Skip to content →

28 伝達不良の結果

 
「我々は、少尉殿の二十メートルほど後方を着いていきます。危険を感じたら、無理はせず一度後退して下さい。自分達が少尉殿を支援いたします。どうかくれぐれもお気を付けて」
 
 
 そう言って、数えるほどの兵士を連れた石川曹長と別れたのは何分前だっただろうか。それとも何十分前か。何秒前か。歩き始めてから、自分の時間感覚に致命的な齟齬が発生している事に葛之宮は気付いた。胸元に入れた懐中時計を取り出して確認したかったが、余分な動作をする事は躊躇われた。
 
 呼吸は長く深く、最小限な回数で、呼吸音を可能な限り消した。今は一つの大きな音が命取りになりかねない。自分の人生で、これほどまでに集中した事があっただろうか。士官学校の卒業試験だって、ここまで緊張はしなかった。当然だ。あの時は命が掛かっていなかった。
 
 
 木々に覆われた闇の中、ゆっくりと瞬く。先ほどまでは楊枝の先ほど小さかった灯火の明かりが次第に大きくなっていく。目蓋の上を伝う汗で霞みそうになる視界、瞬きで汗を払って距離を目測する。大体五十メートル程度だろうか。時折左右に動く灯火は、おそらく敵兵見張りが持つ松明の光だろう。
 
 脳裏に浮かんだ『見張り』という単語に心臓が跳ねる。途端大きくなった鼓動音に自分自身驚いた。ゆっくりと呼吸を繰り返して、落ち着けと何度も頭の中で呟く。落ち着け、落ち着け、大丈夫だ。暗示のような言葉を阿呆の一つ覚えのように繰り返して、静かに息を吐き出す。
 
 鼓動がマシになって来た頃に、再び足を進める。上半身を半分に折るように屈めたまま、一歩一歩気が遠くなるような速度で敵陣へと向かって進んで行く。左足の踵を地面へと慎重に下ろす。踵が地面に付けば、続いて爪先もカタツムリほどの鈍速で下ろしていく。間違っても枯れ木など踏まないよう、足元には細心の注意を払う。鈍い足取りに脹ら脛が痺れるように痛んだ。親指の付け根に感覚がない。だが、進む。まだ、五十メートルもある。
 
 
 予定された奇襲の決行まで、もう十分を切っていた。開始の合図は、葛之宮の投げる爆薬だ。目黒は、もう射撃位置に付いているだろうか。照準装置を覗き込む片足の男の姿がぼんやりと脳裏をよぎる。元々足を切り落とされて瀕死状態だった男を無理に動かしたのだ。むしろ、今頃痛みか出血のあまり気絶していても可笑しくはない。もし、その想像が現実だったとしたらどうなるのだろうか。敵将校を狙撃する者はいなくなる。そうなれば奇襲は失敗だ。
 
 無駄死にという言葉が思い浮かんで、ぞっとする。考えては駄目だと思うほど、その言葉は葛之宮の頭にこびり付いて離れなくなる。唇から零れそうになる呻き声を、頬肉の内側を噛んで必死に堪える。眼球に滲む涙が煩わしい。涙ぐんでる暇があるなら、一歩でも足を進めろ馬鹿野郎と自分自身を罵倒する。
 
 役割を果たす。死んでも果たす。殆ど強迫観念のように脳味噌へと叩き込む。葛之宮の数十メートル後ろには、石川曹長や彼に引き連れられた兵士達がいる筈だ。別方向には南軍曹や他の兵士達が敵陣を取り囲むように動いている。敵将校が撃ち殺されれば、今度は彼らが敵陣へと即座に射撃を開始する手はずになっている。その誰もが生き延びたいと願っている。無駄死にはさせない。絶対に、何があっても。葛之宮は、自分の役割を果たさなくてはならない。
 
 
 灯りが近い。屈めていた身体を更に低くする。草むらの隙間から敵兵の軍靴が視界に入った。複数の足音も聞こえる。西国語での会話も。もう距離は五メートルもない。傍らの木の幹に背を押し付けて、敵陣の様子を盗み見る。木々を抜けた小さな平地に築かれた陣地、その中央に本陣らしき天幕が張られていた。周りには警備らしき兵士達も立っている。
 
 敵陣を垣間見ながら、ひたすら呼吸を押し殺す。皮膚は熱いのに、体内は凍えそうなほど冷たかった。それなのに、額からは止めどもなく汗が滴り落ちてくる。滅茶苦茶な身体の反応に、もう笑うしかなかった。頬肉が微かに痙攣する。頬肉だけじゃない。指先も膝頭も、どこもかしこも怯えた小動物のように小さく震えている。
 
