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46 生きていれば

 
 暗闇の奥へと、そっと足音を潜めて歩く。
 
 西国軍駐屯基地帰還後の喧噪に比べて、就寝時間を過ぎてからの臼長井基地は不気味なほどに静かだった。足を滑らせる床に冷たい静寂が降り積もっている。
 
 長い渡り廊下を歩きながら、葛之宮は視線を空へと向けた。墨で塗り潰したような漆黒の空には雲一つなく、星もなく、切っ先の尖った三日月だけがぽつんと浮かんでいる。暗闇の中で一つだけ煌々と輝く月を眺めてから、葛之宮は目的の扉の前で立ち止まった。
 
 扉を叩くと数秒の沈黙の後、開いてる、という酷くぶっきらぼうな返事が中から返ってくる。扉を開くと、寝台の上に凭れるようにして座り込んでいる金田中尉の姿が視界に入ってきた。寝台の燭台に照らされた右足には、眩しいくらい真っ白な包帯が巻かれている。
 
 金田中尉は手元に広げていた地図から視線を上げると、葛之宮を見て口元に皮肉げな笑みを滲ませた。
 
 
「何の用だ、葛之宮少尉」
 
 
 拒絶的というよりかは、それは何処か呆れたような口調に聞こえた。懲りもせずによく来るな、という気持ちが金田中尉の顔にありありと浮かび上がっている。
 
 
「足が痛んではいませんか?」
 
 
 そう訊ねると、金田中尉は大きな地図を顔へと押し当てて、くつくつと笑い声を漏らした。その仕草は、妙に子供っぽかった。
 
 
「撃たれりゃ痛いさ。まぁ、でも、今はまだマシだ。麻酔が利いてる」
「医師は何と?」
「血管にも神経にも傷は付いていない。弾丸が上手いこと骨の隙間を通り抜けてるから後遺症もないでしょう。貴方は“運が良い”です、だとよ。どうせなら、足の一本でも千切れちまえば除隊出来たのにな」
 
 
 機嫌が良いのか、それか麻酔の副作用なのか、金田中尉は珍しく饒舌だった。その表情にも尖りがなく、安堵にも似た和らぎが滲んでいる。
 
 空恐ろしいことを述べる金田中尉へと、葛之宮はゆっくりと近付いていった。寝台の傍にあった椅子に腰掛けて、金田中尉を見遣る。
 
 
「結果のご報告にあがりました」
「何の結果だ」
「先ほどの作戦の結果です」
「興味がないな」
 
 
 素っ気なく言い放って、金田中尉は再び視線を地図へと落とした。だが、数秒後酷く不機嫌そうな表情で顔を上げると、微かにくぐもった声で訊ねてきた。
 
 
「お前は、俺と死者の数を数えて、感傷に浸ろうとでも思ってるのか」
「いいえ、違います」
 
 
 否定すると、金田中尉は僅かに鼻梁に皺を寄せた。威嚇する犬のような表情だなと思った。その尖った眼差しを受けながら、葛之宮は淡々と喋った。
 
 
「生き残った者は、全部で七十四名でした」
「黙れ。この部屋から出て行け」
「それから、村の少女から言付けを受けました」
 
 
 村の少女、と口に出した瞬間、金田中尉の表情が僅かにだけ強張った。だが、意地を張ったように唇を開こうとはしない。
 
 
「あの時は、恨むなんて言ってごめんなさい、命を救ってくれて有り難う、と伝えて欲しいと言われました」
 
 
 そう伝えると、金田中尉の唇が僅かに戦慄いた。金田中尉は視線を逸らすと、暫く何もない壁をじっと睨み続けた。その後、ほんの小さな声で、馬鹿げてるな、と呟く声が聞こえた。
 
 
「馬鹿げてる?」
「自分の祖父を見捨てた相手に対して、謝罪や謝礼を言うのは馬鹿げている」
 
 
 金田中尉は、無表情だった。だが、その瞳には微かな困惑が滲んでいる。何故あの少女が謝ったのか、お礼を言ったのか、金田中尉には本気で理解出来ないのだろう。
 
 金田中尉はふっと視線を葛之宮へと向けると、不貞腐れた子供のように唇をヘの字に曲げてこう言った。
 
 
「どうして、お前はあのとき置いていかなかった」
「あのとき?」
「俺が撃たれた時だ」
 
 
 
