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47 淫魔は嗤う

 
 掌の温度が指先を伝って、互いの皮膚の奥へとゆっくりと染み渡っていく。触れ合う指先の温度が同じくらいになった頃、金田中尉が首を傾ぐようにして葛之宮の顔を覗き込んできた。
 
 
「なぁ、いつまでガキみたいに手を握っているんだ?」
 
 
 茶化すような声音には、嫌悪や軽蔑は窺えなかった。むしろ、この奇怪な状況を面白がっているような雰囲気さえ漂っている。
 
 葛之宮は緩く視線を上げると、金田中尉の顔を見つめた。
 
 
「もう少し、握っていてもいいですか」
 
 
 微かに口篭もりながらも答える。途端、金田中尉が咽喉を鳴らすようにして笑った。
 
 
「お前は変な奴だ」
 
 
 独りごちるように金田中尉が呟く。その言葉を聞いて、葛之宮は無意識に小さく頷いていた。
 
 
「はい、僕は変なんです」
「ふ、ふふ、自分で認める奴があるか」
「貴方に会ってから、自分が少しずつおかしくなっている気がします」
「巫山戯んな、俺のせいだって言いてぇのか」
 
 
 乱暴な台詞も、そのじゃれるような声音のおかげでそれほどキツくは聞こえない。にたにたと意地悪く微笑む金田中尉を見つめて、葛之宮は呻くように言った。
 
 
「はい、貴方のせいです」
 
 
 絞り出した声は、自分でも情けなくなるくらい切実だった。その自分の無様な声音に、頬が羞恥に焼けた。
 
 そうだ、この男が葛之宮をおかしくさせる。葛之宮が今まで美しいと信じてきたものが、金田中尉によって汚され踏み躙られていく。人間としての理性を引き剥がされて、薄汚い本能ばかりが暴かれていく。この男の歩いた後には、深紅の荒野が広がるばかりだ。
 
 そう解っているのに、どうして、こんなにも――
 
 
「貴方のせいだ」
 
 
 恨み言のように繰り返して、葛之宮は咽喉を大きく上下させた。駄々を捏ねるガキのような事を言って、ガックリと項垂れる。項垂れる瞬間見えた金田中尉の不思議そうな眼差しが葛之宮の心臓をちくちくといたぶった。この言いようのない感情を、金田中尉に理解して貰えることは永遠にない。
 
 不意に、額にひたりと指先が触れた。金田中尉が片手を伸ばして、葛之宮の前髪の生え際を柔く掻き上げている。何をしているのか、と視線を上げると、思ったよりも幼い声が聞こえてきた。
 
 
「目を見せろ」
 
 
 無言で見上げていると、焦れるような手付きで右目の眼帯がもぎ取られた。葛之宮の右前髪を掻き上げたまま、金田中尉が右目を覗き込んでくる。間近に迫った金田中尉の顔に、微かに心臓が跳ねるのが解った。
 
 葛之宮の右目を凝視したまま、金田中尉が鼻梁に皺を寄せるようにして笑う。悲しいくらい、子供っぽい笑顔だ。
 
 
「ふふ、青いな」
「青いと、楽しいですか?」
「楽しいとは少し違うな。何だか不思議な感覚だ」
「不思議?」
 
 
 問い掛けると、金田中尉は思案するように視線を緩く宙へと浮かべた。その瞬間、金田中尉の唇が視界に入った。乾いて罅割れた唇を、ささくれて尖った薄皮を、葛之宮は薄闇の中、食い入るように見つめていた。
 
 
「そうだな、川原に落ちてた変わった石を見つけた時みてぇな――」
 
 
 突然、金田中尉の言葉が途切れた。
 
 先ほどよりもずっと至近距離に、闇のように深く黒い瞳が見える。金田中尉が驚いたように目を見開いて、葛之宮を凝視していた。それが何故なのか一瞬自分でも解らなかった。
 
 だが、数秒後、唇が乾いた感触に触れていることに気付いた。吐き出す息が淡く触れて、唇が微かに湿り気を帯びる。金田中尉に口付けていると気付いた瞬間、葛之宮は激しい動揺に襲われた。あまりの混乱に、一瞬頭の中が真っ白になる。
 
 慌てて唇を離して、葛之宮は困惑に声を震わせた。
 
 
「も…申し訳ございません…」
 
 
 だが、その後に続く言葉が思い付かなかった。手の甲を唇へと押し当てて、葛之宮は顔を背けた。金田中尉は相変わらず唖然とした表情で、葛之宮を眺めている。その眼差しに、更に全身が発火したように熱くなった。
 
 堪らない羞恥だった。どうして、自分が金田中尉に口付けてしまったのか理解出来なかった。理解不能な衝動としか言いようがない。
 
 唇が微かに震える。その唇に残る乾いた感触を、脳内で反芻している自分が酷く浅ましく思えた。
 
 不意に、背けていた頬に指先が触れた。輪郭を辿るように、金田中尉が葛之宮の右頬へと指先を這わせている。まるで盲人が物の形を確かめるような繊細な触れ方だと思った。
 
 緩く触れる指先に誘われるように背けていた顔を戻すと、黒い瞳と視線が合った。金田中尉は淡く唇を開いたまま、葛之宮をじっと見つめている。
 
 まるで強請るように薄く開かれた唇の狭間に、葛之宮は一瞬目を奪われた。だが、すぐさま自分の浅ましさを自覚して、視線を伏せた。下唇をキツく噛み締めたまま、固く押し黙る。
 
