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19 生きる意味

 
 咽喉の奥に流し込むようにして、水で溶いた粥を食った。目黒の包帯をきつく巻き直した直後、猛烈な疲労が全身に重く圧し掛かってきて、葛之宮はそのまま湿った地面の上で眠りに落ちた。
 
 朝起きた時には、傍らに南軍曹と石川曹長の姿があった。両足の潰れた豆には、いつの間にか丹念に包帯が巻かれている。微かな情けなさと面映さを抱えながら、葛之宮は寄り添うようにして眠る二人の下士官に声もなく手を合わせた。
 
 目を閉じる目黒の唇に掌を翳すと、弱々しい呼気が皮膚を震わせた。昨夜左足に巻き直した包帯には、再び薄っすらと血が滲んでいる。血の出は弱まっているが、完全に止まってもいない。まだ死んではいない、それだけが唯一の救いに思えた。
 
 朝食はなく、目覚めて十分後には二十数名の隊は行軍を開始した。隊の先頭で、金田中尉が短く言葉を発する。
 
 
「遅れるな」
 
 
 荒げてはないが、よく通る声だった。その薄くこけた頬には、泥がこびり付いている。金田中尉の石の目が最後尾に立つ葛之宮を見下ろす。何の感情もない、平坦な眼差しだった。
 
 
「拾わねぇからな」
 
 
 乱雑な口調だった。遅れれば捨て置くということか。露骨に葛之宮を指した言葉に、一瞬カッと頬が熱くなる。だが、歯向かうほどの余力もなく、葛之宮は無言のまま金田中尉から視線を逸らした。
 
 行軍が始まって直ぐに、昨日よりも荷物が軽くなっていることに気付いた。代わりのように、葛之宮の前後を挟むようにして歩く南軍曹と石川曹長の荷物が膨らんでいる。
 
 
「荷物、を」
「体調は万全ですか?」
 
 
 言い掛けた言葉を遮られる。南軍曹が肩越しにちらりと葛之宮に視線を遣りながら、そっと自身の唇に人差し指を押し当てる。葛之宮を見詰める眼差しは柔らかく、労わりに満ちていた。背後から、囁くような声が聞こえてくる。
 
 
「貴方の選択に、俺達も乗らせて欲しいんです。後乗りで申し訳ないのですが」
 
 
 石川曹長の言葉に、ぐっと息が詰まって、目が潤んだ。誰かが理解をしてくれる、支えようとしてくれる、それだけの事実が泣き出しそうなぐらい嬉しかった。その言葉が背中に感じる重みを軽くさせる。まだ歩けると思った。
 
 午後三時までに二度の休憩があった。五分間と十分間の休息。その休憩を、葛之宮は目黒の治療にあたることだけに費やした。目黒の皮膚は色をなくし、口元へ水を運んでも飲み込むだけの力も残っていない。虚ろな眼差しがそれでもなお未練がましく麒麟を凝視している。
 
 そうして、他の兵達の顔にも、色濃い疲労が滲んでいた。誰もが地面に尻をつき、木々に背を凭れ掛ける中、金田中尉だけは決して座り込もうとしない。直立不動のまま、じっと地図を見下ろしている。南軍曹がさっと金田中尉へと近付く。
 
 
「そろそろ水が底をつきます」
「判っている。三里ほど先に、荻羽という小さな村がある。そこで食料を補給する」
 
 
 短い会話の後、南軍曹が戻ってくる。カサカサに乾いた目黒の唇にそっと触れて、自分の水筒に残った僅かな水を、その唇へと流し込む。目黒が小さく噎せて、殆ど白目と黒目が融解しかけた眼差しを宙へと浮かべる。
 
 
「……置い、…て…」
「置いていかない」
 
 
 目黒の言葉を遮るように、南軍曹がはっきりと言う。目黒が最後の力を振り絞るように、たどたどしく首を左右に振る。その細く尖った目黒の顎を掴んで、南軍曹が繰り返す。
 
 
「御前を置いていかない。死ぬのは楽だが、もう少し辛抱して生きろ」
 
 
 傲慢とも取れる南軍曹の言葉に、目黒の乾いた唇が小さく戦慄く。しかも、首を振ろうにも、南軍曹に顎を取り押さえられていて、それすらも出来ない。目黒はまるで駄々を捏ねる子供のように、微かに身体を左右に揺さぶって、それから不意に、罅割れた眼鏡越しに葛之宮を睨み付けた。まるで親の仇でも見るかのような目黒の苛烈な眼差しに、葛之宮は息を呑んだ。
 
 
「…こんっ、な…身体にな、って、……生き、る意味、は…ない……ッ!」
 
 
 死に瀕した男のものとは思えないほど、鋭い熱を孕んだ言葉だった。目黒の眼球は、あまりの憤怒に白目部分が真っ赤に充血していた。そこには、無理矢理生かされるものの恨みがあった。死ねないことに対する呪いを葛之宮へと吐き出して、目黒は歯軋りを漏らした。
 
 
「もと、もとっ…役立たずで……銃も、まともに撃てっ…ない……生か、…されても、ムダ、だ……将校に…じっ、ぶんを…背負わせて…に、死ん…だ兵なんて、汚、名…を着せられる苦痛が、……アンタにわかるかッ…!」
 