 吐き出された言葉に、葛之宮は、あぁ、と短く声を漏らした。金田中尉は、あの時葛之宮が金田中尉を置いて逃げなかった事を言っているのだ。
 
 金田が唸るような声音で続ける。
 
 
「あの状況なら、お前は俺を置いて行くべきだった。何故留まった」
「貴方のその口調では、まるで自分を見捨てて欲しかったように聞こえます」
 
 
 指摘すると、金田中尉は口角を歪めて嗤った。その小憎たらしい表情を眺めながら、葛之宮は長閑な声で呟いた。
 
 
「僕は、ただ貴方を死なせたくなかっただけです」
 
 
 そう素っ気なく漏らす。すると、金田中尉の表情がまた歪んだ。怒っているような呆れているような、困惑が顔面にありありと浮かんでいる。そうして、金田中尉は、らしくもない小声でぽつりと呟いた。
 
 
「何だそれは」
「何だとは?」
「お前は、俺のことが嫌いなんじゃないのか」
 
 
 まるで子供のような問い掛けに、どうしてだか一瞬息が止まった。唇が戦慄いて、動かなくなる。葛之宮は唇を噤んだまま、じっと金田中尉を見つめた。沈黙の後、静かに唇を開く。
 
 
「解りません」
「はぁ?」
「貴方が嫌いなのか解りません」
 
 
 馬鹿正直な葛之宮の答えに、金田中尉が釈然としない表情を浮かべる。だが、その次の瞬間、思いがけず金田中尉の頬に笑みが浮かんだ。金田中尉は小さく噴き出すと、まるで子供のようにケラケラと声を上げて笑い出した。
 
 
「何だそりゃ。ガキみたいなことを言いやがって」
 
 
 ガキみたいなのは貴方の方だ、と指摘してやりたかった。目の前の男は、感情の触れ幅があまりにも大きすぎる。怒ったり笑ったり、饒舌かと思ったらいきなり黙り込んだり、気まぐれに行き来する感情に、葛之宮は振り回されてばかりだ。
 
 小さく咽喉を鳴らして笑う金田中尉を見つめたまま、葛之宮は困り果てたように呟いた。
 
 
「僕は…」
 
 
 言葉の途中で唇を閉ざした葛之宮を見遣って、金田中尉が意地の悪い猫のように目を細める。その面白がるような笑みを見つめながら、葛之宮はたどたどしい口調で漏らした。
 
 
「僕は、貴方の根底にあるものを知りたい」
 
 
 口に出した瞬間、羞恥が頬を焼いた。自分で口に出しておきながら、その言葉の青臭さに堪らなくなった。頬を赤く染めた葛之宮を見やって、金田中尉が怪訝な表情を浮かべる。
 
 
「根底にあるもの?」
「戦う理由や、生きる理由を」
 
 
 ぽつぽつと呟くと、金田中尉の口元にふっと冷笑が滲んだ。だが、その眼差しの奥には、愚かな子供を見るかのような微かな和みのようなものも覗き見える。
 
 
「相変わらず青臭いことをほざく。そんな事をいちいち知ったところで何になる」
「解りません。でも、僕は貴方のことを知りたい」
「俺のことを知ったところで何の意味もないだろう」
「それでも構わない。僕は、貴方と話がしたい。今よりももっと、たくさん、大切な話でも、くだらない話でも、貴方と、話がしたいんです」
 
 
 くぐもっていた声音は次第に切実さを帯びて、葛之宮の咽喉から溢れ出した。一瞬自分で言った言葉の意味が解らなかった。腹の底に押し込めていた感情が勝手に唇から飛び出していったような感覚だった。
 
