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50 獰猛で、利己的で

 
 繋がりが解けると、葛之宮と金田中尉は、言葉少なに濡れた手拭いで互いの身体を清めた。白濁にまみれた後孔を清めようと手を伸ばすと、金田中尉は、自分でやる、と言って葛之宮の手を拒んだ。その声音は、先ほどの情事の甘さを欠片も残しておらず、拒絶的にも聞こえた。
 
 あらかたの後始末が終わった頃には、夜は明けていた。小さな窓から、空気に溶けるような朝日が射し込んでいる。
 
 淡い光が寝台に座っている金田中尉を照らしていた。左足を立てて、真新しい包帯を巻いた右足を寝台の上に放り出した金田中尉は、未だ衣服を纏っていない。黄がかった健康的な肌がやけに扇情的に見えた。数時間前は、目の前の肌に、指で、舌で、触れていたのだ。
 
 葛之宮の視線に気付いた金田中尉が胡乱げな視線を向けてくる。
 
 
「何だ」
「いえ、何も…」
「何でもないなら、じろじろ見てくるな」
 
 
 威嚇する犬のように鼻梁に皺を寄せている。取り付く島もない返答に、葛之宮はぐっと口を噤んだ。
 
 だが、犬のような金田中尉の表情を見ていて、ふと思い出した事があった。金田中尉を『ハウンド』と呼び、飼いたいとほざいた憎々しい男の事だ。
 
 
「中尉、ルイ・ベネディクトには近付かないで下さい」
 
 
 やぶからぼうに話し始めた葛之宮の様子に、金田中尉が眉根を寄せる。
 
 
「唐突に何だ」
「あの男は、貴方に興味を持っているようで…取引を持ちかけられました」
「取引?」
「はい。貴方に接見させる代わりに、西国軍駐屯基地からの逃げ道を教えるというものです」
 
 
 金田中尉の口角が、へぇ、とでも言いたげに吊り上げられる。
 
 
「それで、お前は取引を受けたのか?」
「まさか。あんな男は信用なりません。それに貴方を人身御供にするつもりもありません」
「別に人身御供にされても構わないがな」
 
 
 投げ遣りな口調で金田中尉が呟く。その言葉に、脳味噌にカッと血がのぼるのを感じた。
 
 
「人質にされた挙げ句に、処刑されるかもしれないんですよ」
「わざわざ接見を申し出るくらいだ。殺す気は、まだないだろう」
「殺されるよりも、もっと屈辱的な事をされるかもしれません。あの男は――」
 
 
 言い掛けていた言葉が途切れる。ベネディクト少尉が言っていた言葉が脳裏に蘇る。
 
 
『私はヘテロだがあの男なら抱ける。あの男を“飼いたい”』
『そう、足下に侍らしたいんだよ。猛獣を。もし飼うことが出来ないなら、あの男の肉を噛み千切って喰ってやる』
 
 
 許し難い言葉だ。思い出すだけで脳髄がグツグツと沸騰しそうになる。両拳をキツく握り締めた葛之宮を見て、金田中尉が小さく首を傾げる。
 
 
「あの男は、何だ」
「…あの男は、危険です。何があっても近付かないで下さい」
 
 
 曖昧な葛之宮の忠告に、金田中尉は一瞬合点がいかないように唇をへし曲げたが、結局何も言わずに肩を竦めた。
 
 金田中尉は、再びぼんやりと視線を宙へと浮かべた。窓から射し込む朝日が更にその光を強めている。視線をあらぬ方向へと向けたまま、金田中尉が独り言のような口調で呟く。
 
 
「そろそろ見張りの交代時間だ。その隙に自分の部屋に戻れ」
 
 
 告げられた言葉に、葛之宮は酷く名残惜しい心地に襲われた。どうしてだか、目の前の男と離れがたかった。
 
 寝台に腰掛けたままの金田中尉へとゆるりと近付く。両手を寝台へと付いてにじり寄ると、金田中尉が怪訝そうに葛之宮を見遣った。
 
 
「あの…口付けてもいいですか、貴方に…」
 
 
 恐る恐る訊ねると、金田中尉は一瞬酷く不可思議そうな表情を浮かべた。奇妙なものでも見るかのように葛之宮を見上げてくる。それでも、僅かに口角を吊り上げて、軽い口調で呟いた。
 
 
「お前は、随分と物好きだな」
「駄目ですか…?」
 
 
 しおらしく肩を落とすと、金田中尉の唇から笑い声が零れた。朝の静けさに霧散するような小さな笑い声だ。
 
 
「好きにしろ」
 
 
 この人はいつだって『好きにしろ』という言葉一つで、呆気なく自分の身体を他人に投げ出してしまう。自分の身体なんて興味がないとでも言うかのように。それが葛之宮には酷く切ない。
 