 
「お前は、衆道の気でもあるのか」
 
 
 あまりにも単刀直入な問い掛けに、一瞬言葉を失った。咄嗟に視線を上げて唇を上下に戦慄かせる葛之宮を見据えて、金田中尉が怪訝そうに繰り返す。
 
 
「お前は男色家か」
「ちっ…がいます…!」
 
 
 舌を噛みそうになりながら即座に否定を返す。金田中尉は、更に理解不能と言いたげに眉根を寄せた。
 
 
「ぼ、くは、男色家ではありません…」
「なら、どうして俺に口付けた」
 
 
 また逃げ道を許さない端的な質問だ。その問い掛けに、葛之宮は大きく咽喉を震わせた。
 
 どう答えたらいいのか解らなかった。上手い言い訳が思い付かない。何故自分が直属の上官に口付けてしまったのか。男の、しかもこんなにも恐ろしい相手に、一体自分は何のつもりで――
 
 
「わ…解りません…」
 
 
 結局唇から零れたのはお決まりの言葉だった。金田中尉が嘲りとも失笑とも取れる引き攣りを口角に滲ませる。
 
 
「またそれか。士官学校まで出ておいて、一体何を学んで来たんだ優等生」
 
 
 少なくとも、男に口付けてしまった時の上手い言い返しなんてものは学んでいない。だが、今はそんな皮肉も返すことが出来なかった。
 
 目尻を赤く染めた葛之宮から視線を逸らして、金田中尉が寝台の枕へと深く背を埋める。大きな溜息が聞こえてきた瞬間、葛之宮は耐え切れず椅子から立ち上がっていた。
 
 
「夜分遅くに申し訳ございませんでした。そろそろ失礼させて頂きま――」
 
 
 言い放つなり踵を返そうとした瞬間、上着の袖をくっと引かれた。肩越しに振り返ると、金田中尉が葛之宮の左袖を掴んでいるのが見えた。金田中尉が葛之宮を見上げて、にたりと笑みを浮かべる。
 
 
「なぁ、俺と寝てみるか」
「は…?」
「男と口付けれるんだ。寝るくらいどうってことないだろう」
「冗談、は止めて下さい」
 
 
 揶揄するような問い掛けに、一気に咥内が乾いていく。カラカラになった唇を動かしながら、葛之宮はぎこちない声を上げた。
 
 だが、金田中尉は半笑いのまま葛之宮の左袖を離そうとはしない。
 
 
「冗談じゃない。戦場じゃあ兵士同士が慰め合うことぐらい普通にある。御前も一度くらい試してみりゃいい。上官を抱くなんて滅多に出来ることじゃない」
「馬鹿を言わないで下さい。僕は、貴方をそんな…」
「お綺麗なことを言うなよ、お坊ちゃん」
 
 
 ふっ、と金田中尉の頬に冷笑が滲む。その嘲りの表情に、一瞬カッと頭の奥が熱くなるのを感じた。目蓋の裏が怒りで赤く染まる。
 
 気が付いたら、掴まれていた左袖を振り払って、金田中尉の右肩をキツく寝台へと押し付けていた。
 
 
「お坊ちゃんと呼ばないで下さい」
 
 
 真上から金田中尉の顔を覗き込んで、葛之宮は唸るように吐き捨てた。だが、葛之宮の反して金田中尉は余裕綽々に微笑んでいる。まるで餌に食いついた獲物を眺めているような和やかな表情だ。
 
 金田中尉がゆっくりと両腕を伸ばす。その両腕が葛之宮のうなじへと絡められた瞬間、皮膚がぞくりと隆起するのが判った。
 
 葛之宮の頭を引き寄せて、金田中尉が動物のように頬を擦り寄せてくる。皮膚を隠微に撫でていく産毛の感触に、息が止まりそうになる。
 
 
「なぁ、しようぜ葛之宮」
 
 
 耳元に囁かれる甘い声に、くらりと意識が酩酊しそうだ。
 
 
「あ、なたは、怪我をして…」
 
 
 足掻くように漏らすと、金田中尉の頬が離れた。真下から葛之宮の顔を見上げて、金田中尉が唇の狭間から緩く舌を突き出す。
 
 
「何なら御前のをしゃぶってやってもいい」
 
 
 卑しい言葉よりもずっと目の前で微かに蠢く舌先の方がよっぽど扇状的だった。下卑た挑発だと解っているのに、それでも腹の底が疼くように熱くなる。唾液に濡れた舌先を見た瞬間、頭の奥で理性が音を立てて千切れるのが解った。
 
 次の瞬間、葛之宮は噛み付くように金田中尉へと口付けていた。即座に唇の隙間から舌をねじ込んで、柔らかい舌先を絡め取る。先ほどの幼児のままごとのような口付けではなく、獣のような口付けだった。
 
 軟体動物のように蠢く舌先を絡め、ねちゃねちゃと卑しく唾液を混ぜ合わせる。貪るような葛之宮の口付けに、金田中尉は当たり前のように応えた。ざらつく舌の腹を舐め上げ、舌の裏まで余すところなく舐め尽くす。上顎へと舌を這わせると、金田中尉がくすぐったがるように咽喉を鳴らすのが聞こえた。
 
 舌の感覚が遠くなってきた頃、ようやく唇を離した。互いの舌先が銀糸で繋がっているのが酷く卑猥に見えた。
 
 金田中尉は飲み込みきれなかった唾液で口角を汚したまま、葛之宮を見上げてうっそりと笑った。淫魔の微笑みだ。
 
 
「続きは?」
 
 
 強請る声に、葛之宮は自分が深い暗闇へと落ちていく感覚に陥った。
 
 

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Published in 地平の戦争

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