 
 息をするのも苦しいなはずなのに、目黒はぜいぜいと荒い息の中で言葉を重ねた。葛之宮は、一瞬言葉に詰まり、それから酷く物悲しい感情に襲われた。それは、生に対する根本的な悲しみだったのかもしれない。無様に生きることよりも、潔く死ぬことの方が尊いのだろうか。それが真実美しいことなのだろうか。
 
 
「死にたい、ですか?」
 
 
 項垂れたまま、不明瞭に問い掛ける。目黒は、緩慢ながらも深い頷きを返してきた。その頷きには、心からの死への渇望が在った。
 
 
「でも、僕は貴方を死なせたくない」
 
 
 結局、最後には葛之宮の主観でしかなかった。その厚かましいまでの自己中心さに、いっそ失笑しそうになる。自己嫌悪の笑みを唇の端に浮かべた途端、不意に泣き出しそうになった。
 
 他人の命を決めれるほど、自分は高尚ではない。金田中尉の言う通りだ。それでも、彼を生かそうとする自分は何なのか。神にでもなったつもりか。どこまで、傲慢になれば気が済むのか。
 
 目を潤ませながら、目黒を見詰める。目黒の憎悪を受け止めて、それでも願うことを止められない自分は底無しの愚か者だと思った。
 
 
「生きる意味はあります。それがどういうものかは解らない。ただ、確かに在ると信じたいんです」
 
 
 声が掠れた。馬鹿げた言葉だと思った。だが、切実だった。
 
 
「僕を恨んでくださって結構です。呪って構いません。ただ、約束します。貴方が死んだら、僕も死にます。首を掻っ切って死にます。もっと酷い死に方がいいのなら、貴方が望むとおりに死にます。貴方ひとりだけ、苦しめて死なせることだけはしません。それだけは、約束します」
 
 
 唇から言葉が溢れた瞬間、葛之宮は背筋が粟立つのを感じた。死にたくないと喚いていた癖に、あれほどまでに生にしがみ付いていた癖に、一体自分は何を言っているんだ。死を約束するのなんか馬鹿げている。自決なんて、考えたこともないくせに…!
 
 それなのに、その言葉を撤回する気にはなれなかった。頭では泣き喚きたいほどの恐怖を感じているのに、心は曲がらなかった。葛之宮は、自身の上着の裾を鷲掴んだまま、身体の奥底から湧き上がってくる身震いを必死で押し殺した。だけど、隠し切れなかった。指先がカタカタと惨めに震えていた。怖かった、死ぬのが怖かった。だけど、どうしても、どうしても心には逆らえなかった。
 
 
「どうか生きることを諦めないで下さい。―――貴方は、僕の希望です」
 
 
 勝手に葛之宮の希望を押し付けられた目黒にしては、心底堪ったものではないだろう。震える葛之宮を見詰めて、目黒は一瞬頬を神経質に痙攣させた後、結局諦めたようにか弱い息をそっと吐き出して目を閉じた。まるですべてを委ねるような仕草だった。
 
 南軍曹は目黒から視線を逸らして、葛之宮の耳元へとそっと唇を寄せた。
 
 
「足から出血は止まりましたが、そのせいで左足が腐り始めています。このまま放っておけば全身が腐り落ちます」
 
 
 葛之宮は顔を苦渋に歪めた。目黒の左足は、まるでそこだけ千切れた人形の一部かのように、だらりと力なく地面に投げ出されている。奥歯をぐっと噛み締めながら、葛之宮は問い掛けた。
 
 
「どうすればいいですか?」
「足を切り落とすしかありません。しかし、そのためには最低限の設備や医師が必要です。今から荻羽という村に行きます。そこに医師がいればいいのですが、なにぶん小さい村なのであまり期待は出来ません」
 
 
 絶望的な状況に、思わず顔面を覆いたくなる。唇から零れそうになる呻きを抑えながら、葛之宮は懊悩の渦に飲み込まれそうになるのを必死で堪えた。今更悩んだところでどうなる。可能性が低いのは解り切ったことだった。自分の無力さも現実の酷薄さもわかりきったことじゃないか。あるのは、見えない希望に縋り付こうとする薄っぺらい覚悟だけだ。
 
 深く息を吐き出して、頭上を見上げる。曇り空はどこまでも続き、青空は欠片も覗いていない。今の現状に皮肉なぐらいお似合いな空だ。
 
 
「今更、悩んだところでどうしようもないんでしょうね」
 
 
 独りごちると、南軍曹が口元に微かな苦笑いを滲ませた。無言で肯定する表情に、葛之宮は顔面を引き締めた。
 
 
「可能性が零に近いことは解ってますが、諦めるにはまだ早い気がします」
「まだ、僕も石川曹長も歩けます」
「なら、大丈夫ですね」
 
 
 久しぶりに葛之宮は笑った。絶望的な状況なのは変わりないのに、自分が笑えるのが不思議だった。今更ながらに自分が楽天家になってしまったように思える。
 
 目黒を背へと括りつけて、その浅い息遣いを聞く。背中に微かに響く鼓動を、まだ諦め切れない自分は、実は誰よりも執念深い人間のように思えた。
 
 

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Published in 地平の戦争

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