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18 その重み

 
 人の身体というのは、こんなにも重いものだったのか。
 
 身体中の穴という穴からじっとりと粘着いた汗が滲み出てくる。額から目蓋の上を伝う脂汗が睫毛に乗って、目の前の光景が薄ぼやけた。咽喉からは、まるで飢えた獣のような荒い呼吸音が溢れている。初めはぢくぢくと痺れるように痛んでいた背中の傷も、もはや今では気にもならない。それ以上に、全身に圧し掛かる重さ、膝関節を貫くような痛みの方がよっぽど苦痛だった。
 
 あまりの苦しみに、断続的に胃袋が収縮して、内応物が咽喉元まで込み上げてくる。だが、葛之宮は決して嘔吐しなかった。嘔吐してしまえば、自分がこれ以上歩けなくなるのが解り切っていた。込み上げてきた酸っぱい胃液を必死で飲み下しながら、葛之宮は睫毛に貼り付いた汗を瞬きで払った。
 
 前方を見据えると、足場の悪い獣道を、数十名の兵士達が黙々と上っているのが月明かりの中、薄っすらと見えた。彼らと葛之宮との距離は、五十メートル以上離れている。
 
 
――また離されてしまった。
 
 
 移動を始めて二時間までは、目黒を背負った葛之宮は、彼らと殆ど変わらぬ速度で歩いていた。しかし、三時間目から少しずつ葛之宮の足取りは遅れ始めた。五時間目の今は、ともすれば彼らの姿を見失いそうになっている。山道は、まだまだ続いている。あと何時間なら自分は歩けるだろうか。いつになったら目的地に辿り着くんだろうか。そもそも目的地なんて本当にあるのか。そんな疑問がふと頭を過ぎって、無意識に吐き出す息が震えた。
 
 背後からは、荒くもか弱い呼吸音が聞こえてくる。目黒は、葛之宮の肩に鼻頭を押し付けるようにして、苦しげに喘いでいた。目黒が吐き出す息が葛之宮の首筋を生温かく舐める。だが、その息もいつ冷たくなるか解らない。目黒の左足からは、未だに血がとまることなく滴り続けており、その顔色は紙のように白く変わりつつあった。
 
 目黒を背負って歩くと葛之宮が言った時、目黒は虚ろな眼差しで葛之宮をじっと見上げた。まるで葛之宮の真意を確かめるかのような無言の視線だった。そうして、目黒は静かに首を左右に振ったのだ。その諦めろと言わんばかりの仕草に、葛之宮は落胆し、同時に酷く傷付いた。目黒は、葛之宮を信用していなかった。そうして、葛之宮に対して何の期待も抱かず、ただ自分の命を諦めていた。だからこそ、拒絶したのだ。しかし、葛之宮は目黒の諦めを受け入れなかった。拒絶する目黒を半ば無理矢理背負って歩き出したのは、慈悲でも尊厳でもなく、所詮自分自身の意地でしかなかった。
 
 歩き始めてからも、暫くは目黒は『諦めろ』と言わんばかりに首を左右に振り続けた。しかし、今ではもう首を左右に振ることもできず、ただ虫の息を零している。
 
 ここに置いて行けば間違いなく目黒は死ぬ。それぐらいは葛之宮にも解っていた。だからこそ、目黒の拒絶を、葛之宮はすべて受け流した。一度でもそれに応えてしまえば、二度と自分の足が動かなくなる気がした。目黒を背負う手から力が抜け、彼を見捨てて一人で逃げ出してしまう気がした。だから、何も応えず、ただ歩き続けた。
 
 山道を登る足には、既に感覚がない。ただ重苦しい倦怠感だけが骨の周囲にこびり付いて離れない。息が切れて、咥内から嫌な唾液が滲み出してくる。
 
 苦しい、死んでしまう、苦しい、泣きたい、この場に蹲って子供のように大声をあげて泣きじゃくりたい、苦しくて逃げ出したい、だけど、逃げたくない。相反する思いがせめぎあって、心臓を掻き乱す。頭上遥か高く、戦列の先頭を突き進むあの男から逃げたくなかった。それは憧憬とも反抗心ともつかない感情だった。酷く捻曲がった恋焦がしさにも思える感情だ。
 
