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26 生きてきた意味

 
 かずらの背が闇へと消えていくのを見送ると、金田中尉は心底疲れ切ったような溜息を吐き出した。苛立ったように片手で後頭部を掻き毟って、それから草むらに尻餅をついたまま呆然とする葛之宮へと剣呑な視線を向ける。その露骨に苦虫走った眼差しに、葛之宮は無意識に身体を竦めた。無言で放たれる威圧感に、心が惨めに萎縮する。
 
 
「…お前は図っているのか?」
 
 
 沈黙が辛くなってきた頃に、金田中尉が吐き捨てるように呟いた。葛之宮はその言葉の意味が把握出来ず、怪訝な眼差しで金田中尉を見上げた。葛之宮の困惑に気付いたのか、金田中尉が再び髪の毛を掻き乱しながら言う。
 
 
「面倒ごとが起こっている時に限って、お前が現れる。お前はそういう場所を嗅ぎとる力でも持ってるのか?」
 
 
 そう言い放つなり、金田中尉は微かな悔しさを頬に滲ませて葛之宮から視線を逸らした。馬鹿げた事を言っている自覚はあるのだろう。だが、問わずにはいられなかった。そういう歯痒い表情をしている。
 
 
「僕は、図っているつもりはありませんが…」
「嗚呼、そうだな。お前みたいな馬鹿正直なお坊っちゃんが謀り事なんざ出来るわけがないな」
 
 
 畜生、下らねぇことを聞いた。と金田中尉が小声でぼやく。中尉らしくない愚痴るような口調に、葛之宮は唖然とした。唇を半開きにしたまま金田中尉を見ていると、葛之宮の視線に気付いた金田中尉が眼差しを更に尖らせる。
 
 
「そもそも、お前は何故ここにいる」
「え」
「逃げるつもりだったのか?」
 
 
 脱走兵だと思われ掛けている事に、葛之宮は酷く焦った。まさか、と声を荒げて返す。
 
 
「違います! 僕はただ…!」
「大声を出すな」
 
 
 手首の付け根でこめかみを押さえた金田中尉が辟易したように呟く。葛之宮は即座に声を抑えた。まるで言い訳する子供のように、ぼそぼそと言葉を続ける。
 
 
「ただ、あそこにいるのが息苦しくて…」
「息苦しい?」
「血の臭いが離れなくて…」
 
 
 俯いたまま呟いている姿は、まるっきり教師に叱られる生徒のようだった。頭上から金田中尉がハッと鼻で嗤う音が聞こえて、途端羞恥心が込み上げた。
 
 
「申し訳ございません。部隊に戻ります」
 
 
 口早にそう申し出て、その場から去ろうとする。だが、立ち上がろうとした瞬間、頬にひやりと触れる物があった。突然の感触に、肩が跳ねる。目線を滑らせると、頬に押し当てられた手拭いが見えた。濡らされているのか、乾いた肌に酷く心地良い。
 
 
「血の臭いが離れないのは、お前が血塗れだからだ。少しは返り血を落とせ。鼻のいい敵兵なら血臭で気付かれるぞ」
 
 
 思いがけず嘲りも叱りも含んでいない声音だった。咄嗟に頬に押し当てられた手拭いを受け取ると、金田中尉は当然のように葛之宮の隣へと腰を下ろした。そのまま両腕を枕にするようにして、草むらに仰向けに寝そべる。その姿を葛之宮はどこか呆然とした気持ちで眺めた。
 
 
「あの、宜しいんですか?」
「何がだ」
「これは中尉の水を使われたのでは? これでは中尉の飲み水が少なくなります」
「だからといって、布に染み込ませたもんを今更飲むわけにもいかねぇだろうが。いいから、さっさとその汚ぇ面を何とかしろ」
 
 
 鼻梁に皺を寄せて言い放たれれば、流石にこれ以上遠慮するのも無粋な気がしてくる。恐る恐る濡れた手拭いで、顔にこびり付いた汚れを落としていく。元々余り綺麗とは言いがたかった手拭いが更にどす黒い色へと染まっていく。顔面に貼り付いていた血と泥が落ちていく爽快感に、葛之宮は小さく吐息を漏らした。風呂に入ったようにとはいかないが、皮膚を覆っていた汚れが落ちるだけでも随分と気持ちが違う。
 
