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42 足下に猛獣を

 
『彼はね、“神経症”なんだ』
 
 
 明らかに一介の少尉に与えられたのではない、広く日当たりの良い部屋に入った途端、ベネディクト少尉はそう言った。『彼』というのが誰のことを指すのか判らないまま、葛之宮は曖昧な頷きを返す。すると、ベネディクト少尉は躁じみた表情を顔面に貼り付けたまま、葛之宮へとニィと笑いかけてきた。
 
 
『毎日戦死通達書を書いている? そんなのは嘘さ。戦死通達書なら、彼よりももっと下の兵士達が毎日ヒィヒィ言いながら書いているからね。彼の仕事は、戦死通達書にハンコひとつ押すだけ』
 
 
 人差し指と親指だけで足りる仕事さ。そう言いながら、ベネディクト少尉は葛之宮に見せつけるように人差し指と親指を立てた。そこまで聞いて、ようやく葛之宮にも合点がいった。『彼』というのは先ほどのナナリ補佐官の事だったのか。
 
 そうして、ベネディクト少尉は、部屋の傍らに置かれた鞄へと近付いていった。だが、その唇は淀みなく言葉を吐き出すままだ。
 
 
『ただね、彼はそのハンコが持つ重圧に押し潰されそうになってる。彼が押すハンコによって、その薄っぺらい紙に書かれた人間の人生が終わりを告げるわけだからね。“ハイ、マミー、貴方の息子さんは名誉の戦死を遂げましたよ。彼の死を糧にして、我ら西国は必ず勝利を収めます。進軍は着々と進んでおりますので、どうか御心を安らかに”。なんて嘘八百。実際は一ヶ月近く足踏みをして、進軍は空回り。その上、あんな狭い部屋に閉じ込められて毎日戦死通達書と向き合ってれば、そりゃ戦争ノイローゼにもなるさ』
 
 
 あまりの早口に、聞いているだけで目眩がしそうだった。畳み掛けるようなベネディクト少尉の言葉を、扉の前に立ち尽くしたまま葛之宮は聞いた。鞄の前にしゃがみ込んでいたベネディクト少尉が肩越しに振り返って、小さく首を傾ける。
 
 
『だから、許して欲しい』
『許す? 何を?』
『ナナリ補佐官が君に意地悪をした事をだよ』
 
 
 ようやくベネディクト少尉が長々と話を続けた理由が解った。彼なりにナナリ補佐官をフォローしていたらしい。それが実際フォローになっているかどうかは別問題だが。
 
 ベネディクト少尉が肩を竦めて、溜息混じりに呟く。
 
 
『まぁ、彼も有能な男ではあるんだけどね。何せ戦争いうのは、人間を変えてしまうから恐ろしい』
『私は、ナナリ補佐官を恨んでなどいない』
『だが、ここから追い出されていたら困っていただろう? 人質を助けられなくなってしまうじゃないか』
 
 
 人質という単語が出された瞬間、葛之宮の背筋に冷たいものが走った。この男は、葛之宮の正体や目的を知っているのか。身体が動揺に跳ねそうになるのを抑えて、何気ない口調で言い返す。
 
 
『人質? 何のことを言ってるんだ?』
 
 
 とぼける葛之宮に、ベネディクト少尉が苦笑いのような表情を滲ませる。そうして、ベネディクト少尉は鞄の中から一本の小瓶を取り出して、軽く掲げた。深い緑色をした瓶の中で、微かに揺れる液体が見える。
 
 
『本国から一本だけ持ってきたんだ。赤ワインは好きかい?』
『貴方は一体誰だ』
 
 
 訊ねてくる言葉に返事を返さず、葛之宮は押し殺した声で呟いた。途端、ベネディクト少尉がその顔面に貼り付けていた笑みを消して、ゆっくりと首を傾げる。まるで物を知らない子供のような仕草だ。
 
 
『誰、って?』
『私には貴方のような知り合いはいない』
『嗚呼、さっきの同期で親友宣言のことを言っているんだね。だったら、生き別れの兄弟とでも言えば良かったかい?』
 
 
 揶揄かうように言い放つベネディクト少尉の姿に、葛之宮は僅かに眉根を寄せた。焦燥が胸の奥からざわざわと音を立てて沸き上がってくる。この男は一体何者なのか。一体何を目的で、葛之宮を庇うような真似をしたのか。そうして、その真意は?
 