 そうして、ひときわ鋭い斜面を踏み締めた瞬間、不意にぐらりと身体が傾いだ。足元の柔らかい地面が崩れる。強い重力を感じた後、前のめりに倒れた。暗闇が眼前に迫った次の瞬間、顔面が思いっきり地面に叩きつけられる。
 
 
「ッ、ぅグ!」
 
 
 ガッという鈍い音と共に鼻頭に激痛が走って、眼球の奥に火花が散った。鼻から頭蓋骨の内側へと、電流のように痛みが拡散する。奥歯を噛み締めた咥内に、苦い土の味が広がった。口の中に入り込んだ砂利を唾液と一緒に吐き出しながら、葛之宮は小さく噎せた。咽喉が乾燥しすぎたためか、噎せる度に咽喉の粘膜が剥がれるような鋭い痛みが走る。
 
 
「……しょ、…尉…」
 
 
 背後から、消えかかりそうな声が聞こえた。目黒だ。首筋にかかる息からは、もう殆ど温度を感じない。まるで見えない指先が皮膚を撫でたようにすら感じる。その感触にぞっとした。今ここで起き上がらなければ、目黒は確実に死ぬ。葛之宮の背の上で、静かに、すべてを諦めたまま。その瞬間、命が、その重みが、確かに葛之宮の背に圧し掛かってきた。
 
 
「…大丈夫、です」
 
 
 引き攣れた声で必死にそう答えたものの、葛之宮は倒れ伏した状態から起き上がることが出来なかった。身体が動かない。脹脛と膝の筋肉が硬直して、ビクビクと痙攣している。背負いきれない命を無理矢理に背負って、もう潰れてしまいそうだった。額を地面に押し付けたまま、葛之宮は絶望的な心地に陥った。
 
 このまま歩けなくなれば、金田中尉の言った通りになってしまう。
 
 マイナス一で済むところをマイナス二にした馬鹿将校と疎まれ、これだから現実知らずの坊ちゃんはと軽蔑されるのだ。それを考えた瞬間、怒りと紙一重の力が湧いてきた。歩く、歩くんだ、歩け。あの人に軽蔑されるのだけは、耐え切れない。奥歯を噛み砕きそうなほど噛み締め、足首に力を込める。土を掻き毟り、地面を踏み締め、膝頭が砕けそうなほどの力を込めて再び歩き出す。
 
 前方を見上げると、更に開いていると思っていた行列との距離は、むしろ縮まっていた。二十メートル程度の高みから、こちらを見下ろしていた南軍曹が声をあげる。
 
 
「本日は此処で駐軍です。休んで下さい」
 
 
 目黒を南軍曹へと預けた瞬間に、葛之宮は森へと向かってふらふらと歩いていた。部隊から数十メートル離れたところで、樹肌に額を押し付けて吐瀉物を地面へと撒き散らす。胃液が食道を這い上がって、咽喉を焼きながら吐き出される。疲労しきった身体が嘔吐の衝撃にビクビクと痙攣し、背骨が波打つ。鼻腔の奥に酸っぱい臭いが広がって、その気色悪さに再び吐いた。身体に力が入らず、ずるずるとその場に膝をつく。
 
 涙が出そうだった。自分自身の不甲斐なさがあまりにも居た堪れなかった。今日は耐え抜いた。だが明日は。明後日は。それを想像するだけで苦しい。逃げ出してしまいたい。
 
 胃液で濡れた唇に手の甲を押し付けて、葛之宮は静かに嗚咽を零した。自分という人間の底を見せ付けられた気分だった。所詮この程度の人間だった。何も耐え切れない弱い人間だった。
 