 金田中尉は何も喋らず、ただ切り取られたような小さな空を見上げている。視線を向けなくても、眠っていないのはその抑えられた呼吸音で判る。草むらが風で揺らされる音よりも微かな、自制された呼吸音。人が生きている証拠。ぼんやりとそんな事を考えていると、ふと疑問が込み上げてきた。
 
 
「中尉は、戦争が終わったら本当に苗代兄弟のものになるんですか?」
 
 
 衝動的に問い掛けたものの、自分でも質問の滑稽さに思わず頬が熱くなった。この人がどんな道を選ぼうが、どんな目に合おうが、葛之宮には一切関係がないのに、一体何をずかずかと他人事に踏み入っているのか。
 
 唐突な質問に、金田中尉が頬に嘲りを滲ませる。
 
 
「嗚呼、約束は約束だからな」
「中尉は、それでいいんですか?」
「良いも悪いも、その時になってみなけりゃ判らねぇな。それに、十中八九俺も苗代の馬鹿兄弟もこの戦争で死ぬ。死ねば、約束なんてものは何の意味も為さない」
 
 
 だろう?と金田中尉が緩く首を傾げる。まるで自分の命も他人の命も一息に投げ捨てるような言い様に、葛之宮は自分の頭にカッと血が上るのを感じた。
 
 
「貴方は、どうしてそうなんですか」
「そう、とは?」
「どうせ死ぬと思っているのなら、何故戦うんですか。死ぬために戦っているとでも言うつもりですか」
 
 
 死を容易く口に出す金田中尉の無神経さがどうしても許せなかった。どうせ皆死ぬと思っている人間が指揮官という立場にいるなんて、部下に対する裏切り行為と同義だ。
 
 葛之宮の感情的な物言いに、金田中尉が口角を鈍く歪める。
 
 
「馬鹿を言うな。俺は自殺志願者じゃねぇんだ」
「それなら、どうして戦うんですか」
「成り行きだ」
「それこそ、巫山戯てます」
「仕方ねぇだろうが。それしか言いようがねぇんだから」
「貴方には、忠義というものはないんですか?」
 
 
 忠義、という一言に金田中尉の目尻がひくりと引き攣るのが見えた。目尻に刻まれた醜悪な皺から、じわりと憤怒の様相が金田中尉の顔面へと広がっていく。感情の覗けない石の目に、深紅の怒りが滲んでいく。
 
 不意に、胸に強い圧力を感じた。呻き声を漏らす間もなく、葛之宮は草むらの上へと仰向けに押さえ込まれていた。葛之宮の上へと馬乗りになった金田中尉が葛之宮の胸倉を掴んだまま、押し殺した怒声を吐き捨てる。
 
 
「忠義? 何に対する忠義だ。国か? 上官か? それとも、部下共に対する忠義か? 盗賊上がりの国賊兵士にそんなお高い思想なんざあるわけねぇだろうが。どうせ負ける戦いに、命を懸ける価値すらありゃしねぇ」
 
 
 鼻先が触れそうな至近距離で顔面を覗かれて、まるで呪詛のような言葉を突き付けられる。一言ごとに掴まれた胸倉がギリギリと締め付けられる。その息苦しさに葛之宮はグッと咽喉を鳴らして仰け反った。
 
 
「誰もが手前のように愛国心から戦うわけじゃねぇんだ。ここにいる奴らの大半は、無理矢理徴兵された農家や商家の次男や三男坊ばかりだ。逃げ出したいが脱走すれば銃殺、故郷の家族には一生泥が塗られる。だから仕方なく戦う。そうして、家に帰りたい、母親に会いたいと泣きじゃくりながら死んでいく。誰もが無意味に野垂れ死んでいく。こんな糞みたいな戦いに意味なんざあって堪るか。高尚な思想なんざあって堪るか」
 
 
 言葉が終わるのと同時に、掴まれていた胸倉を突き放される。背骨が地面へと叩きつけられる衝撃に息が詰まった。息苦しさに目を細めて、金田中尉を見上げる。金田中尉越しに、分厚い暗雲で覆われた空が見えた。空が見えるのに、まるで狭い箱庭に閉じ込められたような心地だった。
 
