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31 息が止まりそう

 
 膝の上できつく両拳を握り締める男と向かい合って、葛之宮は正座している。相談したいと言ったにも関わらず、石川曹長の口は重かった。部屋へと通されはしたものの、なかなか本題を切り出そうとはしない。時折膝をもぞもぞと動かしては、躊躇うように唇を戦慄かせる。だが、いつまで経っても言葉は出てこない。
 
 沈黙が肩へと重苦しくのし掛かってくるのを感じながら、葛之宮は小さな机に置かれた湯飲みへと手を伸ばした。その僅かな動きに、ビクリと石川曹長の身体が大きく跳ねる。その大袈裟な反応に、葛之宮は湯飲みへと伸ばした手を咄嗟に止めた。
 
 
「す、すいません…」
 
 
 自身の過剰反応に、石川曹長が顔を真っ赤にして謝罪の言葉を漏らす。そのぎこちない反応に、葛之宮は目を細めて微笑んだ。
 
 
「大丈夫ですよ。ゆっくりで構いませんから」
 
 
 もうこの部屋に入った瞬間に、長丁場になる覚悟はしている。湯飲みを口元へと近付けて、茶を一口啜る。当初は湯気を立てていたお茶は、既に生ぬるくなっていた。
 
 心細そうな表情をした石川曹長が葛之宮を見つめている。まるで縋るような視線が奇妙に庇護欲を抱かせた。自分よりも頭一つ分大きな男に対して庇護欲だなんて滑稽だが、石川曹長は時折痛々しいくらい“いたいけ”なところがあった。その“いたいけさ”が石川曹長を放っておけなくさせる。
 
 石川曹長が躊躇うように唇を開く。
 
 
「少尉殿は…」
「はい」
「恋というものをしたことがありますか?」
 
 
 一瞬、口に含んだお茶を吹き出しそうになった。それを必死になって堪えたのは、笑い事に出来ないくらい石川曹長の顔が真剣だったからだ。一呼吸置いて、お茶をごくりと飲み込む。
 
 
「…恋、ですか?」
 
 
 咥内で単語を転がすように反芻する。途端、石川曹長が頬を赤らめて俯くのが見えた。まるっきり初々しい処女のような反応だ。それなのに、その表情は迷子になった子供のように途方に暮れている。
 
 
「過去に、女性と付き合ったことは何度かあります」
 
 
 そうぼんやりと答えたのは、問いかけられた瞬間に『恋』というものが不意に葛之宮の中で曖昧模糊なものになってしまったからだ。
 
 
 恋。特定の相手に対して、愛おしさを抱くこと。切ないくらい好きになること。
 
 
 頭の中で恋の定義を思い浮かべても、その意味が胸にしっくり落ちてくる事はなかった。まるで、その単語だけが唐突に他言語になってしまったかのように感じる。
 
 女性と付き合ったことはある。手を繋いだり、口付けをしたり、夜を共にしたり。だが、その相手に対して、自分は本当に『恋』をしていたかと言えば、それはよく判らない。誰かに対して、強烈なまでの恋しさや愛しさを感じたことはあったのだろうか。
 
 
 もう一口、ぬるいお茶を口に含む。まさか軍隊で『恋』について考えるとは思いもしていなかった。甘く、柔らかい響きのあるその言葉は、血生臭さの漂う戦場には最も似付かわしくないものの一つだ。
 
 
「女性…女性ですよね」
 
 
 葛之宮がぼんやりと思い耽っていると、石川曹長が力の抜けた声をぽつりと漏らした。途方に暮れたように、視線を畳へと落としている。暫く無言が続いた後、石川曹長は思い切ったように酷く上擦った声で語り始めた。
 