 自分は怖いのか、と他人事のように考える。嗚呼、怖い。だって、今から殺される。体中に銃弾を撃ち込まれて、血を噴き出しながら死んでいく。あの地平を埋め尽くす死体の一つとなる。負の想像が脳裏を覆っていく。死にたくない。死にたくないと脳味噌が喚き散らす。恐怖に心が凍り付く。
 
 
 それなのに、手が勝手に動く。身体が脳を裏切る。目蓋の裏に浮かぶのは、地平に立ち尽くす男の姿だ。死を喰らいながら、生へと向かって突き進む男。あの石の目が葛之宮を見ている。使命を果たさなければならない。
 
 腰に付けられた袋の中から、掌に収まる程度の爆薬を取り出す。震える指先で燐寸を擦る。闇の中に浮かび上がる仄かな灯り。直ぐ近くで敵兵の足音が止まるのを感じた。敵兵が訝しげな声をあげるのが聞こえる。それが警戒の叫びへと変わる前に葛之宮は掌に握り締めた爆薬を敵陣へと一息に投げ込んだ。投げると同時に、両耳を塞いで地面へと額を擦り付けるように倒れ伏す。
 
 瞬息後、閃光。同時に、鼓膜を貫くような鋭い破裂音が響き渡った。内臓を震わせながら衝撃が体内を通り抜けていくのを感じる。目蓋を通って眼球の奥に激しい光が突き刺さる。西国語での驚愕の悲鳴が聞こえる。
 
 その数秒後、葛之宮が隠れる木に銃弾が撃ち込まれた。燐寸の灯りに気付いた敵兵が葛之宮へと撃って来ているのだ。銃弾によって削れた樹皮が後頭部の上に落ちてくる。銃弾が頭上を掠めるのが首筋をなぶる風で解った。
 
 
――まだ、目黒はまだ撃たないのか。
 
 
 焦燥が胃を焼く。恐怖の余り、胃液が逆流しそうだ。悲鳴をあげそうになる唇を必死に両手で押さえる。苦しい。息ができない。だが、叫べば撃たれる。でも、苦しい。
 
 
 混乱する敵陣のざわめき。兵士達を諫めるような西国語での鋭い叫び、おそらく将校の命令の声か。だが、その声が唐突にブツンと途切れた。この世の音がすべて消えてしまったかのような一瞬の静寂。その奇妙さに、葛之宮は思わず敵陣の方向を仰ぎ見た。
 
 見えたのは、天幕の傍らに立った将校がぐらりと地面に倒れる姿だ。遠目からでも、その将校の顔面が血に染まっているのが見える。将校の周りにいる敵兵が信じられないものでも見るかのように倒れる将校を眺めている。
 
 
 続けざまにもう一人。まるで紙相撲の力士が風圧でパタンと倒れるかのように、鷹の勲章を胸に飾った男が崩れ落ちる。葛之宮には、その男の額に穴が空く瞬間が見えた。それは酷く奇妙な光景だった。銃声もなく、人間の頭に突然ポツッと穴があく。それは撃たれたというよりも、内側から一センチ程度の穴が身体の表面へと浮き上がってきたとしか思えない光景だった。一呼吸後に穴から血が大量に噴き出すが、血の噴出に対して地面に倒れていく動作は酷く緩慢に見えた。何故か、その光景には奇妙な長閑さすら漂っていた。
 
 不意に、皮膚がぞくりと戦慄いた。これを目黒がやっているのだ。瀕死の男が冷めた眼差しで麒麟を覗き込んで、この死体を作り上げている。
 
 
 三人目、最後の将校の左胸を目黒の放った銃弾が貫く。次の瞬間、敵陣へと目掛けて四方からの一斉掃射が始まった。今度は破裂音を伴った“生”の銃声だ。皮膚に触れるような銃撃音に、敵兵が蟻のように逃げ惑い始める姿が見えた。数秒も待たずに、大気が血の臭いで満ち満ちた。撃たれて地面をのたうち回っている者、逃げ場がなく陣地を狂ったようにぐるぐると走り続ける者。指揮する者を失った隊の末路は悲惨だった。狼に襲われた羊のように無惨に喰い殺されていく。
 