 金田中尉が軽く下顎を上げる。だが、目は閉じない。黒い瞳が真っ直ぐに葛之宮を見つめている。その瞳を見つめながら、葛之宮はそっと両掌を金田中尉の頬へと添えた。
 
 乾いた唇に、幼児のような触れるだけの口付けを落とす。ささくれた薄皮の感触を、ざらりと唇に感じた。それが愛おしい。どうしてだか、愛しくて堪らない。
 
 胸に込み上げてくる奇妙な温かさをどう定義すればいいのか。この心臓を埋め尽くすほどの感情に、どう名前を付ければ正しいのか。ただ胸が苦しい。破裂してしまいそうに、目の前の男のことで溢れている。
 
 金田中尉の唇から、は、と短く息が吐かれる。その淡い吐息が唇に触れた瞬間、愛しさが咽喉元まで込み上げてきて、息が止まった。その瞬間、石川曹長の言葉を思い出した。
 
 
『息が止まりそうになります』
『これは恋でしょうか』
 
 
 嗚呼、恋だ、と思った。自分は目の前の男に恋をしている。それが嬉しい事か悲しい事かは解らない。だが、もう取り返しはつかない。元の場所に戻れないほど、囚われ溺れてしまっている。苦しみ、藻掻きながら続けていくしかないのだ。おそらく一生報われる事はないであろう恋を。
 
 重なっていた唇を静かに離す。微かに細められた金田中尉の瞳を見つめながら、葛之宮は祈るような気持ちで呟いた。
 
 
「貴方の傍を離れたくない」
 
 
 子供の駄々のようにも聞こえる葛之宮の台詞に、金田中尉が肩を揺らして笑う。
 
 
「バカが」
 
 
 下らない戯言でも聞いたかのような返答だ。金田中尉の顔に浮かんだ無邪気な笑みを、葛之宮は切ない想いで見つめた。そうして、金田中尉は右掌をおざなりに揺らしながら、わざとらしいほど素っ気なく呟いた。
 
 
「さっさと部屋に戻れ、葛之宮少尉」
 
 
 
 
 
 
 
 静寂が漂う廊下を、自室へと向かってゆっくりと歩いていく。早朝の基地には平時の緊張感がなく、平穏な空気に包まれていた。耳を澄ませば、何百もの寝息が聞こえてきそうだ。
 
 だが、自室の扉を開いた時だった。薄闇の中からにょっと二本の腕が伸びてきた。その腕に絡め取られるようにして、葛之宮は部屋の中へと引き摺り込まれていた。
 
 声を上げる暇もなかった。突き飛ばされるようにして、壁へと背を押し付けられる。二本の腕が葛之宮の胸をキツく押さえつけていた。目を凝らすと、薄暗い空間の中、ぎょろりとした四つの目玉が葛之宮を見上げているのが見えた。
 
 
「くーずのみやくんっ」
 
 
 わざとらしいほどに明るく無邪気な声に、ぞわりとうなじが粟立つのを感じた。この声は、苗代兄弟だ。にやにやと歪められた口元が見える。葛之宮の胸を押さえる両腕にギリギリと力を込めながら、かずらが相変わらず道化師のような口調で言う。
 
