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25 かずらの執着

 
 葛之宮も太い木の幹に背を預けて、数時間の仮眠を取った。だが、じっとしていると顔の周りに小蠅が際限なくたかってくるため、長時間の熟睡など出来るはずもなかった。どうやら葛之宮にへばり付いた血の臭いが蠅達を引き寄せているらしい。汗と泥とが溶解した血臭は、発酵してどこか酸っぱい異臭まで漂わせていた。親指の付け根で頬を拭うと、赤黒い汚れが棚引くようにこびり付いた。
 
 これは一体誰の血だろうと、一瞬葛之宮は考え、考えたところで解るわけもないと微かに苦笑いを浮かべた。それは葛之宮の血であり、スズメの血であり、目黒の血であり、仲間の血であり、敵兵の血であり、つまるところ人間の血だった。
 
 異臭を意識した途端、顔を洗いたくて仕方がなくなった。だが、貴重な水を洗顔などのために使うわけにはいかなかった。眠ることも出来ず、葛之宮はふらりと立ち上がった。鬱蒼とした木々の間では風も通らない。せめて風に当たりたくて、眠る兵達の隙間を縫うようにして森へと歩き出す。
 
 
 森からは何の音も聞こえなかった。ただひたすら沈み込むような暗闇と、自身が押し潰されて行くような閉塞感だけがある。行き場もなく暗闇を彷徨っていると、不安とも焦燥ともつかない感情が胸を覆い尽くすのを感じた。
 
 これから数時間後には戦闘が始まる。再びあの地獄が繰り返される。今度こそ自分は死ぬかもしれない。銃で撃たれ、腹を突き刺され、断末魔をあげながら息絶えるのかもしれない。それを想像すると、このまま逃げ出したい衝動に駆られた。たった一人戦線から離脱して、仲間を見捨てて逃げ出したい。惨めでも無様でも生き延びたいと願ってしまう。
 
 だが、逃げ出すわけにはいかない。何故、自問自答がこみ上げる。下らない矜持からか、それとも偽善に満ちた仲間意識からか、そんな事は解らない。死を選ぶことに理由なんて付けたくもない。ただ、死にたくないと思いながら逃げることと、死にたくないと思いながら戦うことの価値が一緒であって堪るものかと思った。それは天と地ほどの差がある。
 
 
 頭の中でぐるぐると思考が空回りをする。気付けば、ほんのお情け程度に開けた原っぱに出ていた。そこだけ木々が薄く、僅かながらに空も覗ける。空は曇っていたが、雲の隙間からは時折月明かりが射し込む。ようやく密室から抜け出せたような安堵を感じつつ、葛之宮はほっと息を吐いた。だが、その安堵はすぐに消えた。
 
 低い草の上で、数名の人影が揉み合っているのが視界に映った。押し殺された鈍い怒声が風に乗って微かに聞こえてくる。
 
 咄嗟に葛之宮は走り出し、地面に倒れた誰かに圧し掛かる二つの小柄な影、その片方の肩を掴んだ。そのまま、後方へと一気に引っ張る。勢いが殺し切れず、その影と一緒に葛之宮も草むらへと背中から倒れ込んだ。
 
 
「…ッ!」
 
 
 負荷が掛かった背骨が微か軋んだ音をあげる。葛之宮が身体を起こすよりも先に、小さな影が葛之宮の上に馬乗りになって胸倉を掴み上げていた。
 
 
「くそやろう、じゃましやがって!」
 
 
 その稚拙な言葉遣いには聞き覚えがあった。目を凝らすと、葛之宮に掴み掛かっている影が苗代兄弟の片割れだとようやく判別が出来た。怒声に直後に、苗代の片割れが拳を振り上げる。殴られると思い両腕で顔面を庇ったが、何秒待っても拳は落ちてこなかった。恐る恐る目を開くと、硬く強張った苗代の表情が見えた。
 
 
「糞阿呆共が。手前等二人とも、そんなに俺に首をかっ捌かれてぇのか?」
 
 
 冷え冷えと突き刺さるような金田中尉の声が聞こえる。葛之宮に馬乗りになっていた苗代の片割れの首筋には、ギラリと光る刀身が押し当てられていた。左手に刀を握る金田中尉の右腕には、もう一人の苗代の首が抱き込まれている。相当な強さで締め付けられているのか、金田中尉の腕の中でもう一人の苗代はぐったりと脱力していた。
 