 細く長く息を吐き出して、葛之宮は金田中尉を真っ直ぐ見つめた。金田中尉は何処か面食らったような表情で葛之宮を見返した後、不意にその瞳から感情を削ぎ落とした。硬質な石の目が葛之宮を見つめて、それから静かに逸らされる。
 
 長い沈黙が訪れた。寝台の傍らに置かれた燭台が時折穂先を揺らして、部屋の影を蠢かせる。その影の揺らぎを視界の端に映しながら、葛之宮はただひたすら金田中尉を眺めていた。
 
 金田中尉の横顔は、禁欲的なまでに鋭利だった。頬骨を覆う肉は薄く、鼻筋は美しいほどに真っ直ぐ伸びている。その顔は、性的なものが一切削がれた一種無機質な顔立ちにも見えた。だが、その顔に感情が乗った時、命が現れた時、背筋が粟立つほどに蠱惑的になる。憤怒や憎悪、嫌悪や軽蔑、そして笑った時ーー金田中尉は、おぞましいほどに美しい。
 
 
「生きていれば」
 
 
 不意に、金田中尉が呟いた。金田中尉の横顔に見とれていた葛之宮は、正気を取り戻すように目を瞬かせた。
 
 
「え?」
「生きていれば、と言われた」
「誰にですか」
「母親にだ」
 
 
 金田中尉の口から『母親』という単語が出てきた事に、酷く驚いた。当たり前のことだが、この人にも家族が居るんだということを改めて思い知ったような気分だった。
 
 
「中尉のお母様ですか」
「お前は、俺が木の根っこか犬の腹から産まれたとでも思ってそうだな」
 
 
 揶揄するように金田中尉が呟く。その頬に浮かんだ笑みを見て、葛之宮は慌てて首を左右に振った。
 
 
「まさか、そんな事はありません」
「別に構わない。俺だって犬から産まれてた方がよっぽどマシだったと思うことがある」
 
 
 投げ遣りな口調で言い放つ。その顔に滲んでいるのは、苦虫走った笑みだ。何かを悔いているような、踏み躙りたいと望んでいるような表情。
 
 
「中尉は、人間に産まれた事を後悔していますか?」
 
 
 問い掛けると、金田中尉は何とも言えない曖昧な表情で葛之宮を見返してきた。口元が奇妙に歪んでいる。
 
 
「さぁな」
 
 
 はぐらかすように金田中尉が言う。だが、無言のまま葛之宮が見つめていると、根負けしたように言葉を続けた。
 
 
「少なくとも人間に産まれてなけりゃ、俺は母親と妹を殺すような羽目にはならなかった」
 
 
 一瞬、葛之宮は息を呑んだ。当たり前のように金田中尉の口から出てきた家族殺しの告白に、背骨が戦慄きそうになる。
 
 
「中尉が、殺したのですか」
「そうだ」
「何故ですか」
 
 
 何故、と声に出さず唇だけ動かして、金田中尉が薄く嗤う。だが、嗤う口元に反して、眼差しは伏せられている。
 
 
「お前は、俺が我羅夜にいた事を知っているな」
 
 
 金田中尉の口から出てきた盗賊の名前に、葛之宮は面食らいながらも頷いた。そういえば、天道が我羅夜について以前何か言っていたはずだ。『我羅夜が過去にどんな事をしていたか――』
 
 
 金田中尉が言葉を続ける。
 
 
「十一の時に、住んでいた村が我羅夜に襲われた。妹は十歳になったばかりだった」
「それは中尉の話ですか?」
「他に誰がいる」
 
 
 金田中尉が嘲るように頬を歪める。だが、その仕草を見て、余計に解らなくなる。十一歳の金田中尉なんて想像も出来なかった。一体どんな子供だったのだろう。
 
 
「父親はその時に殺された。母親と俺と妹は我羅夜に捕まって、他の家族と一緒くたに地下に閉じ込められた。地下室の床やら壁はやけにベタベタしててな、酷く臭かった。今思うと、ありゃ血の饐えた臭いだったんだな」
 