 絶叫と噎せ返るような血の臭いに、葛之宮は地獄を思った。また地獄に来たんだと、その瞬間実感した。
 
 
 だが、他人事のように考えていたのもその時までだ。不意に、一人の敵兵が葛之宮が身を潜める方向へと駆けて来た。おそらく森へ逃げ込もうとしたのだろう。敵兵が向かう方角には、石川曹長達がいる。
 
 葛之宮は木の影に隠れたまま、咄嗟に右足を突き出した。葛之宮の足に引っ掛かって、敵兵が肩から地面へと転がる。考える暇はなかった。腰に括り付けた短刀を引き抜いて、葛之宮は敵兵へと飛び掛かった。
 
 葛之宮の姿を見とめた敵兵が反射的に足を振り上げる。太股を蹴り付けられ、痛みに膝がガクリと折れる。葛之宮は咽喉の奥で呻き声を噛んだ。無我夢中で敵兵の胸倉を掴んで、短刀を振りかぶる。だが、その腕を掴まれる。地面の上を転がりながら、四肢を振り乱してもみ合った。
 
 髪の毛を鷲掴まれて、そのまま頬を地面へと擦り付けられる。砂利で皮膚が破れて、血が滲み出すのを感じた。だが、痛みは感じない。体内を満たす熱が痛覚を麻痺させていく。
 
 地面に頬を擦り付けたまま、葛之宮は敵兵を見据えた。その瞬間、敵兵がハッと息を呑んだ。葛之宮の腕を掴む手の力が微かに緩む。一瞬の隙を逃さず、葛之宮は勢いをつけて爪先を振り上げた。敵兵の下腹部へと爪先がぶち当たる固い感触。敵兵が短い叫び声をあげて、上半身をぐっと前のめりに倒す。近付いてきた身体、その肩口へと目掛けて葛之宮は短刀を突き刺した。骨に当たったのか、刃先にカツンと固い感触が走る。
 
 痛みと恐怖に歪められた敵兵の表情、それを二度見る前に葛之宮は敵兵の肩から短刀を一気に引き抜いた。途端、熱い血が迸った。噴水のように噴き出した血が顔面へと飛び散る。生温かく錆臭い液体に生理的な嫌悪が込み上げる。
 
 碧眼が葛之宮を凝視している。敵兵の驚愕と恐怖の眼差し、葛之宮と同じ目の色。敵兵は葛之宮と同じ年頃の青年だった。葛之宮は、胸の内に不可思議な感傷が湧き上がってくるのを感じた。嫌悪にも似たほんの一欠片の同情。まるで自分自身を殺すような薄気味悪さ。
 
 痛みで力が抜けた敵兵の身体を地面へと引き摺り倒して、血に濡れた刀を振り上げる。敵兵が叫んだ。
 
 
『何故だ!』
 
 
 敵兵は見ている。葛之宮の右目を。右目を覆っていた布は、もみ合っている最中に外れていたようだった。自らと同じ蒼い目を見つめて、敵兵は問い掛ける。葛之宮は、何故同胞を殺すのだとその男に詰られているように感じた。
 
 葛之宮は何も言わず、ただ刃を男の左胸へと向かって深く刺し込んだ。ぐにゃりと柔らかい感触が刃越しに伝わってくる。
 
 
「僕は、あんたらの仲間じゃない」
 
 
 諭すようにそっと囁く。なら、誰の仲間か。誰の仲間でもないのか。
 
 刃に貫かれた敵兵の身体がビクンと一際大きく跳ねる。肉に埋もれた刃先から、生命にしがみつく男の鼓動が伝わってくる。どくん、どくん、と刀身が脈打っている。だが、それも数秒後には消えた。
 
 絶命した敵兵の胸から刃を引き抜く。血に濡れた刀身が闇にどろりと重く溶け込んでいる。葛之宮の心は、人間を殺した事に対する怯えを感じなかった。罪悪感も、嫌悪も、歓喜すらない。ただ、今はもう動かなくなったモノを無感情に眺めるだけだ。
 
