
 そうして、金田中尉は振り向き様に葛之宮の頬を張り飛ばした。放心状態だった葛之宮は、いとも簡単に吹っ飛び、地面を転がった。その際、何かが右目から零れ落ちる感触があった。落ちたソレはすぐさま泥にまみれ、姿が見えなくなる。右顔面を掌で押さえながら、葛之宮は呆然と金田中尉を見上げた。金田中尉が心底不快なものを見る眼差しで、葛之宮を見下ろしている。
 
 
「御前の綺麗事は、こいつを救ったか?」
 
 
 蔑みの言葉だった。ギリギリと奥歯を噛み締めながら、金田中尉は葛之宮の腹へと足底を叩き込んだ。内臓が押し潰される衝撃に、息が詰まって、咽喉から濁った咳が溢れる。
 
 
「くたばれ、犬畜生が。御前の、安っぽい正義感には反吐が出る。人を殺した手で、人を救えるとでも思っているのか。まだ自分が善人だとでも? 薄汚い偽善を振り翳してりゃ、悲劇の主人公にでもなれるとでも思ってんのか? うざってぇ、気色悪ぃ、御前を見ていると腹がムカムカする。御前がやったのは、無駄に一人の兵士を苦しめただけだ。御前がやったのはそれだけだ!」
 
 
 言葉が突き刺さる。葛之宮には、何も答えられなかった。金田中尉の言葉に反論するだけの言葉も、心も、もう持ってはいなかった。打ち砕かれた心が地平にバラバラに散らばっている。なら、溢れて来るこの涙は何だ。何が悲しいのか。何が苦しいのか。まだ何かを期待しているから、涙が溢れるんじゃないのか。
 
 金田中尉が微か鼻で嗤う。
 
 
「御前の世界は優しかったか? 優しく包み込んでくれたか?」
 
 
 そう問い掛けてから、金田中尉は一言吐き捨てた。
 
 
「ようこそ、現実の世界へ」
 
 
 広げた腕の先には、地平を埋め尽くす死。世界は、優しくなかった。薄汚く、腐敗している。だけど、それでも、それでも、
 
 
「それでも、希望を捨てられません…」
 
 
 涙声が溢れる。自分でも無様な声だと思った。哀れな子供のように、掠れて縮こまった声音。金田中尉が葛之宮を見据える。
 
 
「希望?」
「世界は残酷だ。人間は、尊くない。だけど、何処かに希望があると思わなくては、生きていけない…」
 
 
 世界に絶望した葛之宮は、それでも希望を捨て切れなかった。すべてに絶望すれば、もう生きていけない。生きていくことに、何の意味も見いだせなくなってしまう。それは、死よりも恐ろしいことだった。ともすれば全身を覆い尽くそうとする絶望に、身体から力が抜ける。右顔面を押さえていた掌が滑り落ちる。
 
 金田中尉は口角を歪めて嘲笑の形をつくったが、葛之宮の顔を見た瞬間、その顔をギクリと強張らせた。晒された葛之宮の右顔面を凝視して、それから顔面を怒りとも焦りとも付かない表情に歪ませる。そうして、足早に葛之宮へと近付いて来ると、上着を脱ぎ捨てて、その片袖を短刀で切り落とした。
 
 
「何を…」
「五月蝿ェ、黙ってろ」
 
 
 問い掛ける声を撥ね除けて、金田中尉は葛之宮の右顔面へとたすきがけのように袖を巻き付けた。簡易の眼帯のような形だ。その瞬間、葛之宮は自分が “ソレ” を晒しているのだということに気付いた。先ほど殴られた時に、何かが落ちた感触があったが―――気付いた途端、恐怖が湧き上がってきた。幼い頃から浴びせかけられた侮蔑の言葉が脳裏で蘇る。
 
 
『色違い』『生まれ損ない』『非国民』
 
 
 “ソレ” は生まれた時から葛之宮を苦しめた。蔑みの対象とさせ、家族からも疎ませた。“ソレ” が違うだけで、誰にも受け容れられない。誰からも信じられない。東国に生まれながら、まるで他国の人間のように扱われることの不愉快さ。その苦しさは言葉に出来ない。
 
 金田中尉は、葛之宮の右目に袖を巻き付けると、酷く苦々しい声音で言った。
 
 
「絶対にこれを取るな」
 
 
 そう言って、金田中尉は踵を返して歩き出した。葛之宮はその背を追うように歩き出しながら、そっと背後を振り返った。そこには、懸命に生きた少年の亡骸が横たわっていた。その唇は、笑っていた。スズメは最期まで笑い続けた。
 
 胸の中に去来する悔恨と懺悔を、葛之宮は押し隠せなかった。次々と溢れて来る涙を拳で拭いながら、葛之宮は歩き続けた。暗雲を押し退けて、燃えるような夕陽が地平を照らしていた。
 
 

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Published in 地平の戦争

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