 不意に頭上の木がざわついた音を立てる。
 
 
「「くーずのみやクンっ」」
 
 
 薄笑いを滲ませた声が降り注いでくる。力なく頭上を見上げても、そこには深い闇に覆われた木々の影が薄っすらと見えるだけだ。だが、声には覚えがある。苗代兄弟だ。
 
 
「無事、だったんですか」
「死なないよ、おれらは」
「おれらはつよいもん」
 
 
 ヒヒヒッという淫靡な笑い声が梢に混じって聞こえてくる。姿が見えないのに声だけが聞こえるというのは、幽霊が囁きかけているかのようなおぞましさがあった。
 
 
「くずのみやクンはよわいね」
「よわいねえ。泣いちゃうくらいなら、めぐろなんか放りだしちゃえばいいのにさ」
 
 
 ギシギシと木々の枝を上下に揺らす音が聞こえる。同時に木の葉がパラパラと頭の上に振ってきた。
 
 
「放り出せば、彼は死にます」
「だからなんだっていうのさ。他人のいのちじゃない」
 
 
 声はそう呆気なく言いのける。
 
 
「背おわなくていいものを背おってしまうのは、業だよ。くずのみやクン」
「業だよ、くずのみやクン」
 
 
 繰り返される言葉に、脳味噌がくらりと揺らぐ。業だよ、業だよ、その言葉がぐちゃぐちゃに砕かれて脳味噌の中で撹拌されていく。いつの間にか、間近に四つの眼球があった。暗闇の中、白目部分が鮮やかな目玉が葛之宮を凝視している。そうして、ひたりと顎先に冷たい掌が触れた。葛之宮の顔を、まるで獲物の味を吟味しているかのように撫で回してくる。まるで二匹の蛇が皮膚の上を這っているようなその感触に、葛之宮は息を呑んだ。
 
 
「業をふかめるほど、いきることはつらくなる。にんげんは、もっと利己的であるべきだよ」
「他人をみごろしにしても、じぶんは死なない。そこがいちばんダイジなところだよ。くずのみやクン?」
 
 
 哀れみという名の誘惑が葛之宮の身体をまさぐる。二つの掌がひたひたと首筋を撫でてくる。薄い皮膚の下で、頚動脈が小さく震えていた。
 
 
「かわいそうに、くずのみやクン」
「こんなにぼろぼろになって、つらいでしょ、くるしいでしょ」
「もうめぐろをおいていこう。じゃないと、くずのみやクンが死んじゃうよ」
 
 
 やめてくれ、と叫びそうになった。両耳を塞いで、葛之宮は頭を左右に振り乱した。やめて、やめてくれ、これ以上乱さないでくれ。甘い言葉にぐらつきそうになる自分を、必死で押し留めようとする。それなのに、その甘言は葛之宮の皮膚に纏わりつき、毛穴から体内へと潜り込んでくる。
 
 
「くずのみやクンは、なーんにもわるくないよ。だって、ここは戦場だもの」
「戦争だもの」
「戦争では、なんにもわるくないんだよ」
 
 
 本当にそうなのか。戦争なら、何もかもが許されてしかるべきなのか。葛之宮は考えた。だが、答えは出なかった。出るはずもなかった。耐え切れず悲鳴をあげそうになった時、不意に背後から穏やかな声が聞こえてきた。
 
 
「少尉殿」
 
 
 背後に立っていたのは石川曹長だ。眉根を寄せて、蹲ったままの葛之宮を痛ましげに見詰めている。はっと頭上を見上げてみる。先ほどまであったはずの四つの目やその気配が、すっかりと消えてしまっていた。夢だったのか、それとも幻覚だったのか。
 
 
「…石川曹長」
「食事の準備ができております。ほんの僅かですが…食べて下さい」
 
 
 石川曹長が傍らまで近付いてきて、葛之宮の背をゆっくりと撫でる。その労わるような手付きが葛之宮の胸を詰まらせた。石川曹長が言いにくそうに続ける。
 
 
「明日は、自分が目黒を背負います。少尉殿は明日だけでもお休みになって下さい」
「それは…」
 
 
 咄嗟に葛之宮は言葉を失った。唇を半開きにしたまま、石川曹長を見詰める。
 
 
「…それは、出来ません。僕が、彼を背負わないと」
 
 
 足掻くように呟く葛之宮に向かって、石川曹長はぐっと眉を顰めた。数秒の沈黙の後、石川曹長は微か荒げた声で言った。
 
 
「貴方には、背負えない。もし私に背負わせないのであれば、目黒を置いていくと一言言って下さい。貴方は将校だ。将校を死なすわけにはいかない」
 
 
 決然とした声だった。石川曹長の決意が皮膚に突き刺さってくる。だが、その決意が葛之宮には重かった。重過ぎた。身体からぐにゃりと力が抜けるのを感じながら、葛之宮は弱々しく呟いた。
 