 机の上にワインの小瓶を置いたベネディクト少尉が何処からともなく取り出したオープナーでコルクを引き抜く。二つのグラスへと赤い液体を注いで、ベネディクト少尉は一方を葛之宮へと差し出した。
 
 
『私が誰かなんてどうでもいい事さ。今一番重要なのは、私が君の敵か味方かという事だ』
 
 
 思わせぶりなベネディクト少尉の発言に、葛之宮は苦虫を噛み潰したような表情を隠しきれなかった。それに対して、ベネディクト少尉は何とも和やかな表情を浮かべている。
 
 
『さぁ、どうぞ座って。時間はまだあるんだ。ゆっくり話そうじゃないか』
 
 
 ベネディクト少尉が椅子に腰掛けて、一口赤ワインを口に含む。美しい形をした喉仏が上下する様を、葛之宮は立ち尽くしたままじっと見つめた。だが、目の前の男の機嫌を損ねて騒がれでもしたら、そちらの方が面倒になる。そう思えば、葛之宮はしぶしぶ男の向かい側の椅子へと腰掛けた。葛之宮が座るのを見て、ベネディクト少尉が嬉しそうに目を細める。
 
 
『初めまして。私は、ルイ・ベネディクトだ』
『それは偽名でしょう?』
 
 
 一介の少尉如きにこんな上等な部屋が与えられるわけがない。少なくともナナリ補佐官よりも上位の、中佐以上の地位にはついている人間のはずだ。
 
 葛之宮の指摘に、ベネディクト少尉が片眉を軽く跳ね上げる。だが、口元には愉しげな笑みが浮かんだままだ。
 
 
『それもお互い様だろう? 本物のラディ・クリストフが何処に居るかは…聞かない方が良さそうだ』
『何処に居るも何も、私がクリストフ本人だ』
 
 
 化かし合いのような会話を軽妙に言い合う。偽名を認めようとしない葛之宮の姿勢に、ベネディクト少尉は目尻に皺を寄せて笑った。そうして、色付きの眼鏡を外すと、葛之宮の瞳をじっと見つめてきた。
 
 
『そういえば、城門前で見たときから気になっていたんだが、君の目は随分と珍しい色をしているね。虹彩に水色と銀色が混ざっている。何処かの血が混ざっているのかい?』
『…祖母が北の出身だとは聞いたことがある』
『では、君はクォーターか』
 
 
 無遠慮に眼球を覗き込んでくる眼差しに辟易する。眼鏡を外した顔を見て、ようやく気付いた。ベネディクト少尉は、非の打ち所のない美丈夫だった。軍帽の隙間から覗く金色の髪は艶やかに輝き、彫りの深い顔の中心には青々とした鮮やかな眼球が据えられている。一度も挫折を知った事がないような生命力に満ちた眼差しは、魅力的にも無神経にも見えた。
 
 ベネディクト少尉は、飽きることないように葛之宮を瞳を見つめて、感嘆の溜息を吐き出した。
 
 
『君の目は美しい。氷底に咲いた白銀の花のようだ』
 
 
 随分と詩的な男だと思った。軍人にしては珍しい、浪漫家なのだろうか。
 
 相変わらず警戒を滲ませる葛之宮を見やって、ベネディクト少尉が悪戯っ子のように歯を見せて笑う。そうして、ふと思い出したように首を傾げた。
 
 
『あの男の目とは雲泥の差だな』
『あの男とは?』
『君が連れて来た犬さ。縄で繋いで引っ張って来たじゃないか』
 
 
 その一言に、黒髪の男の姿が目蓋の裏を過ぎった。葛之宮を憎々しげに睨み付けてくる情念の眼差し。彼は牢屋に入れられている筈だが、その後どうなっているのか。
 
 ベネディクト少尉は赤ワインを大きく煽った後、勢い込むように喋り出した。
 
 
『あの男の目は非道い。言葉で言い表せないほど非道い。あれは猟奇殺人犯の目だ。親殺しの、気狂いの、悪党の、盗人の、畜生の、この世に存在するありとあらゆる残虐でおぞましい物を詰め込んだ目をしている』
 
 
 語っている言葉は黒髪の男を貶めるものだと言うのに、ベネディクト少尉の口調にはまるで恋い焦がれているような情感が篭もっていた。
 
 
『私は未だかつて、あんなにも昏い目をした人間を見た事がない。きっとあの男に戦場で睨み付けられた人間は、小便を垂れ流しながら逃げ出すんだろうな。嗚呼、恐ろしい』
『貴方の口調は、恐ろしがっているように聞こえないが』
『そう? そうかい? だが、私は本当に恐怖しているんだ。しかし、恐怖というのは複雑なものでね。恐ろしいものほど、その一方で屈服させたくなる』
 