 
「かずら、立て」
 
 
 ぺたぺたと刀身を首筋へと何度か当てながら、金田中尉が傲岸に言い放つ。葛之宮の上に圧し掛かっていた苗代かずらがゆっくりと立ち上がる。金田中尉と向かい合うようにして立つと、かずらはキツク金田中尉を睨み付けた。
 
 
「せんぱいは、なにもわかってない」
「いきなり襲ってきて、俺に何を解れと言うんだ手前等は」
「おれらは、せんぱいがほしいんだ。ずっとずっとほしかったんだ」
「馬鹿か、気色悪いことをほざくな」
「おれはほんきだ!」
 
 
 発火するようにかずらが叫ぶ。かずらの眼球は、夜目にも判るほど赤く血走っていた。金田中尉が眉間にぐっと皺を寄せる。
 
 
「五月蠅ぇ、ぎゃんぎゃん喚くな。万が一敵が近くにいたらどうするつもりだ」
「そんなやつ、ころしてやる。みんなみんなころしてやる。おれらはずっとそうしてきた」
 
 
 かずらが噛み付くように吐き捨てる。金田中尉は、嘲るように鼻を小さく鳴らした。
 
 
「お前等はずっとそうやって生きていくつもりか? 殺して殺して殺し尽くして、最後には自分も殺されるのか?」
「せんぱいだっておなじはずだ。いつかせんぱいも死ぬ。ころされる。死体のひとつになる」
「そうだな」
「だから、死ぬまえにいちどぐらいおれらのものになってくれてもいいじゃないか。おれらはせんぱいのために軍にはいった。せんぱいのために敵をころしまくってる。その見返りをくれてもいいじゃないか」
「俺はお前等に何も強制した覚えはない」
「それでも! ぜんぶぜんぶせんぱいのためだった! せんぱいのために何百人もころした! それなのに、おれらはなにももらえないのか! なにもむくわれないのか! そんなのはひきょうだ!」
 
 
 いきり立ったかずらが一歩足を踏み出す。その拍子に、首筋に当てられた刀がすぅっとかずらの首の皮を裂いた。裂かれた傷口から丸い血の滴が流れ出す。血の流れを見つめて、金田中尉が淡く目を細める。
 
 
「俺を犯せりゃ、お前等は満足するのか?」
「そうだ」
「そうか」
 
 
 素っ気ない相槌を漏らした後、金田中尉は短く息をついた。暗闇を暫く見つめた後、至極淡々とした声音で呟く。
 
 
「なら、この戦争が終わったら好きにしろ」
「すきに?」
「俺の身体を犯すなり切り刻むなり勝手にすりゃいい」
 
 
 自分の身体のことを言っているとは思えないほど冷めた言い様だった。葛之宮は、驚愕に息を呑んだ。かずらは未だ疑うように金田中尉をねめつけている。
 
 
「せんそうが、おわったら?」
「それまで、俺もお前等も生きてる保証はないがな」
「わかった。やくそくはかならず守ってもらう。せんそうがおわったら、せんぱいはおれらのものだ」
 
 
 断定的するようなかずらの台詞に、金田中尉は顔色一つ変えない。ただ、面倒臭そうに口角を歪めて、小さく溜息をつくだけだ。まるで子供の駄々に呆れ果てているような仕草。
 
 
 かずらがタッと地面を蹴って、金田中尉との距離を詰める。あ、と思った瞬間には、金田中尉の唇を奪っていた。それは一秒にも満たない一瞬のことだった。
 
 
「おれらのおんな、だ」
 
 
 かずらが金田中尉の耳元へと囁いて、その腕からとうに意識を無くしたうずらを奪い取る。そのまま、双子の片割れを肩に担いで闇へと向かう。その背へと、金田中尉が声をかける。
 
 
「かずら、お前が俺に執着するのは勝手だ。だが、うずらを引き摺るな。うずらはお前ほど物を考えていない」
 
 
 かずらが肩越しに軽く視線を向ける。軽蔑にも似た、冷たい眼差しをしている。
 
 
「おれののぞみは、うずらののぞみだ。生きるのも死ぬのもいっしょ。おれらはひとつだ」
 
 
 執着と思い込みにまみれたぞっとするような鈍い声音だった。その声の数秒後には、苗代兄弟の姿は闇に溶けて消えていた。
 
 

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Published in 地平の戦争

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