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36 美しい地

 
 その後、葛之宮は、一晩中奇妙な懊悩に身悶え続けた。すべてを忘れて眠りに就こうと思っても、閉じた目蓋の裏に、あの石の目が浮かび上がる。葛之宮を睥睨する、金田中尉の冷たい眼差し。その目を思い出す度に、薄い敷き布団の上を転がり回りたいような羞恥に襲われて、眠るどころではなかった。
 
 
 思い返してみれば、葛之宮の頭の中はここ数ヶ月間ずっと金田中尉に支配されていた。金田中尉の一挙一動、一言一句が葛之宮の心を揺さぶる。一体、あの男の何が自分をこうも乱してやまないのか。
 
 残酷非道で、信じられないくらい傲慢な男。幾ら誠心誠意尽くしたところで、その努力が報われることはない。そう解っているのに、葛之宮は金田中尉を放っておきたくないと思う。死へと向かって駆け抜ける男の傍にいたいと願ってしまう。その自分自身の心の矛盾を、葛之宮はどうしても理解する事が出来なかった。
 
 
 掛け布団とも呼べない継ぎ接ぎだらけの布切れを、頭から被る。暗闇の中から、自分の微かな息遣いが聞こえる。淡い呼吸音に、ふと金田中尉の息遣いを思い出す。
 
 
 耳を澄まさないと聞こえないくらい、自制された控えめな呼吸音。鼻呼吸が苦手なのか、いつも唇を薄く開いている。そのせいか、金田中尉の唇はいつも乾いて、微かに荒れていた。ささくれた薄皮が痛々しく見えて、いつか蜂蜜を溶かした艶紅を塗ってあげたいと――
 
 
 そこまで考えたところで、葛之宮はハッと息を呑んで床へと額を叩きつけた。ゴツンと鈍い音が暗闇に響く。
 
 
「馬鹿じゃないか、僕は…」
 
 
 一体何を考えているのか。娼妓じゃあるまいし、金田中尉の唇が乾いてようが、罅割れていようがどうだって良いじゃないか。ここ数ヶ月、周囲に女っ気のない生活が続いて、無意識に欲を溜めてしまっているのかもしれない。もしも、一度前線から離れることができたら娼館にでも行こう。女の柔らかい身体に触れれば、金田中尉の事を忘れられるかもしれない。
 
 悶々と思い悩む葛之宮は、傲慢な上官に女を重ねている事にとうとう気付きもしなかった。
 
 
 
 
 その翌朝、思いがけないことに先に声を掛けてきたのは金田中尉の方だった。まだ起床後まもないせいか、それともそもそも身嗜みを整える習慣がないのか、金田中尉の短い後ろ髪はピンと跳ねていた。
 
 
「お前のものだ。返す」
 
 
 素っ気ない言葉と共に、昨夜金田中尉の元へと置いていった軍法書を胸元へと乱暴に突き返される。一晩で読むには分厚すぎる書籍を胸に抱いて、葛之宮は困惑の眼差しで金田中尉を見つめた。
 
 
「もう読んでしまわれたんですか?」
「読んではいない」
「この本はお気に召しませんでしたか?」
 
 
 尚も問い掛ける葛之宮に対して、金田中尉は酷く憎々しげな表情を滲ませた。下唇を薄く噛んで、何処か恨みがましい眼差しで葛之宮をねめつける。葛之宮は、不意に心臓が跳ねるのを感じた。金田中尉らしくない、酷く子供っぽい表情だと思った。
 
 
「その本には、絵が少ない」
 
 
 言い淀むような口調で、金田中尉が続ける。葛之宮は一瞬手元の軍法書を見下ろしてから、金田中尉へと眼差しを向けた。
 
 
「はい。確かに、この本には図解が少ないですが…」
「だからだ」
「え?」
 
 
 葛之宮の不思議そうな声音に、金田中尉の眦がぐっと吊り上がる。その怒りの表情に、葛之宮は一瞬たじろいだ。一体何故金田中尉が不機嫌になっているのか解らず、葛之宮はただただうろたえた。
 
 
 困惑する葛之宮を暫く睨みつけた後、金田中尉が勢いよく踵を返す。背けられた顔を見て、葛之宮は思わず唇を半開きにした。金田中尉の耳がまるで幼い少女のように赤く染まっていた。
 
 その瞬間、不意に理解した。金田中尉の恥を。嘘で誤魔化すことも出来ないほどの、深く根強い羞恥を。
 
 
「金田中尉、僕にはある癖があるんです」
 
 
 咄嗟に口を付いて出ていた。突拍子もない葛之宮の言葉に、去ろうとしていた金田中尉の足が止まる。肩越しに訝しげな視線を向けてくる瞳を見つめたまま、葛之宮は幼児のようなたどたどしい口調で続けた。
 
