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27 麒麟と共に

 
 アサトが戻ってきたのは日付が変わる直前だった。夜になると途端湿り気を帯びて重たくなる草葉を掻き分けて戻ってきたアサトの身体には、無数の切り傷が出来てきた。荒く削られた傷口からじっとりと重たそうな血が滲み出している。だが、自分の傷に頓着する様子もなく、アサトは胸元から取り出した黒い書状を金田中尉へと差し出した。
 
 
「臼長井基地、小笠原昭乃の書状」
 
 
 端的にそう言い放つと、アサトは短く息をついた。どこともなく視線を巡らせると、独り言のように呟く。
 
 
「オレの服を返して」
 
 
 思いがけず子供っぽい口調だった。その声音から、アサトの疲労が窺えるようだった。大人でも半日かかる道のりを、子供の足で走り切ったのだ。本来ならば、今ここに立っているのもやっとだろう。
 
 療兵へとアサトを預けて、着替えと切り傷の治療を受けさせる。その間に、金田中尉はアサトから受け取った書状へと目を通した。金田中尉の周りでは、葛之宮、石川曹長、南軍曹の三人が固唾を呑んで金田中尉の言葉を待っている。
 
 
 一通の手紙を読むのには長過ぎるほどの時間が経った頃、ぐしゃりと書状が握り潰される音が聞こえた。金田中尉は無表情だ。だが、その口角は微かに震えている。隠微な筋肉の痙攣が怒りからの蠢きだという事に、葛之宮は直ぐ気付いた。
 
 
「畜生」
 
 
 無表情のまま吐き出された抑揚のない一言に、一瞬の戦慄を覚える。金田中尉は怒っている。それも猛烈に。憤怒で血管が千切れそうなほど。
 
 
「応援は望めませんでしたか?」
 
 
 南軍曹の問い掛けに、金田中尉は口角を痙攣させたまま皮肉げな笑みを浮かべた。
 
 
「いいや、兵士を百人ほど貸してやるとさ。瀕死の隊のために、我らも同士として力を貸すことはやぶさかではない、と随分とお偉い文章が書面には書いてある」
「それならば、何故“畜生”なのですか」
 
 
 怪訝そうな南軍曹の表情を見据えて、金田中尉が唇を左右に引き裂くように笑みを深めた。笑っている分、より凄惨な表情に見える。
 
 
「だが、我らは貴隊よりも兵数が多いため敵に気付かれる可能性も高い。奇襲を成功させるためにも貴隊らが先陣を切り、敵を攪乱したところで我らが隊が突撃を行うこととする。天子様の御加護の元に、貴隊らの武運を祈る――こんな巫山戯た事を書かれていても、畜生と言わずにいられるか?」
 
 
 息を呑む音が聞こえた。その音が自分が発したものなのか、それとも石川曹長と南軍曹の発したものなのかは解らなかった。金田中尉が畜生と吐き捨てた理由がこの瞬間、葛之宮にも正しく理解できた。
 顔を歪めた石川曹長が苦々しく言葉を紡ぐ。
 
 
「我々は二十名ほどの隊で、対して敵は百名を越えています。それで先陣を切り、尚且つ攪乱しろというのは…」
「つまりは俺達を死体になるまで戦わせて、手前らは一切犠牲を払うつもりはないって事だ」
 
 
 短い髪の毛をぐしゃぐしゃと指先で掻き乱して、金田中尉が獣にも似た唸り声を漏らす。
 
 
「作戦の変更はできないのですか?」
 
 
 葛之宮の問い掛けに、金田中尉がはっと鼻を鳴らす。
 
 
「奇襲まで後二時間を切った。今から作戦を変更する時間はない」
「それでは、こちらの命を踏み台にされているようなものじゃないですか」
「踏み台か。上手い事を言う」
 
 
 金田中尉がまるで心底面白い事でも聞いたかのように笑い声をあげる。切迫した状況に似合わぬ快活な笑い声だった。笑い事ではありません、と不快感も露わに言おうとしたが、金田中尉の血走った眼球にその言葉は咽喉の奥に飲み込まれた。
 
 
「あいつらが俺の隊を踏み付けるつもりなら考えがある。旨い蜜だけ啜って、にこにこと笑って基地に戻れると思うな…」
 
 
 鈍く呪詛を漏らして、金田中尉が足下の砂利をギリギリと踏み付ける。その憎悪の表情に、葛之宮は一瞬たじろいだ。それほどに金田中尉の表情は、この場にいない相手に対する殺意で満ちていた。
 傍観していた南軍曹が軽く肩を竦めて言葉を漏らす。
 