 もしかしたら、と思う。もしかしたら、自分は自分が思っているよりもずっと非道な人間なのかもしれない。
 
 
 だが、そんな事を長々と考えている時間はなかった。既に戦闘は、混沌の時を迎えている。
 
 銃声の少なさから、西国軍は自分達を襲っている敵が少数だという事にようやく気付いたのだろう。指揮官がいないなりに兵同士がまとまって、反撃を開始しようとしている。
 
 
「突撃の準備を」
 
 
 背後から石川曹長の声が聞こえた。長剣銃を構えた石川曹長が葛之宮の後ろに控えている。石川曹長の更に後ろには、四人の兵士が強張った表情で草むらに身を屈めていた。
 
 葛之宮は素早く地面へと落ちていた布を拾って、右目を覆った。血で濡れた掌を雑に太股に擦り付けて、短刀を握り直す。
 
 
「構え――撃て」
 
 
 短い号令の後、石川曹長および兵士達の銃が火を噴く。だが、その銃弾は規律を取り戻しつつある敵兵達には当たらない。
 
 
「臼長井基地の増援は」
「まだです」
 
 
 葛之宮の問い掛けに、石川曹長は簡潔に答えた。葛之宮も「そうですか」と無感動に呟き返す。何か自分の中から感情というものがすっぽりと抜けているようだった。
 
 
「少尉殿、死にたくありません」
 
 
 長剣銃を構えた兵士の一人が震えた声で呟く。葛之宮よりも若い、まだ少年と言ってもいい年頃の兵士だ。スズメに似ていると一瞬思った。暢気にそんな事を考えた自分に少しだけ笑えた。頬に笑みを浮かべる葛之宮を見て、兵士が驚いたように目を見開く。
 
 
「死にたくないなら殺しましょう」
 
 
 まるで幼年学校の教師のような優しい口振りで言った。この言葉はいつか聞いたことがある。目を爛々と輝かせながら、金田中尉は生きるために殺せと腹の底から叫んでいた。それと同じ事を言っている。
 
 
「皆殺しにしましょう」
 
 
 自身の残虐さが今の葛之宮には酷く心地良かった。気遣いや思い遣りの言葉よりも、その残酷な言葉は葛之宮の心を慰めてくれる。穏和な上官の予期せぬ冷酷さに兵士達が顔面を強張らせる。だが、葛之宮を見る眼差しは次第に憧憬ともつかない陶酔へと変わっていった。その眼差しを見返しながら、葛之宮は笑みを深めた。
 
 自分が違う何かに生まれ変わっていくような感覚。平常時の自分と戦闘中の自分の間には深い隔たりがあった。どちらも自分なのに、二人の自分が解りあえる事は一生ないだろうという確信があった。命を尊く思いながら踏み付けるこの瞬間――
 
 石川曹長が短く息を吸い込む。
 
 
「用意――突げ…」
 
 
 言葉は途中で途切れた。突然予期せぬ方角から地鳴りが響いた。大勢の足音が敵陣へと向かって近付いてくる。数秒後、深い木々の間から更に暗い軍服を身にまとった兵士達が飛び出してきた。東国軍の色、臼長井基地の援軍。
 
 ようやく纏まり掛けていた敵陣が突然の援軍に驚き、慌てふためく様子が目に入る。一固まりの奔流のように突撃していく援軍によって敵兵達が薙ぎ払われていく。
 
 敵を蹴散らしていく援軍を眺めて、葛之宮は驚いた。臼長井基地の援軍を率いて現れたのは金田中尉だ。金田中尉はその顔面に凄惨な笑みを貼り付けて、せっせと敵兵の死体の山を築いている。
 
 何故、金田中尉が援軍を率いているのか。考えている暇はなかった。金田中尉の姿を見た瞬間、葛之宮は戦場へと向かって駆け出していた。葛之宮に続くようにして、石川曹長らも戦場へと加わっていく。
 
 飛び出しざまに、こちらへと背を向けていた敵兵の鳩尾を短刀で突き刺す。柔らかく粘着いた人間の内臓の感触。敵兵の絶叫と血飛沫を無感覚に受け入れて、刃先を抉るように動かしながら鳩尾から引き抜く。よろめく敵兵の身体を地面へと片腕で薙ぎ倒して、振り下ろした刃で頸動脈を切り裂く。天高く噴き上がる血の噴水は、まるで雨のように葛之宮の身体に降り注いだ。全身を真紅に染め上げて、葛之宮は再び駆け出した。
 
 
 金田中尉が葛之宮の姿に気付く。葛之宮を見ると、金田中尉は面白い物でも見付けたかのように口角を一瞬吊り上げた。それは親しみの表情に似ていた。葛之宮へと向かって、金田中尉が視線で一人の敵兵を示す。一人だけ際立って長身な敵兵だ。その敵兵の周りだけがやけに規則正しく陣が組まれていた。死んだ将校の代わりに、その長身の敵兵が兵達を指揮をしているのか。
 