 
「本を読む時に、一字一句朗読してしまう癖があるんです。士官学校の時も同室の相手から五月蠅いとよく煙たがられていました。今晩から、この本も読もうと思っているのですが…」
「だから、何だ」
「ですから、その…」
 
 
 切り付けるような金田中尉の返答に、思わず言葉が淀む。もごもごと唇を動かす葛之宮を見て、金田中尉が不愉快そうに頬を歪めて去っていく。それ以上かける言葉も思い浮かばず、葛之宮はその後ろ姿を呆然と見つめた。
 
 
 
 
 
 それなのに、その晩、葛之宮の部屋の扉は叩かれた。扉を開けて暫くの間、葛之宮はあまりの驚きに開いたままの唇が閉じられなかった。扉の前に、酷く不機嫌そうな金田中尉が立っていた。
 
 
「中尉、どうされましたか?」
「本は読まないのか?」
 
 
 困惑する葛之宮に対して、金田中尉の問い掛けは端的だった。その口調は、怒っているというよりも子供が拗ねているような口調に聞こえた。
 
 
「いえ、あの…」
「読まないならいい」
 
 
 苛立ったように言い放って、金田中尉が背を向けようとする。葛之宮は、咄嗟引き留めるようにその二の腕を掴んだ。金田中尉の腕が熱いものにでも触れたかのように一瞬だけ戦慄く。
 
 
「よ、読みます。丁度今から読むところだったんです」
 
 
 上擦った声で言う葛之宮に、金田中尉が訝しげに目を細める。金田中尉が更に言葉を発する前に、口早に言った。
 
 
「よければ、中へどうぞ」
 
 
 その言葉に、自分から訪れたにも関わらず、しぶしぶといった様子で金田中尉が部屋へと入ってくる。入るなり、金田中尉は部屋にたった一つしかない椅子へとどっかりと腰を下ろした。長い足を組んで、下顎を掌に置いて睨むように葛之宮を見やる。
 
 
 仕方なく葛之宮は寝台へと腰掛けた。淡く光を漏らす灯火を寝台脇の机に寄せる。そうして、置かれていた書物を手に取って、不遜な視線に強要されるようにして頁を開いた。特別暑い夜でもないのに、酷く舌が乾いていた。
 
 
「あの、最初から読みましょうか…?」
「読んでるのはお前だろう。お前が読んでいるところから読めばいい」
 
 
 窺う言葉にも、取り付く島もない返答が返ってくる。葛之宮は咥内に溜まった唾液をごくりと飲み込んで、まるで学芸会のような棒読みで本を朗読し始めた。
 
 兵数の上回る敵に対する陣の組み方、後方における兵站の重要性、砲爆撃による支援、進撃における斥候の出し方、それらの講習じみた内容を、金田中尉は厳しい面差しで聞いていた。
 
 
「斐式手榴弾は信管を抜いて六点五秒から七秒程度で爆発すると教書には記載されているが、体感としては六秒で炸裂するものと心得よ。隠れた敵兵に対して手榴弾を投擲する際は…」
「とうてき?」
 
 
 黙々と読み続けていた葛之宮に対して、金田中尉が不意に怪訝そうな声をあげる。葛之宮はパッと顔を上げて、あぁ、と小さく声を漏らした。
 
 
「投げることです」
「そうか」
「はい。隠れた敵兵に手榴弾を投擲する際は、空中爆発を狙うのが良い。手榴弾は下から上へと向かって爆発するため、伏せている敵に対しては然程の威力を発揮しないと思われがちである。だが、空中爆発であれば、頭上から金属片を降らせ敵陣を打撃を与える事が可能である。味方から分断され、視界が遮蔽された状況においては特に威力を発揮し…」
「しゃへい?」」
「覆い隠されていることです」
 
 
 答えると、金田中尉は再び「そうか」と呟いて視線を伏せた。だが、続けて葛之宮が話し始めると、不意に片掌で額を押さえて俯いた。恥じ入るかのような金田中尉の仕草に、葛之宮は思わず朗読を止めた。
 
 
「中尉、どうかされましたか?」
「お前は、どうして言わない」
「何をですか」
「俺が…」
 
 
 らしくもなく、金田中尉が言葉に詰まる。ばつが悪そうに視線を逸らして、長く息を吐き出す。そうして、ふっと葛之宮を見据えると、はっきりとした声をあげた。
 
 
「俺が文盲であることをだ」
 
 
 金田中尉に表情はない。だが、その眦は仄かに赤く染まっている。葛之宮は黙って、金田中尉の目を見つめ返した。笑って流したり、曖昧な態度で誤魔化したりする事はできなかった。黙する葛之宮を見て、金田中尉が眦をぐっと吊り上げる。
 