 
「こ、これは、自分の知り合いの話なのですが…どうやら部下、それも、おっ、男の部下に愛の告白というものをされたようなのです…」
 
 
 そう前置きする辺りが何とも石川曹長らしかった。どう考えても、その知り合いというのが石川曹長本人だろうと思いつつも、葛之宮は黙って聞くことにした。葛之宮が何の反論もせず小さく頷いたのを見て、石川曹長がほっとしたように息を吐き出す。
 
 
「そっ、それで、告白をしてきた部下というのが、その知り合いの親友の弟なのです。親友は、幼年学校から一緒に学んできた相手です。子供の頃から、お互いの家にもよく遊びに寄りました。ですから、その親友の弟がそれこそハイハイ歩きをしていた頃から知っているのです」
 
 
 訥々と語る石川曹長の話を聞きながら、葛之宮は驚きに少しだけ目を見開いた。石川曹長と南軍曹は長い付き合いなんだろうは思っていたが、そんな幼少期の頃から交流があったのか。
 
 
「子供の頃から知っている相手に告白されて…今は大人になったからといって、今更…」
「今更、恋愛対象としてみることができないという事ですか?」
 
 
 言いよどむ石川曹長に代わって葛之宮がそう続けると、石川曹長はこくこくと頷きを返した。そうして、不意に酷く苦々しい表情を浮かべた。どこか悔恨じみた表情だった。
 
 
「ただ、男で部下というだけだったら大した事じゃなかった。その男が親友の弟というのがどうしても無理なんです。親友は二年前に戦死しました。ですから、家の跡継ぎはもうその部下だけなのです。いつ死んでしまうかも解らないのに、男相手に愛だの恋だの言っている場合じゃない。今すぐにでもその部下は嫁を取って、子供を作るべきなのです。そうしなければ、家が絶えてしまう」
 
 
 そう語る石川曹長は決然とした声音に反して、酷く苦しそうな顔をしていた。短い前髪をくしゃりと鷲掴むと、石川曹長は視線を床へと落としたまま呟いた。
 
 
「ですが、その部下は家が絶えても構わないと言うのです。貴方を愛してるから、他の女とは結婚したくないと。そんな事が許されますか?」
「許される、とは?」
 
 
 葛之宮の問い掛けに、石川曹長が伏せていた視線をあげる。思い詰めたような眼差しが葛之宮に突き刺さる。
 
 
「男同士では何も生み出すことができません。誰にも認められない。誰からも祝福されない。後ろ暗く、ひっそりと隠れるしかない。万が一周囲に衆道の事実が知れ渡れば軽蔑の目で見られる。家を潰した上に、そんな惨めな人生を相手に送らせるなんて……そんなのは、あんまりじゃあないですか」
 
 
 何故だろう。その瞬間、葛之宮は微笑みそうになった。目の前の男が酷く“かわいそう”だと思った。その“かわいそう”は“可愛そう”と頭の中で変換される。かわいそう、は、かわいい。ほんの一瞬だけ、この男を愛おしく思う南軍曹の気持ちが理解できた気がした。
 
 石川曹長が怯えた子供のように視線を彷徨わせて、口元を掌で覆う。
 
 
「親友の弟を、小さい頃からよく面倒を見てきた相手を、そんな間違った道に進ませることは出来ません。絶対に」
 
 
 頑なな声音の底に、微かな後悔が滲んでいるのを葛之宮は感じ取った。きつく皺が刻まれた眉間を見つめたまま、葛之宮は冷めた声で言い放った。
 
 
「そう解っているのなら、ただ拒絶すればいい」
 
 
 わざと素っ気なく言ったのは、石川曹長の本心が知りたかったからだ。葛之宮の一言に、石川曹長は露骨に傷ついた表情を浮かべた。だが、その数秒後に、自分が傷ついたことに更に傷ついたように顔をくしゃくしゃに歪めた。
 
 その様子を眺めながら、葛之宮は何となく女性の相談相手を務めているような感覚に陥った。きっと石川曹長の中で答えは出ているのだ。それでも誰かに打ち明けたくて堪らない。相談に乗るという体裁を取ってほしい。そういう雰囲気が石川曹長からは感じられた。
 