 
 夢見心地で語っていたベネディクト少尉がふと我に返ったように笑みを深める。人差し指で机をトンと軽く叩くと、ベネディクト少尉は葛之宮へとそっと囁きかけた。
 
 
『私は、あの男が欲しい。咽喉から手が出るほど、欲しくて堪らないんだ』
 
 
 鼓膜を嬲るような粘着いたベネディクト少尉の声音に、葛之宮は不快感を抑えられなかった。無意識に眼球に熱が篭もる。顔を歪める葛之宮を見て、ベネディクト少尉が肩を揺らして小さく嗤う。
 
 
『欲しいというのは、どういう意味で』
『そのままの意味さ。あの男の身体も心も、この手中に収めたい』
『貴方はゲイか』
 
 
 赤裸々な葛之宮の問い掛けに、ベネディクト少尉は一瞬目を大きく見開いた。その直後、大きく噴き出す。げらげらとあげられる笑い声に、葛之宮は露骨に眉を顰めた。
 
 
『ふ、ふはっ、はははっ! ゲイ! ゲイかなんて聞かれたのは生まれて初めてだ!』
『違うのか?』
 
 
 鼻白んだ表情を向けて、冷たく言い放つ。ベネディクト少尉は暫く笑い続けた後、ようやく笑いを収めて唇を開いた。
 
 
『ゲイかどうかで言えば、答えはノーだ。私は生粋のヘテロセクシャルさ』
『なら、あの男が軍事的な目的で欲しいという意味なのか?』
『うーん、それもあるが、それだけではないな。簡単に言えば、私の目的は二つ。一つは、あの男をこちらの仲間に引き入れたい。勘だが、あの男はきっと戦闘でも役に立つだろう。そして、もう一つは、私はヘテロだがあの男なら抱ける。あの男を“飼いたい”』
 
 
 欲望を隠そうともしないベネディクト少尉の台詞に、葛之宮は目を剥いた。唇を半開きにしたまま、空気が抜けるような声音で呟く。
 
 
『飼う、だって?』
『そう、足下に侍らしたいんだよ。猛獣を。もし飼うことが出来ないなら、あの男の肉を噛み千切って喰ってやる』
 
 
 ベネディクト少尉はにやにやと気味の悪い笑みを浮かべたまま、葛之宮の顔を眺めている。不意に堪らない嫌悪感が芽生えた。この男は異常だ。正常な面をした、完璧な異常者だった。
 
 
『貴方は、こんな不快な話を聞かせるために、私をこの部屋に呼んだのか』
 
 
 憤怒を隠しもせず、葛之宮は吐き捨てた。ベネディクト少尉が笑みを消して、緩く肩を竦める。
 
 
『まさか。今までの話は、単なる私の趣味さ』
『これから侵略する国の男を“飼いたい”やら“喰いたい”と主張するのが趣味? 嗚呼、まったくイイ趣味を持っているようで』
『ふふ、誉め言葉と受け取っておくよ。だが、君の反応も中々面白い』
『私の反応だって?』
『そうさ。私があの男を欲しいと言った時、君の目には“嫉妬”が浮かんだ』
 
 
 嫉妬、という単語を聞いた瞬間、不意に頭の奥が弾けそうになった。目を見開いて、刺すような憤怒を滲ませる葛之宮を見て、ベネディクト少尉がくつくつと咽喉を鳴らす。そして、葛之宮へとこう問い掛けたのだ。
 
 
『君も、あの男を“喰いたい”のか?』
 
 
 もう堪え切れなかった。硬く握り締めた右拳を、ベネディクト少尉への顔面へと目掛けて一気に突き出す。拳が風を切る音が聞こえた。だが、その直後、葛之宮の右拳はベネディクト少尉の左掌に受け止められていた。
 
 怒りに震える葛之宮の右拳を掴んだまま、ベネディクト少尉が余裕綽々に微笑む。怒りに燃えたぎる葛之宮の瞳を見つめて、ベネディクト少尉は酷く長閑な声でこう囁いた。
 
 
『なぁ、クリストフ少尉、私と取り引きをしないかい?』
 
 

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Published in 地平の戦争

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