 
 懐かしい思い出でも語るように金田中尉が独りごちる。血でぬるついた床と壁、その意味を聞くほど葛之宮は愚かではなかった。
 
 
「水も食料も与えられずに地下室で三日過ごした。それから、男たちが現れて、捕らえていた母親達を壁に張り付けにした。子供達にはナイフが渡された」
「ナイフが?」
「そのナイフで母親を刺せと言われた」
 
 
 思わず、葛之宮は金田中尉を凝視した。だが、金田中尉の視線は葛之宮から逸らされたままだ。宙をぼんやりと見つめたまま、金田中尉は唇を淡々と動かした。
 
 
「よくある方法だ。唯一の拠り所である親を自分の手で殺させて、人間としての意志を死なせる。人形にようになった子供を盗賊の一員として育てて行く」
 
 
 よくある方法だ、ともう一度金田中尉は繰り返した。その譫言のような声音が微かに痛ましかった。だが、金田中尉の顔には傷ついたような色は浮かんでいない。ただ遠い過去を語るような空虚さがあるだけだ。
 
 
「母親を殺さなければ、お前を殺すと言われた。俺は母親を殺したくなかったし、殺せないと思った。だから、一緒に死ぬつもりだった」
 
 
 殺せないと思った。という一言に、胸が痛む。母親を殺すように命じられた十一歳の少年の心を思う。まだ、子供だったのだ。
 
 
「だが、妹を守って、と母親に言われた。私を殺して、二人で生き延びてと。生きていれば、きっといつか救われる日が来ると」
 
 
 だから、と金田中尉は空気を吐くような小さな声で呟いた。
 
 
「だから、母親を刺した」
 
 
 金田中尉の声音に、悲痛さはない。絶望も後悔も、何一つ滲んでいない。だからこそ、より苦しくなった。
 
 金田中尉が口元に淡い笑みを浮かべる。親殺しの話をしているとは思えないほど透明な笑みだ。
 
 
「どうせなら心臓か肝臓を刺してやれば良かったのにな。その頃は何処を刺せば一発で死ぬかなんて知らなかったから、死ぬまで腹を何度も刺し続けたんだ。母親はよっぽど苦しかっただろうな。気の毒なことをしたよ」
 
 
 まるで他人事のような口調で呟く。もしかしたら、他人事のように語らなければ何かが壊れてしまうのかもしれない。
 
 
「それから、妹は何処かへ連れて行かれて、俺は盗賊として働かされるようになった。あいつらの遣り方は間違ってなかった。親を殺したら、後は何人を殺そうが何も感じやしない」
「本当に何も感じなかったんですか?」
 
 
 問い掛けると、金田中尉がパチリと大きく瞬いた。だが、視線は逸らされたままだ。
 
 
「人殺しに罪悪感や後悔を感じた奴はみんな死んだ。襲っていた村人から返り討ちにされたり、我羅夜の大人達に見せしめに嬲り殺しにされたり、人間らしい奴は誰一人として生き残れなかった」
「…でも、貴方は生き残った」
「そうだな」
 
 
 金田中尉が笑う。嘲笑でも皮肉でもなく、諦めたような、ほんの微かな微笑みだった。触れた瞬間、バラバラに壊れてしまいそうな表情。
 
 
「…妹さんはどうなったんですか?」
 
 
 訊ねると、金田中尉は自身の腹部へと視線を落とした。下腹をじっと眺めながら、言葉を紡ぐ。
 
 
「二年後に、妹を見つけた。妹は娼婦になって、薬で頭も身体もボロボロになってた。ふっくらしてた頬が削げて、骨と皮の酷ぇ姿になってたよ。そのくせ腹だけはボッコリ膨らんでんだ」
「…妊娠、してたんですか」
「そうだな。何百人もの男に輪姦されて、妹は孕んでた。妹はまだ十二歳だったのに」
 