 
「僕に、将校であるだけの価値はありません」
「貴方がそうおっしゃっても、将校という肩書きだけで、貴方は兵にとっては道標にも等しい存在なんです。俺だって、目黒が好きです。あいつは大事な部下です。だが、目黒と貴方が死に掛かっていたら、貴方を助ける。目黒を助けることで貴方が死ぬのであれば、目黒が死ぬことを選ぶ。それが軍です」
 
 
 似たような台詞を聞いたと思う。それが戦争、それが軍、もしこれが現実なのだとしたら、あまりに残酷だ。そうして、その残酷さを受け容れることが出来ない自分は、きっとこの世界に適応して生きていくことは出来ないだろうと感じた。今までも、これからも。
 
 
「…でも、嫌なんです…」
 
 
 唇から嗄れた声が零れた。自分で言っておきながら、駄々っ子の台詞のようだと思って、唇が一瞬泣き笑いの形に引き攣った。
 
 そうだ、嫌なんだ。もう虚勢も意地も関係がない。ただ嫌だという理由しか、自分の頭にはなかった。心が叫ぶ。嫌だ嫌だ、どうしても嫌なんだ!
 
 
「少尉殿…」
「これは、単なる傍迷惑な偽善の押し付けなのかもしれない。結局は、僕のただの自己満足でしかない。解ってる、解ってるんです。だけど、それでも、彼を置いていくのは嫌だ。絶対に嫌だ」
 
 
 呻くように繰り返して、葛之宮は石川曹長を見上げた。石川曹長の哀しげな眼差しは、まるで死に逝くものを見送るような目だと思った。
 
 
「石川曹長を、苦しめているのは解っています。貴方は、とても優しい。そうして、自分を律している。貴方は、兵士達に必要な人間です。貴方を死なすわけにはいかない。でも、僕は違う。将校の肩書きを持っていても、心から軍に従することができない。そんな中途半端な人間が誰かを助けたいだなんて、本当は馬鹿げた話なんです。でも、彼を見捨てられない。どうしても、彼を殺したくない」
「何故ですか。どうして、そこまでして一介の兵士を助けようとするんですか」
 
 
 石川曹長が理解できかねる声音で問い掛ける。その言葉に、葛之宮はそっと思いを浮かべた。どうして、目黒を見捨てられないのか。どうして、目黒を助けようとするのか。そんなのは単純だ。
 
 
「彼を見捨てるのは、自分を見捨てるのと同じだからです」
 
 
 背負っているのは、目黒ではなく自分自身だった。自らの魂の重みだった。目黒を見捨てるのは自分自身を見捨てるのと同義だった。ただ、それだけの自己保身と自己愛に満ちた、酷く利己的な理由でしかない。
 
 石川曹長の顔が一瞬強張って、それからふっと解ける。穏やかな眼差しが葛之宮をじっと見下ろしていた。
 
 
「将校としての貴方の行いを手放しに認めることは出来ません」
「解っています」
「しかし、人間としては貴方の行いをとても尊く感じます」
 
 
 顔をあげた先に、大きな掌が差し伸べられていた。石川曹長が肩を竦めて、困ったように微笑む。
 
 
「例えそれが自分のためであっても、誰かを助けようとする行いが間違いであるわけがない」
 
 
 そう思わなければ、俺だってやっていけない。小さく掠れた声で石川曹長は囁いた。葛之宮はゆっくりと唾液を飲み、差し伸べられた掌を掴んだ。その掌は、葛之宮の手をしっかりと握り締めた。
 
 

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Published in 地平の戦争

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