 
「ですが中尉、臼長井基地は腐っても味方です。敵を潰す前に、味方を潰しては意味がありません」
 
 
 冷静な言葉に、金田中尉がキツく奥歯を噛み締める。戦慄く頬肉の奥で、奥歯が軋む音が聞こえてくるようだった。だが、それも数十秒も保たなかった。金田中尉はゆっくりと息を吐き出すと、それまでの憤怒が嘘のように感情の見えない表情へと戻っていた。
 
 
「そうだな」
「この戦いを生き延びれば、報復は後から幾らでも出来ます」
 
 
 空恐ろしいことを漏らす南軍曹に対して、金田中尉は同意を示すように頬を酷薄な笑みに歪めた。こういうやり取りを見ると、南軍曹が何故下士官という立場ながらに金田中尉の補佐に選ばれたのかがよく理解出来た。他者との軋轢の多い金田中尉に人当たりのよい南軍曹、一見すれば相反する二人だが、ふとした瞬間に見せる冷酷さはよく似通っていた。
 
 
「ですが、作戦変更も出来ないのならば、こちらが先陣を切る事は変わりません。二十名程度の兵隊で、どうやって百名以上の敵を攪乱すればいいのか…」
 
 
 ちらちらと不安げに南軍曹を眺めていた石川曹長がぽつりと呟く。その問い掛けに、金田中尉が一瞬押し黙る。口元に掌を押し当てたまま、思い悩むようにじっと地面を眺めている。数分の沈黙の後、金田中尉がふっと顔をあげた。
 
 
「目黒は何処だ」
 
 
 
 
 
 ロバに負ぶわれて死んだように眠っていた目黒を揺り起こす。眠りから覚めた目黒は緩慢な瞬きを繰り返した後、何かご用ですか、と存外にはっきりとした声をあげた。
 金田中尉が目黒へと近寄って、その顔を真っ直ぐ見据える。
 
 
「お前は、麒麟が使えるか?」
 
 
 その一言に、葛之宮は身体が硬直するのを感じた。金田中尉が言った麒麟とは、目黒が執着する遠距離射撃用の銃の事だ。一キロ離れた場所からでも猫の額を撃ち抜けるほどの精度を持っていると言われているが、確か使いこなせる兵はいなかった筈だ。三パーセントほどの命中率では使おうと思う指揮官がいるわけもなくお箱入りになっていたはずだが。
 南軍曹が諫めるように金田中尉の肩を掴む。
 
 
「中尉、目黒は近視です」
「そんな事は解っている。だが、近視というのは遠くは見えなくても近くは見えるという事だ。麒麟に付いている照準装置なら、遠いものは近くに見える。近視なんてものは関係がなくなる」
 
 
 金田中尉の言葉に、南軍曹が虚を突かれたように黙り込む。金田中尉が更に問い詰めるように目黒との距離を縮める。
 
 
「以前から、お前が隠れて麒麟の射撃訓練をしていた事は知っている。そのために、武器庫の管理をしながら何度も弾をくすねていたこともな」
 
 
 口早な金田中尉に対して、目黒は徹底して無言だった。血の気のない表情でぼんやりと金田中尉を見つめたまま動かない。
 
 
「その程度のことで処罰を下すつもりはない。ただ、俺は知りたいだけだ」
「何を、ですか」
「命中率は何処まで上がった」
 
 
 簡潔な金田中尉の問いに、目黒は一度ゆっくりと瞬いた。そうして、酷く淡泊な口調で答えた。
 
 
「八十五パーセントです」
 
 
 酷く驚いた。三パーセントが八十五パーセントへと上がるなんて信じられない。だが、嘘と断定するには、目黒は淡々としすぎていた。奢りも高ぶりもなく、ただ事実だけを言っているかのように、その醒めた表情は動かない。
 
 
「どうやって上げた」
「照準装置に致命的なズレがあったので、それに気付いただけ、です。距離の誤差を把握して、慣れれば、麒麟は使えない武器では、ない。どんなに離れていても、対象を撃ち抜ける」
 
 
 無機質とも思える表情に対して、目黒の言葉は熱情に満ちていた。今まで胸の内に秘めていた悔しさや情念をすべて吐き出すかのような声音に、微かに皮膚が戦慄く。
 金田中尉が静かに問い掛ける。
 