 
 また金田中尉の口元に笑みが浮かぶ。この人は、泣く代わりに笑う。
 
 もしかしたら、と思った。この人は、自分の悲しみが解らないんじゃないだろうか。悲しい時に泣くという事を知らないんじゃないだろうか…。
 
 
「妹は泣きながら、俺に『殺して』と言ってきた。『お願い、もう死なせて』ってな。だから、妹の心臓を刺してやった」
 
 
 そう金田中尉は淡々と呟いた。不意に、頭がガクリと落ちそうになった。母親を殺し、妹まで手に掛けた少年の心を思う。何も、感じないはずがない。人間でないはずがない。
 
 
「ナイフの切っ先から、妹の鼓動が止まっていくのが伝わってきた。その時、つくづく思ったよ」
「何をですか?」
「最初から、母親と一緒に全員死ぬべきだった、って」
 
 
 まるで最高の冗談でも言ったかのように、金田中尉が満面の笑みを浮かべる。その子供っぽい表情に、葛之宮の胸は痺れるように痛んだ。
 
 咄嗟に手が伸びていた。右手が金田中尉の左手をキツく掴む。金田中尉の掌は冷たく骨張っていて、豆が潰れて硬化した皮膚の感触がした。
 
 金田中尉は一瞬驚いたように目を瞬かせたが、葛之宮の手を振りほどこうとはしなかった。ただ物珍しいものでも見るかのように、繋がれた掌をじっと見下ろしている。
 
 
「僕は」
 
 
 言葉が咽喉に詰まる。咽喉を大きく上下させて、葛之宮は縺れるような声を零した。
 
 
「僕は、貴方が死ななくてよかったと、そう思います」
 
 
 実直明快な葛之宮の言葉に、金田中尉の口元に嗤いが浮かぶ。だが、嘲りのような笑みは、少しずつ崩れていった。金田中尉の頬が微かに引き攣る。その引き攣りを誤魔化すように、金田中尉が下唇を噛み締めるのが見えた。まるで不貞腐れた子供のような表情だ。
 
 握り締めた掌が少しずつ湿り気を帯びて熱くなる。
 
 
「手を離せ」
「嫌です」
「離せ」
「貴方の手を離したくない」
 
 
 祈るような葛之宮の言葉に、金田中尉が憤怒の形相を滲ませる。だが、その顔を真っ直ぐ見つめ返すと、ふいっと逸らされた。
 
 掌を繋いだまま、暫く沈黙が流れた。先に沈黙を破ったのは、金田中尉の方だった。
 
 
「俺は、妹を殺した事を後悔していない。あの時の選択は間違っていなかったと思っている」
 
 
 噛み付くような強い声音だった。顔を背けたままの金田中尉を見つめながら、葛之宮は小さく頷いた。金田中尉が続ける。
 
 
「それでも、時々思う」
「何をですか?」
「あのとき妹を生かしていたら、何かが変わっていたのかもしれないと」
 
 
 お前が目黒を生かしたように、と金田中尉は呟いた。その声音は、暗闇に悲しく響いた。あり得ない未来を想像するような、虚しさとも付かない切なさがある。
 
 金田中尉が視線を葛之宮へと向ける。その口元には、曖昧な笑みが滲んでいた。
 
 
「生きていれば、と母親は言った。生きていれば、いつか救われる日が来ると。だが、俺には『救い』というものが解らない。だから、死ぬまで生き続けてる。ただ、それだけだ」
 
 
 俺の生きる理由なんてそんなものだ。と金田中尉が肩を揺らして笑う。その表情を見て、葛之宮は胸の奥から言いようのない悲しみが込み上げてくるのを感じた。
 
 金田中尉は、未だに母親の言葉に縛り付けられているのだ。死へと突き進みながら、それでも生きようと足掻くのは、彼が母親の死に際の言葉を無意識に信じ続けているからだ。
 
 
 救われたいのではなく、ただ『救い』というものを知りたくて――
 
 
 十一歳の子供の頃から、この人は動けずにいるのだと思った。握りしめた掌が小さな子供の手に変わったかのような錯覚すら抱く。
 
 俯いたままキツく掌を握り直すと、頭上から小さな笑い声が聞こえた。
 
 
「手が痛い」
 
 
 幼い声に、どうしてだか目が潤んだ。
 
 

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Published in 地平の戦争

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