 
「なら…戦う意味はないと、言うんですか…?」
「そうだ」
 
 
 冷たく言い捨てられる言葉に、心臓が引き裂かれるように痛んだ。眼球に薄っすらと涙が滲んで、深い悔恨が腹の底から湧き上がってくる。衝動に突き動かされるように、葛之宮は金田中尉の胸倉を掴み返した。真下から声を叩き付ける。
 
 
「なら、どうしてスズメ君は死んだんですか…! スズメ君だけじゃない。他にも何百人もの仲間が死にました…! こんなにも死んで、何の意味もないなんて、あまりにも惨すぎる…!」
 
 
 こんなのは酷い。戦う事も、死ぬ事も、すべてが無意味だとしたら、どうして今ここにいるのか。恐怖を押し殺して、震えを必死に隠して、そうまでして何故戦わなくてはならないのか。命を懸けて戦った挙げ句に、どうして無意味に野垂れ死ななくてはならないのか。
 
 悲愴に叫ぶ葛之宮を、金田中尉の石の目が酷薄に見下ろしている。まるで死体でも見ているかのような、感情のない眼差しだった。
 
 
「この戦争は長引く。だが、最後には必ず負ける。国力も兵士の数も桁が違い過ぎる。いずれ命の消耗戦が始まる。いや、違うな。もう、始まっている。ここにいる奴らは全員《消耗品》だ」
 
 
 それはお前も同じだ、と言わんばかりの口調だった。労りなど欠片もない、ただ事実だけを突きつけるような淡泊な口調に、心臓が凍り付く。硬直する葛之宮を見下ろして、金田中尉が微か自嘲するように呟く。
 
 
「…死にたくなくて盗賊になって、死にたくなくて今度は国の犬になって、その挙げ句が野垂れ死にだ。無様過ぎて笑えもしねぇ」
 
 
 口の端で短く嗤い声を漏らす。そうして、葛之宮を見下ろすと、まるで哀れむかのように眉尻を軽く下げた。
 
 
「お前も戻って来なけりゃ、少しは長生き出来ただろうに。くだらねぇ綺麗事のために馬鹿をやったもんだな」
「自分は…後悔していません…」
「死ぬ時までそう思っていられるか?」
 
 
 問い掛けに、葛之宮は唇をぐっと閉ざした。即答出来ない自分が情けなかった。一度死を目前にした身体は、死への本能的な恐れをその体内にしっかりと刻み付けていた。口篭もった葛之宮を眺めて、金田中尉が冷たく呟く。
 
 
「逃がしてやろうか?」
「え…?」
「今からでも隊を離脱させてやる。村里のない道を通って、平柿作戦本部まで行け。山で迷ったフリをして合流すりゃ脱走とは見なされない」
「何を、言ってるんですか」
「そのまま、除隊して家に帰ればいい。伯爵家のお坊っちゃんなら突然の除隊だって許されるだろう」
「中尉、やめて下さい」
「暖かい家で、優しい家族に囲まれて、お前の言う綺麗事を好きなだけ信じ続けてればいい。そうすりゃ戦場で死んでいく消耗品共のことなんざ直ぐに忘れられるさ」
「どれだけ人をコケにすれば気が済むんだ!」
 
 
 怒声が抑えられなかった。葛之宮の上に乗っていた金田中尉の身体を力ずくで払い落とす。そのまま、その身体の上へと圧し掛かった。あまりの怒りで、脳味噌の芯が発熱している。頭から湯気が出そうだった。金田中尉の頭の両脇についた両腕がぶるぶると震えている。堪えられない。熱が全身の毛穴から音を立てて噴き出してくる。
 
 
「貴方は、僕を何だと思ってるんですか…!」
「世間知らずのお坊っちゃんだ」
「僕はお坊っちゃんなんかじゃない。帰ったって居場所なんかない」
「貴族の息子が何を言ってる」
「こんな目をした貴族の子供がいますか…ッ!?」
 
 
 感情のままに、右目を覆う布を毟り取る。途端、狭まっていた視界が大きく開けた。両目を見開いて、真下の石の目を睨み付ける。金田中尉は一瞬目を大きく開いた後、つまらなさそうに鼻を鳴らした。金田中尉に目を見られるのは、これで二度目だ。
 
 
「西の血か?」
「母の、血です。西国の没落貴族の娘を、父が戯れに買い取った結果がこれです」
 
 
 透けるような蒼い両眼、それが葛之宮に刻まれた呪いだ。この国では異質な、敵国の忌むべき色。葛之宮を生み落とした瞬間に母は息絶え、葛之宮にはただ呪いだけが残された。家族から疎まれ、異端者として扱われるこの目だけが。
 
