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17 臆病者の選択

 
 死を踏み進んで歩く。血と体液を吸った地面は靴の裏にねちゃりと粘り着き、葛之宮の歩みを鈍らせた。数時間歩き続けて、ようやく岩石が転がる地帯で金田中尉が足を止めた時には、葛之宮は疲労困憊で今にも倒れそうだった。斬られた背がぢくぢくと膿んだように痛み、定期的に眩暈まで起こる。今にもへたり込みそうになる膝を両手で押えて、葛之宮は金田中尉へと質問を投げけた。
 
 
「此処は?」
「生き残ったらこの場所に集合するように兵達に命令している」
 
 
 端的に答えてから、金田中尉はいつもと代わらぬ鉄面皮を晒して、岩肌の辺りをじっと見つめた。そこに人気はなく、冷たい岩が転がっているだけだ。
 
 
「つまり、生き残りはいないということですか?」
 
 
 自分で言った言葉に、ぞっとする。金田中尉が鼻白んだ表情で、葛之宮へと視線を向けた。
 
 
「馬鹿言うな。御前みたいな坊ちゃんが生き残れて、他に誰も生き残ってないわけがないだろう」
 
 
 侮蔑の言葉だが、それでも葛之宮には救いに思えた。ほっと胸を撫で下ろした時、岩肌の向こうに何か動く影が見えた。葛之宮が声を上げる前に、石川曹長が顔を覗かせた。軍服は、血と泥にまみれている。
 
 
「こちらへ」
 
 
 短い指示の言葉に、金田中尉と葛之宮は、石川曹長へと近付いて行く。そこには、岩肌の影に隠れるようにして、二十数名程度の傷付いた兵士達が身を寄せ合っていた。誰も彼もが頭から血にまみれ、傷付き疲れ果てている。そうして、その目には色濃い虚無を宿していた。死人よりも、よほど死人らしい目をしている。血と死の臭いが鼻先を漂ってくる。
 
 葛之宮は、ぐ、と息を詰めながら、殊更ゆっくりと視線を巡らせた。顔面を切り裂かれた兵士を手当てしていた南軍曹が顔を上げる。葛之宮と視線が合うと、眉尻を下げて、淡い笑みを浮かべた。
 
 
「ご無事でしたか。お怪我は?」
「背中を斬られた程度です。大した傷じゃないと思います」
 
 
 南軍曹は素早く背中へと回り込み、葛之宮の上着を捲り上げた。乾いた血で衣服が皮膚に張り付いていたのか、背中に引き連れるような痛みが走る。口の中に溢れてきた嫌な唾液を必死で呑み込みながら、葛之宮は呻き声を噛み殺した。
 
 
「傷はそれほど深くありませんし、出血も止まっています。命に別状はないでしょうが、化膿するかもしれませんので早めに治療をした方がいいですね」
「僕は大丈夫です。他の兵士の治療を先にして下さい」
「貴方は将校です。傍らで数百万の兵士が死に掛けていても、貴方が治療が一番に優先されなくてはなりません」
 
 
 南軍曹の声は、有無を言わせぬ口調だった。だが、その理論に葛之宮はどうしても馴染めなかった。曖昧に顔を歪める。ふと、南軍曹の視線が布で覆われた葛之宮の右目へと向けられた。
 
 
「その目は」
 
 
 葛之宮は咄嗟に掌で右目を覆った。隠れているとは解っていても、布越しでも見られるのが恐ろしかった。微か頬を引き攣らせて微笑む。
 
 
「何でもありません。砂が入ったようで、少し見えにくくなっている程度です」
 
 
 南軍曹はそれ以上聞かなかった。そうですか、と短く答えてから、あの兵の所に、と一人の兵士を指差した。そこには、顔面に真っ赤な包帯を巻いていながらも、他の兵士の治療をする者がいた。その者のところで背の治療を受けながら、葛之宮はそっと金田中尉を窺い見た。金田中尉は、しかめっ面をした石川曹長と対峙している。どちらも助かった事を喜ぶこともなければ、相手が生き残ったことを祝福する様子もなかった。
 
 
「石川曹長、残った兵士の数は?」
「二十二名、全員負傷しております。うち軽傷が十二名、重症が十名であります」
「将校の損害は?」
「――袴田少尉が戦死されました」
 
 
 沈痛な石川曹長の一言に、ふっと葛之宮の脳裏をあの愛妻家の少尉の顔が過った。震えながらも銃を握り締めた青年の姿が。奥様はきっと悲しまれる事だろう、と思ったが、死に満たされた心の中、上手く悲しみを感じることが出来なかった。
 