 
「どんなに離れていてもか」
「撃てる」
 
 
 迷いのない目黒の返答に、金田中尉が小さく頷く。
 
 
「今から二時間後に、西国軍先兵隊に奇襲をかける。それまでに、お前を敵陣地が見渡せる場所まで登らせる。そこから三人の将校を撃ち抜け。将校の見分けは付くな?」
「つきます」
「ならば、撃て」
「わかりました」
 
 
 淡々としたやり取りに、一瞬事態が把握出来なくなりそうになる。唖然とする葛之宮よりも早く、南軍曹が苦い声を漏らした。
 
 
「中尉、本気ですか?」
「勿論、本気だ。指令塔である将校を失えば、敵隊を指揮するものはいなくなる。特に遠距離からの狙撃であれば射撃方向も解らず兵士達は混乱するだろう。そこを更に四方から銃撃する。そうすれば、少なくとも臼長井の連中が来るまでは大規模な反撃はうけないはずだ」
「確証のない作戦に命を賭けるつもりですか?」
 
 
 率直な南軍曹の物言いに、金田中尉が微かに苦笑いを滲ませ。まるで聞き分けのない子供を窘めるような表情だ。
 
 
「なら、二十人程度の戦力で馬鹿正直に突撃するのが正しいのか?」
「そんな事は言っていません」
「俺は、今この時点で俺が思い付く最も生存率の高い作戦を提案しているだけだ」
「目黒が失敗すれば終わりです」
「そうだな。だが、それがどうした」
「中尉、勘弁して下さい」
 
 
 素っ気ないを通り越して冷淡な金田中尉の返答に、南軍曹が額を押さえて呻くように呟く。そんな南軍曹を見て、金田中尉が口角を酷薄に歪めた。
 
 
「俺はな、南、俺はこの巫山戯た戦闘で誰一人として死なせるつもりはない。誰一人としてだ。そのためならどんな荒唐無稽な作戦だろうがやってやる。全員生き残るか、全員死ぬか、どちらかしかもう道はない」
 
 
 そう断言すると、金田中尉は「腹を括れ、南」と言葉を続けた。南軍曹は物言いたげに数度唇を動かしたが、結局何も言わずに静かに溜息を吐いた。
 金田中尉が石川曹長へと視線を向ける。
 
 
「石川曹長、君はどうだ」
「中尉が決めてるという事は、もう俺達は従うしかないという事でしょう」
「随分と物分かりがいいんだな」
「耳障りのいいだけの精神論を語られて決死の突撃を要求されるよりかは、可能性が低くとも生き残れる作戦に乗った方がマシなだけです」
 
 
 そう言いながらも、石川曹長は呆れ切った表情を浮かべていた。隣に立つ南軍曹と視線を合わせると、どちらともなく長い溜息を零した。
 金田中尉が最後に葛之宮を見る。
 
 
「お前は、少尉はどうだ」
 
 
 熱が込められた石の目が葛之宮を真っ直ぐ見据えている。葛之宮は一瞬目黒へと視線を滑らせた。目黒の双眸には生き物の光が宿っている。麒麟と戦う闘志に満ちて。
 
 
「僕は、目黒さんは、彼はやり遂げると思います」
 
 
 確信を持って、心からの信頼を抱いて、葛之宮ははっきりと答えた。目黒の目が輝く。その瞬間、解った。目黒はずっとこの時を待っていたのだ。誰かに信頼され、麒麟と共に戦う瞬間を。
 葛之宮は更に言葉を続けた。
 