 生まれた時から誰からも愛されなかった。蒼い目を持って生まれた葛之宮を、誰もが『出来損ない』と呼んだ。父も、何人もの兄弟達も、誰も葛之宮を家族の一員として扱わなかった。『色違い』と蔑まれ、嘲笑の的にされる。目硝子で目を黒くしても、何も変わらなかった。ただ目の色が違うだけで、この国に受け容れられない。確かにこの地で生まれ育った人間なのに、同じ言葉を話しているはずなのに――何処にも居場所がない。
 
 
「僕には帰る家なんかない。帰ったって、この目を隠して、好きでもない女と無理矢理結婚させられる人生しか待ってない。それなら、ここで戦いたい。何の意味がなくても、仲間と一緒に戦って死ぬ方がよっぽど…」
 
 
 言葉を吐き出す咽喉が震えて、声が詰まる。目の前の光景が滲んで、金田中尉の頬にぽつぽつと水滴が落ちるのが見えた。自分は泣いているのだ。情けなく、滑稽に。羞恥と惨めさが込み上げて胸が苦しくなる。それなのに、涙が止まらない。
 
 涙を誤魔化したくて、額を金田中尉の胸へと押し付ける。まるで、縋り付くように。そうして、酷く掠れた声でこう呟いた。
 
 
「――よっぽど、生きてきた意味があったと思える…」
 
 
 自分に失望して生きる方が、ずっと悲しくて辛い。逃げて生き地獄を味わい続けるぐらいなら、例え死ぬとしてもここで仲間と戦って死ぬ方がいい。その方が今まで生きてきた無為な人生を葛之宮は肯定できる。子供の駄々にも似た台詞に、悲哀と羞恥がない交ぜになった感情が胸を覆う。葛之宮は、声を殺して泣き続けた。今までの人生の後悔が涙になって溢れてくるようだった。
 
 どれだけ時間が経ったのだろう。ようやく涙が止まってきた頃に、葛之宮に組み敷かれた金田中尉が鈍く呟く声が聞こえた。
 
 
「重い。どけ」
 
 
 有無を言わせぬ声音に、葛之宮は慌てて金田中尉の上から退いた。起き上がったのと同時に、さぁっと全身から血の気が引いていくのを感じた。喚き散らして上官を押し倒した挙げ句にその胸に縋り付いて泣くなんて失態、不敬罪に問われても文句は言えない。自分は何て事をしてしまったのだろう。戦闘前に、この男に首を刎ねられても仕方がないだけの事をしでかしてしまった。青くなって押し黙る葛之宮を、金田中尉は静かに眺めている。その沈黙が余計に恐ろしかった。
 
 ゆっくりと金田中尉の掌が葛之宮へと伸ばされる。殴られるか、張り飛ばされるか、悪い想像ばかりが頭を巡る。咄嗟に目を固く瞑った数秒後、目蓋の上に乾いた指先が触れる感触があった。金田中尉の声が淡く届く。
 
 
「俺は、この世界にある大半のものが薄汚いと思っている」
 
 
 閉じられた視界の向こうから、独りごちるような金田中尉の声が聞こえた。金田中尉のものとは思えないほど、酷く穏やかな声音だった。躊躇うような数秒の沈黙の後、その声はこう続けた。
 
 
「お前の目は、空と同じ色をしてるんだな…」
 
 
 そう短く呟かれた言葉に、葛之宮は不意に胸を突き上げるものを感じた。息を呑んで、胸の奥から湧き上がってくる形容しがたい高揚に咽喉を戦慄かせる。なぜだか眼球の奥が酷く熱くなった。知らず目が潤む。傲慢で酷薄な男の突然の一言に、心が揺れた。
 
 
 金田中尉が乱暴な仕草で、葛之宮の右目へと再び布を巻き付けていく。右目が隠されると、金田中尉は迷いなくその場から立ち上がった。
 
 
「部隊に戻るぞ」
 
 
 素っ気ない一言だったが十分だった。金田中尉は、もう葛之宮に逃げろとは言わない。葛之宮は大きく息を吸い込むと、その場から一息に立ち上がった。
 
 

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Published in 地平の戦争

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