 
「何故指摘しない。何故笑わない。朗読する癖があるだとか下手な嘘をついてまで俺に本の読み聞かせをして、そうやってお前は無学な上官を小馬鹿にしているつもりなのか?」
「そんなつもりではありません」
「ならば、俺を哀れんでいるのか」
 
 
 詰問を通り越して、既に僻み口調になってきた金田中尉に、葛之宮は眉根を寄せた。開いていた本を閉じて寝台へと置くと、金田中尉へと緩やかな足取りで近付く。金田中尉は椅子に座ったまま、まるで威嚇するように鼻梁に皺を寄せて葛之宮を見上げている。その鼻先へと葛之宮はゆっくりと手を差し伸べた。
 
 
「こちらへ来て下さい」
「何故だ」
 
 
 警戒心を剥き出しにした金田中尉の声音に、葛之宮は淡々と声を返した。
 
 
「それならば、僕もお尋ねします。馬鹿にされたり哀れまれるのが嫌ならば、なぜ中尉はこの部屋に来たんですか」
 
 
 葛之宮の冷たい切り返しに、金田中尉が言葉を詰まらせる。射るように睨みつけてくる眼差しを、葛之宮は極自然に受け止めた。
 
 
「僕は、貴方を馬鹿にするつもりも哀れむつもりもありません。ですから、こちらに来て下さい」
 
 
 念を押すように言い放つと、金田中尉は暫く悔しげに下唇を噛み締めた後、ゆっくりと立ち上がった。だが、差し出した葛之宮の手は掴まなかった。
 
 寝台を掌で示すと、その縁へと乱暴に腰を落とす。葛之宮は金田中尉の隣に座って、灯火を乗せた机を引き寄せた。その上に開いた本を置いて、『斥候』という漢字を人差し指で指す。
 
 
「この文字は読めますか?」
 
 
 葛之宮の問い掛けに、金田中尉の顔が嫌そうに歪む。その顰めっ面を見つめ返して、葛之宮は殊更穏やかに首を左右に振った。
 
 
「決して、貴方を侮っている訳ではありません。答えて下さい」
 
 
 そう宥めるように言葉を漏らすと、金田中尉は下唇を小さく震わせた。ぎゅっと細められた目から覗き見えるのは、金田中尉の純粋な悔しさだ。この人は、矜持があるが故に、無学な己を恥じずにはいられない。だからといって、自分自身の愚かさを曝け出すのも、他人に突き付けられるのも我慢ならないのだ。自分で自分を無学だと貶めるくせに、他人に自分の無知さを悟られるのは嫌だなんて、あまりにも矛盾している。
 
 不意に、酷く頑是のいかない子供を相手にしているような、複雑な愛おしさを葛之宮は覚えた。この人は戦場以外では、丸っきり我儘な子供のようだ――
 
 
「読めない」
 
 
 口調ははっきりしていたが、その声音は屈辱に掠れていた。葛之宮はあえてそれには触れず、次の文字を指さした。『ひとり』という平仮名。
 
 
「これはどうですか?」
「…ひとり」
 
 
 一瞬の間の後、金田中尉が小さく呟く。葛之宮は熱心な教師のように頷いて、それから今度は『雷管(ライカン)』をという文字を指さした。
 
 
「らい、かん」
「そうです」
「お前は一体何を…」
 
 
 一人で納得したように頷く葛之宮に対して、金田中尉が苛立ちの声をあげる。それを遮るように葛之宮は素早く口を開いた。
 
 
「以前、中尉は臼長井基地からの伝令を読まれていました。それで片仮名は読めると思ったんです」
 
 
 東国軍での伝令は、すべて片仮名を用いることとなっている。そうして、金田中尉は読むのに時間は掛かってはいたが、伝令の内容は正確に把握していた。
 
 語り出した葛之宮に対して、一体何を言い始めたんだと言わんばかりに金田中尉が胡乱げな表情を滲ませる。
 
 
「中尉は、片仮名も平仮名も読めます。読めないのは漢字だけではないですか?」
「だから、何だ」
「非識字者には生まれながらに、先天的に文字を解する事が出来ない人間もいます。ですが、中尉はそうではない。おそらく、ただ知る機会がなかっただけです。今からでも学べば、この本だって読めるようになります」
 