 
 石川曹長は数秒押し黙った後、目尻を真っ赤に染めながら掠れた声をあげた。
 
 
「ですが、…せ、せ…」
 
 
 言い掛けては、躊躇うように口を噤む。葛之宮は小首を傾げて、石川曹長の顔を覗き込んだ。
 
 
「せ?」
「せ、性交してしまったのです!」
 
 
 その一言に、葛之宮は唇を半開きにしたまま固まった。その事実を知ってはいたが、まさか石川曹長が自分から口に出すとは思ってもいなかったのだ。硬直した葛之宮を見て、石川曹長は今にも悶死しそうな顔をしている。
 
 
「せ……。はい、はぁ、そうなんですね…」
 
 
 それ以外に言葉が出てこなかった。だが、今にも泣き出してしまいそうな石川曹長の顔を見て、葛之宮は慌てて言葉を付け足した。
 
 
「お知り合いの方、の話ですもんね」
 
 
 あえてその話と石川曹長を切り離すように言う。途端、石川曹長はわたわたと慌てて、素っ頓狂な声をあげた。
 
 
「そ、そうです! 知り合い、の話です!」
 
 
 ここまで露骨に態度に出しておいて、今更知り合いの話なんて言い訳は胡散臭いにも程がある。だが、せめて今は騙されているフリをしてあげたかった。石川曹長は赤く染まった頬を誤魔化すように手の甲で撫でて、それから言葉を続けた。
 
 
「た、戦いの前に、一度だけでいいから、と、せ、性交を願われた、ようなのです。こんな事をいうのは不謹慎かもしれませんが、その時は、自分も相手も明日には死んでいると思っていたのです。きっと生き残れはしないと。だから、せめて死ぬ前に願いを叶えてやりたくて…」
 
 
 石川曹長が口ごもる。くしゃりと歪められた顔を見つめながら、葛之宮はぼんやりとあの晩の事を思い出していた。天幕の中で、絡み合う石川曹長と南軍曹の身体。荒い息遣いと濡れた水音。南軍曹の熱を孕んだ雄の眼。そうして、溶けるような石川曹長の甘い眼差し。あれが、ただ親友の弟の願いを叶えてやるという事務的な行為だったというのか。
 
 
「つまり、同情で抱かれたということですか?」
 
 
 葛之宮の無遠慮な指摘に、石川曹長がぐっと息を呑む。葛之宮はその顔をじっと見つめて、更に下劣な言葉を言い放った。
 
 
「抱かせてくれと願われれば、その人は誰にでも足を開くんですか?」
「そんなっ…!」
 
 
 石川曹長の顔が怒りとも羞恥ともつかないもので、カァッと赤らむ。いきり立った石川曹長が膝を立てて、鋭い声をあげる。
 
 
「そんなわけがっ…!」
「そんなわけが、ないですよね」
 
 
 怒声に被さるように静かな声を漏らす。途端、石川曹長が威勢を削がれたように口を噤んだ。真っ直ぐ石川曹長を見つめたまま、葛之宮は淡く微笑んだ。
 
 
「貴方の話を聞いていて、きっとお知り合いの方はその部下の人が本当に大事なんだなと感じました。その人は自分のことではなく、ずっと相手の将来のことばかりを気にかけていた。自分の存在が相手の人生を台無しにするんじゃないかと、そればかりを。それが恋なのかは僕には解りません。きっと、本人にしか解らないことだと思います。ただ、駄目だと解りながら、間違ってると思いながらも、身を委ねることを決心するぐらい相手が大事だったんだと」
 