 金田中尉が声もなく、深い首肯だけを返す。
 
 
「歩けない兵は」
「足をやられているものが一名います」
「そうか」
 
 
 感情の削げた淡白な声だった。金田中尉は、一瞬苦々しい表情を滲ませて目を伏せた。しかし、一瞬後には眼差しをあげた。
 
 
「では、二十分後に臼長井基地へ出発する」
 
 
 臼長井基地は、守本中佐らの部隊が撤退した平柿作戦本部基地と、此処から大体中間地点に当たる基地だ。平柿作戦本部基地と比べれば、その規模は多いに劣る。駐屯兵も千に届くか届かない程度しかいないはずだ。まずは、そこまで撤退するという事だろうか。
 
 石川曹長が僅か渋い表情を浮かべる。
 
 
「二十ですか?」
「何か問題でもあるか」
「動けない兵は、どうするつもりですか?」
 
 
 困惑の表情で、石川曹長が問い質す。ちらりと視線を投げ掛けた先には、左足の脛に赤黒く染まった包帯を巻いた目黒の姿があった。眼鏡のレンズが片方罅割れ、鼻からずれている。呼吸は浅く、失血のためか目が虚ろに濁っていた。それでも、その腕の中には、片時も離さないかのように麒麟が抱き締められている。
 
 目黒を眺めてから、金田中尉は一度ゆっくりと瞬きをした。数秒に満たぬその一瞬で、彼は決断していた。
 
 
「水と食料を一緒に置いていけ」
 
 
 石川曹長の身体が強張る。一瞬何か言いたげに唇を戦慄かせたが、結局何も言わなかった。下唇を噛み締めて、静かに頷く。歩みが遅くなれば、その分だけ危険が高まる。それを自覚しているからこそ、士官として見捨てなくてはならない命があると解っているのだろう。その光景を見詰めながら、葛之宮は自分の咽喉が勝手に言葉を発するのを感じた。
 
 
「置いていけば、彼は死にます」
 
 
 尖った眼差しが葛之宮を睨み付ける。金田中尉がまた御前か、とでも言いたげな眼差しを浮かべていた。
 
 
「それじゃあ、御前はどうしろって言う」
「彼を背負います」
「誰がだ」
「僕が」
 
 
 自分の口がまるで自分のものではないかのように動く。心は不思議なほど落ち着いていた。自己犠牲のつもりはなかった、少なくとも今この時は。ただ、そうしたかった。もしかしたら、自分は償いをしたいのかもしれない。スズメを野垂れ死にさせた償いを。それは、自己保身に満ちた酷く薄汚い感情だ。だが、それでも葛之宮は自分の言葉が間違っているとは思いたくなかった。命を見捨てることが正しいとは思いたくなかった。それが単なる綺麗事でしかなくても。
 
 
「誰もが自分の命を抱えるだけで精一杯の中で、御前みたいな奴に人の命が背負えるとでも思っているのか? 御前は、英雄にでもなるつもりか?」
「僕は、ただの臆病者です」
「何?」
「だから、彼を見捨てられない。見捨てる勇気がないんです」
 
 
 その無様な言葉は、葛之宮の胸にすとんと落ちてきた。自分自身で酷く納得した心地になる。そうだ、僕は臆病者だ。綺麗事を吐くのも、他人を見捨てないのも、涙を流すのも、ただ臆病だからじゃないか。
 
 金田中尉が真顔のまま、葛之宮を見詰める。その目は侮蔑の色を滲ませてはいなかった。まるで心の底を覗き見るような目だった。
 
 
「俺は、他人の命の価値を決めれるほど高尚じゃない。その人間を価値を理解することが出来るのは、人間ではない何かだけだ。だが、俺は将校として必要か不必要かを判断する。価値の問題じゃない。数の問題だ」
「はい」
「数の問題で言えば、御前のやろうとしている事は将校として最悪だ。一引かれるところを二引こうとする」
「二足されるかもしれません」
「その確率は低い」
「しかし、零ではありません」
 
 
 押し問答のような言葉を繰り返す。金田中尉は、一瞬口角を歪めた。
 
 
「御前も死ぬぞ」
「僕が死ねば貴方は喜ぶでしょう」
 
 
 即答した葛之宮に対して、金田中尉が一瞬面食らった表情を浮かべる。それから、酷く面白そうに目を細めた。
 
 
「そうだな」
「それなら止める必要はない筈です」
 
 
 動揺したように、石川曹長が身じろぐ気配があった。だが、葛之宮は金田中尉から視線を逸らさなかった。噛み付くような熱を持って、睨み付ける。金田中尉は、軽く鼻を鳴らした後、こう言った。
 
 
「では、好きにしろ」
 
 

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Published in 地平の戦争

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