 
 その言葉に、金田中尉がまじまじと葛之宮の顔を眺める。疑心が九割といった表情だ。
 
 
「俺に今更ガキのように勉強しろと?」
「もしも貴方が、文字を読めない事に悔恨を感じているのであれば。そうでないのであれば、差し出がましいことを言って申し訳ございませんでした。今の発言は忘れて下さい。もしくは僕の言葉を侮辱と思われたのであれば、処罰して頂いても結構です」
 
 
 さらりと言い切る葛之宮の様子に、金田中尉が黙り込む。そうして、灯火に照らされた頁へと視線を落とした。紙面に書かれた文字が灯りに照らされて、仄かに輝いているように見える。金田中尉は、指先をそっと紙面に書かれた文字へと這わせた。まるで壊れやすいものでも触っているかのような繊細な手つきだった。
 
 
「俺の名前は、どう書く」
 
 
 ぽつりと呟く声が聞こえた。金田中尉へと視線を向けた瞬間、葛之宮は言葉を失った。幼子の瞳が葛之宮を見ていた。戦場で何百もの人間を殺した男の目とは思えないほど、その瞳は稚かった。
 
 跳ねる鼓動を感じながら、葛之宮はそっと金田中尉の手を取った。その堅く強張った掌へと人差し指で『金』『田』という文字を綴っていく。
 
 
「金という漢字は、富める、それに美しい、貴重な、という意味を持っています。田は田園や土地です。おそらく中尉の祖となる方は、肥沃で美しい地を持っていて、それを名としたんでしょう」
「美しい、地」
 
 
 譫言のように金田中尉が呟く。視線は葛之宮へと向けられているが、その眼差しは遠い何処かを見つめているように思えた。葛之宮は丹念に頷いて、言葉を続けた。
 
 
「漢字には、その一文字一文字にかけがえのない意味があります」
「なら、ミキはどういう意味だ」
「幹は、樹木の幹のことですね。真っ直ぐに伸びた芯の強さを表します」
 
 
 金田中尉の掌へと『幹』という漢字を一線一線丁寧に書き綴る。金田中尉は、熱心な生徒のように掌をじっと見下ろしている。そうして、ふっと視線を上げると、こう訊ねた。
 
 
「お前の、名前は」
 
 
 何気なく発せられた一言に、葛之宮は心臓の奥底から堪えようもなく歓喜が込み上げてくるのを感じた。頬が知らず緩んで、笑みを作っていく。葛之宮は、金田中尉の掌へと『葛』の一文字をそっと書いた。
 
 
「葛は秋の七草の一つで、赤紫色の花弁を咲かせます。葛之宮の屋敷には、その季節になると葛の花が庭一面に咲き誇ります。とても甘い香りがするんですよ。貴方にも、いつか見て欲しい」
 
 
 まるで睦言でも語らうかのような柔らかな声音が零れ出る。それに対して、金田中尉は嘲ったり、怒鳴ったりもしなかった。ただ、静かな声で問い掛けてくる。
 
 
「それはお前の希望か?」
「希望というよりも…願望でしょうか?」
「願望?」
「いつかそんな日が来るのを願っているんです」
 
 
 これこそ金田中尉が最も嫌う綺麗ごとなのかもしれない。この泥沼な戦争が終わるだなんて、あまりにも非現実的すぎる。だが、それでも葛之宮は願いたかった。いつか戦争がなくなったこの国で、この人と二人、穏やかな気持ちで葛の花を見上げるような日が来ることを。美しい地が訪れることを。
 
 
 金田中尉は黙ったまま、葛之宮をじっと見つめていた。あどけない瞳が次第に冷めた石の目へと戻っていく。葛之宮の手を解いて、金田中尉がすっと立ち上がる。金田中尉は、不貞腐れたような表情で葛之宮を見下ろして、こう言い放った。
 
 
「――お前が嫌いだ」
 
 
 幼児の駄々のような言葉を小さく漏らして、金田中尉が踵を返す。葛之宮は、唐突な罵りに面食らった。金田中尉から嫌われているのは重々承知しているが、何故今この時わざわざ念を押すように口に出したのか。それは葛之宮に対する罵言というよりも、金田中尉自身が自分へ言い聞かせるような言葉にも思えた。
 
 
「僕は、貴方の事が知りたいと、そう思っています」
 
 
 向けられた背へと囁くように声を掛ける。返事は返ってこなかった。扉が乱暴に閉められる音が響き渡る。葛之宮はゆっくりと目蓋を閉じて、彼の名である『美しい地』についてゆっくりと思いを馳せた。
 
 
 
 
 
 翌朝、天道から伝言が来た。
 
 
『金田中尉が作戦に参加することを承諾されました。夕刻十七時、お二人でいらっしゃって下さい。食事でもしながら、ゆっくりとお話しましょう』
 
 

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Published in 地平の戦争

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