 
「ですが、敵の将校はおそらく天幕の中にいるはずです。どうやって、野外、射程位置までおびき出すつもりですか?」
 
 
 問い掛けに、金田中尉が小さく首肯する。
 
 
「そのためには、もう一名動く必要がある」
「もう一名?」
「南、爆薬は残っているな」
 
 
 首を傾げる葛之宮ではなく、南軍曹へと鋭く声を掛ける。南軍曹が肩を竦めながら答える。
 
 
「ええ。ですが、手榴弾なんて気の利いた物は残っていませんよ。あるのは爆竹紛いの爆薬が数えるほどです」
「それで十分だ。敵をおびき出せればな」
 
 
 そこまで聞けば、流石に作戦の内容も想像が付いた。顔を蒼くして黙り込んだ葛之宮を見て、金田中尉が真顔のまま言い放つ。
 
 
「つまり、敵陣へ爆薬を投げ込み、天幕から将校共を炙り出す役が必要だってことだ」
 
 
 言うのは簡単だ。何だその程度の事と思えればよかっただろう。だが、その重みを理解した瞬間に笑みは凍り付く。敵陣に爆薬を投げ込むという事は、相当な至近距離まで敵陣へと近付くという事だ。そうして、爆薬を投げれば勿論敵兵に存在を気付かれる。投げた方角を知られれば銃撃もされる。つまり、それは命を落とす確率が最も高い役回りだ。
 沈黙が訪れる。最初に、沈黙を破ったのは金田中尉だ。
 
 
「それは俺がやる」
「馬鹿言わないで下さい。貴方は指揮官です」
 
 
 南軍曹が窘めるように即座に切り返す。鼻梁に薄く皺を寄せた金田中尉が南軍曹を睨み付ける。
 
 
「なら、誰がやる。誰ならやれる。言っておくが、お前らには兵士の指揮義務がある。お前らにやらせる仕事じゃあない」
「だからといって指揮官がする仕事でもありません」
「ここで、やるやらないで討論する時間なんてありゃしねぇぞ」
「僕がやります」
 
 
 唐突に放たれた一言に、一瞬その場の空気が止まる。金田中尉の訝しげな視線が葛之宮へと向けられる。葛之宮は一瞬息を止めて、それからもう一度繰り返した。
 
 
「僕が、やります」
「お前が?」
「はい」
 
 
 一瞬、金田中尉が鼻で嗤うかのように口角を吊り上げる。だが、結局金田中尉は嗤わず、葛之宮を無表情に見詰めた。
 
 
「やれるか」
「やれます」
 
 
 やり取りは酷く短かった。金田中尉が視線を地面へと伏せる。暗闇の中で、金田中尉の睫の一本一本がやけにはっきりと見えた。金田中尉らしくない、細く柔らかい繊細そうな睫だ。もしかしたら、死ぬ瞬間に思い出すのはこういう些細な事なんだろうかと葛之宮は一瞬夢想した。
 
 葛之宮と金田中尉のやり取りを見ていた石川曹長が慌てた声をあげる。
 
 
「少尉殿が、やるべき事ではありませんっ。自分がやりますっ」
 
 
 必死な声音に、葛之宮に対する気遣いが読み取れた。微か焦燥に駆られた石川曹長の表情に、葛之宮は何とも言えない愛しさを覚えた。人に対する純然たる愛おしさだ。
 
 
「有り難うございます、石川曹長。ですが、僕は少尉という肩書きを持っているだけのただの一兵士です」
「ですが…」
「石川曹長や南軍曹が欠ければ、兵士達の指揮をする者がいなくなります。つい数日前に軍隊に入った僕よりも、ずっと貴方達の方が必要だ」
「やめて下さい、そんな言い方は…」
 
 
 くしゃりと歪められた石川曹長の悲しげな表情に、心臓の辺りが不意に温かくなる。嗚呼、この人は本気で葛之宮のことを心配しているのだ。人間らしい優しさから。
 葛之宮はゆっくりと自身の心臓の上に掌を置いた。鼓動は正常な速度で打っている。
 
 
「僕は、…たぶん大丈夫です」
 
 
 根拠もなくそう言い切る。勿論本気でそう思っている訳ではなかった。数時間後に撃ち殺されている自分の姿が目蓋の裏に想像できる。だが、例え嘘でも大丈夫だと口に出さなくてはならないと思った。
 へらりと気の抜けた笑みを浮かべると、石川曹長が余計にくしゃくしゃに顔を歪めた。石川曹長の言葉を遮るように続けざまに言う。
 
 
「大丈夫ですから」
 
 
 不思議と、繰り返していると自分でも本気でそう思えてきた。楽観的な考えが恐怖を麻痺させていく。それを危険だとは思わなかった。むしろ、その楽観性こそ今の葛之宮には最も必要だった。そうしなければ、一歩も動けなくなるから。
 石川曹長はもう何も言わなかった。ただ、泣き出しそうな表情で俯いている。その傍らに立つ南軍曹は、何か物言いたげな表情で葛之宮を見詰めていた。
 それまで黙っていた金田中尉が短く声をあげる。
 
 
「時間がない。準備に取り掛かれ」
 
 

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Published in 地平の戦争

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