 
 ゆっくりと言葉を紡ぐ。その一言一言で、石川曹長の強張った表情が豆腐のように崩れていくのが見えた。嗚呼、くにゃりと曲がった唇がやっぱり“かわいそう”だ。
 
 
「それが恋だろうと、恋でなかろうと、好きだと告白されて、自分がどう感じているかを素直に相手に伝えるのがいいのではないでしょうか」
 
 
 そう諭すように呟く。石川曹長が俯いて、膝の上で拳を握り締める。葛之宮よりも、ずっと大きな拳だ。部下達を引き連れて進む力強い手。それが今はたった一人の男に翻弄されて、まるで少女のようにきゅっと弱々しく握られている。
 
 
「息が…」
「え?」
「好きだと言われると、息が止まりそうになります」
 
 
 微か不安げに揺れた声が鼓膜を震わす。石川曹長の潤んだ瞳が縋り付くように葛之宮を見つめている。
 
 
「これは恋でしょうか」
 
 
 不意に、胸が締め付けられた。
 
 
 ――息が止まりそうになるのが、恋。
 
 
 甘く苦いような複雑な情動がこみ上げて、微かに目眩が走った。葛之宮はゆっくりと眼を閉じて、深く息を漏らした。その瞬間、何故か目蓋の裏に一人の男の姿が浮かび上がった。冷酷さと熱を孕んだ石の眼球、葛之宮を睨みつける金田中尉の鋭く尖った眼光。嗚呼、息が止まりそうだ――
 
 
 葛之宮は数回瞬いてから、そっと呟いた。
 
 
「それは、きっとその人に訊ねることです」
 
 
 そう言って、肩を竦めて笑う。石川曹長は逡巡したように唇を二三度動かした後、「はい」と生真面目な声で答えた。
 
 
 膝に拳を押し当てたまま黙り込む石川曹長を横目に、葛之宮は冷えてしまったお茶を咽喉へとゆっくりと流し込んだ。気付けば頭の中を過っているのは矢張り金田中尉の姿で、その事に葛之宮は疑問を覚えた。何故、自分はこんなにもあの人のことを考えているのだろう。あんな非道で、優しさの欠片もないような男のことを延々と、まるで恋い焦がれるように。
 
 
 緩やかな沈黙が流れた後、石川曹長がぽつりと言葉を零す。
 
 
「ありがとうございます。ご相談に乗って頂いて、とても助かりました」
「いいえ、あまりお役に立てなかったと思いますが」
「そんな事はありません。少尉殿にご相談して本当によかった」
 
 
 そう言って、石川曹長が口元を綻ばせる。ぎこちなさのない極自然な笑みだった。この男が笑うと随分と印象が柔らかくなるのだと、葛之宮はその時初めて知った。普段は厳格さを絵に描いたようなしかつめらしい表情をしているので、ずっと気付かなかった。
 
 
「あの…どうして僕に相談されたんですか? 僕で良かったのですか?」
 
 
 ふと疑問に思って問い掛けた。上官といえども、葛之宮と石川曹長の付き合いはまだ一ヶ月そこそこだ。こんな付き合いの浅い人間に、そんな重要な相談をしても良かったのかと今更ながらに思ってしまう。
 
 葛之宮の問い掛けに、石川曹長は少し困ったように微笑んだ。
 
 
「貴方が良かったんです」
「何故です」
「貴方なら…きっと笑わない。端から否定したり、駄目だと決めつけたり、そんな事をするようなお方ではないと思っていましたから」
 
 
 照れたようにたどたどしく語られるその言葉に、不意に胸の内に温かいものが込み上げた。これは石川曹長からの信頼だと思っていいのだろうか。自分のような弱い人間が誰かから信じてもらえているのか。感情の昂りに涙ぐみそうになるのを俯いて必死に堪える。そうしていると、石川曹長の静かな声が聞こえた。
 
 
「厄介なものです」
「厄介?」
「明日死ぬかもしれないのに、愛だの恋だの――」
 
 
 言葉は途中で途切れた。石川曹長が泣き笑うように微笑む。酷く、さびしい笑顔だった。
 
 

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Published in 地平の戦争

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