 
「続け、葛之宮ッ!」
 
 
 金田中尉が叫び、長身の敵兵へと向かって走り出す。葛之宮は返事を返すこともなく、金田中尉の後に続いた。
 
 命を蹴散らすというのはこういう事か。金田中尉が走った後には、死体の道が即座に築かれていく。まるで人混みを左右に押し退けるかのように、金田中尉は進行方向の塞ぐ敵兵達を薙ぎ払っていく。葛之宮もそれに倣った。ただ、ひたすら殺した。
 
 まるで一本の槍のように敵陣を突き進んだ金田中尉が長身の敵兵へと飛び掛かる。肉食獣が草食動物に襲い掛かるような、弱肉強食を現実にしたような光景に一瞬目が奪われた。金田中尉が握る長剣銃の切っ先が長身の敵兵の左目を貫く。眼球がプチンと弾けて、鋭い刃が頭の奥深くへとずぶずぶと埋まっていく。敵兵の身体が激しく痙攣する。金田中尉は長身の敵兵の身体を足裏で蹴り付けて、頭部深く埋まった刃先を一気に抜き出した。敵兵の右目に空いた穴から、爆発するような勢いで血が噴き出す。
 
 血をしたたかに浴びながら、金田中尉はこの上なく愉しそうに笑った。戦場に似合わぬ、子供のように無邪気な笑顔だった。それに釣られたように葛之宮も少しだけ笑った。楽しくはない。嬉しくもない。ただ、笑いが勝手に零れる。これが以前金田中尉が言っていた事か。
 
 
「――脳味噌から筋肉への伝達不良の結果」
 
 
 唇から無意識に言葉が漏れていた。ようやく金田中尉が言っていた意味が理解できた。戦場では、脳味噌や心が猛烈な速度で壊れていく。死を目前にして思わず笑ってしまうほどに。
 
 だが、その笑みは一瞬で消えた。息を呑む。殺戮を繰り広げる金田中尉の背へと向かって、一人の敵兵が銃剣を突き刺そうと駆けてきていた。
 
 
「後ろッ!」
 
 
 葛之宮の叫び声に気付いた金田中尉が背後へと視線を向ける。だが、遅い。刃先は既に金田中尉の至近距離にある。刺されると思った次の瞬間、不意に視界の外から小さな影が飛び込んできた。短剣を握り締めたアサトが敵兵の太股へと体当たりをしている。太股を刺された敵兵が悲鳴をあげて、アサトを睨み付ける。血走った殺意の目。葛之宮は咄嗟にアサトの身体を引き寄せ、腕の中へと抱き込んだ。敵兵が怒りの雄叫びをあげて、銃剣を葛之宮へと向かって突き出してくる。だが、その刃先が葛之宮へと届くことはなかった。それよりも早く金田中尉の長剣銃が敵兵の胸を貫いていた。目の前で、ぱくぱくと戦慄く敵兵の唇から血が溢れ出すのが見える。
 
 絶命した敵兵を地面へと引き摺り倒した金田中尉がアサトを睨み付けて吼える。
 
 
「餓鬼を連れ出せッ!」
 
 
 金田中尉の叱責に、葛之宮はハッと息を呑んだ。葛之宮の腕の中でアサトが叫び返す。
 
 
「オレも戦う!」
「足手纏いだ!」
「戦える!」
「消えろ糞餓鬼ッ!」
 
 
 怒鳴り声の応酬に、アサトの顔が怒りに赤く染まっていく。だが、それ以上に、金田中尉の憤怒の表情は直視を躊躇うほどだ。極限まで吊り上げられた眦の端が、目が覚めるような真紅に染まっている。いつも怒っている人だが、これ程までに怒りを露わにしたのは初めて見た。
 
 アサトが葛之宮の腕から飛び出して駆けていく。葛之宮はその小さい背を追い掛けようとしたが、目の前を塞ぐ敵兵に再び殺戮の渦へと呑み込まれた。死んだ敵兵が握っていた銃剣をもぎ取って、葛之宮はひたすら機械的な殺戮を続けた。周りでは、敵味方が入り乱されて接近戦を繰り広げている。
 
 
 
 どれほど地獄が続いたのだろう。空が白み始めた頃に、最後の敵兵がか細い断末魔をあげた。地面には死体の山が積み上げられていた。血の海に照り返す朝日が目蓋を刺すほどに眩しい。
 
 
 西国軍先兵隊は全滅。
 東国軍、臼長井基地援軍は二十一名死亡。
 金田中尉が率いる小隊の死亡者は皆無だった。
 
 
 その報告を聞いた時、葛之宮は改めて金田中尉に対する底知れぬ畏怖を覚えた。
 
 

backtopnext

Published in 地平の戦争

Top