 
「せんぱいを抱いたね?」
「せんぱいをオンナノコにしちゃったねぇ?」
「せんぱいの処女おいしかった?」
「おいしかったよねぇ? きもちよかったよねぇ?」
 
 
 かずらとうずらが葛之宮の両耳へと交互に囁き掛ける。ねっとりと鼓膜に纏り付くような声音が気色悪い。まるで小虫を指先でいたぶっているような口調だ。
 
 
「…見ていたんですか」
「おれらがせんぱいのことで見てないことなんかあるわけないじゃない」
「おれらはせんぱいのことなら、ぜーんぶ知ってんの」
 
 
 くすくすと潜めるような笑い声が聞こえてくる。だが、その笑い声にも隠し切れない棘が滲み出ていた。チクチクと葛之宮の皮膚に、苗代兄弟の暗い嫉妬が刺さってくる。
 
 胸部を圧迫してくる腕に息を詰まらせながら、葛之宮は鈍い声を漏らした。
 
 
「本当ですか?」
「はぁ?」
「本当に、金田中尉のことなら全部知ってるんですか?」
 
 
 何を言っているとばかりに、苗代兄弟の視線がキツく尖っていく。その眼差しを、葛之宮はじっと見下ろした。
 
 
「あの人のことを何も知っていなかったから、君達は今僕に怒っているんじゃないのか?」
 
 
 挑発的な葛之宮の台詞に、苗代兄弟の眼球に紛れもない殺意が浮かび上がるのが見えた。赤黒い嫉妬と憎悪の炎がぐらぐらと眼球の奥で揺らめいている。
 
 
「ちょうしにのるなよ、ヨワ虫やろうが」
「てめぇのチンポきりおとして、くわせてやろうか」
 
 
 罵倒と脅迫が耳元に吹き込まれる。その声を無表情に聞きながら、葛之宮は抑揚のない声音で返した。
 
 
「五月蠅い、黙るのはお前達の方だ」
 
 
 吐き捨てた言葉は、想像よりもずっと鈍く空間に響いた。一瞬葛之宮の言った言葉が理解出来なかったように、目の前に立つ苗代兄弟が唖然とした表情を浮かべる。
 
 ほんの数秒、苗代兄弟の気が緩んだ隙に、葛之宮は右手を素早く腰裏へと伸ばした。腰裏に隠していた刃長五寸ほどの懐刀を引き抜き、左側に立っていた苗代の片割れの首筋へと刃筋を突き付ける。
 
 と同時に、自身の右目に煌めく切っ先が寸前まで寄せられている事に気付いた。右側に立っていた苗代の片割れが葛之宮の目に湾曲した短刀の先端を突き付けている。
 
 かずらが唸るように呟く。
 
 
「くずのみやくん、うずらから刃を離せ」
「それは君の方が先だろう?」
 
 
 目がチカチカする、と暢気な声で葛之宮が呟くと、かずらが口角を引き攣らせるようにして嗤うのが見えた。うずらは刃を首筋にあてがわれたまま、何処か緊張した面持ちで微動だにしない。
 
 
「みちがえたよ、くずのみやくん。へいわしゅぎの貴族のぼっちゃまがヒドイ変わりようだねぇ。これもせんぱいのエイキョウ?」
「さぁ、どうだろう。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。それに、君達だって言ったじゃないか」
 
 
 そう投げ掛けると、かずらもうずらも不思議そうに目を瞬かせた。その顔を眺めながら、葛之宮は呟いた。
 
 
「人間はもっと利己的であるべきだって」
 
 
 それは目黒を担いで険しい山道を死ぬ思いで登っていた葛之宮へと苗代兄弟が囁き掛けた言葉だった。うずらの首筋へと冷たい刃を押し付けたまま、葛之宮は笑みを浮かべて続けた。
 
 
「君達の言うとおり、僕はもっと利己的になるよ。自分の欲望を最優先にさせてもらう。欲しいものを他人なんざにくれてやらない。――ねぇ、一度しか言いませんよ。よく、聞いて下さい」
 
 
 小さく息を吸い込んだ。唇が戦慄きそうになるのを必死で堪える。
 
 
「あの人は、絶対に渡さない」
 
 
 これは宣戦布告だ。葛之宮の目は、真っ直ぐかずらへと向けられている。かずらの嫉妬が渦巻く熱の目。間違いない。こいつは敵だ、同じ餌を奪い合う敵。
 
 かずらが奥歯を固く食い締めているのが頬の痙攣で判る。ギリギリと軋む音まで聞こえてきそうだ。
 
 
「…ぶちころされてぇのか、てめぇ。いますぐ目玉えぐりだして、ぜんしんバラバラにきりきざんでやってもいいんだぞ」
 
 
 遊びのないかずらの声音には、葛之宮への殺意がありありと滲んでいた。余裕のないかずらの様子に、葛之宮は口元の笑みを深めた。ようやく、かずらが葛之宮を葛之宮として認識したのだと思った。弱虫泣き虫な足手まといではなく、一人の男として。
 
 
「出来るものならどうぞ。だけど、目玉を抉り出す前に、君の大事な弟の頸動脈が切れてしまうことも忘れないで下さい。見たくないでしょう? うずらくんの血が天井まで飛び散るところなんて。出来れば僕も命の恩人を殺したくはないんですけど…まぁ、仕方ないですよね」
 
 
 穏やかにそう答えると、かずらの表情がますます険しくなっていく。うずらが救いを求めるようにかずらへと視線を向けていた。
 
 
「かずらぁー…」
 
 
 哀れげなうずらの声音に、かずらがグッと唇を噛み締める。
 
 
「…おれのおとうとをキズつけたら、地のはてまで追いかけてころす」
 
 
 忠告するように言い放って、かずらがゆっくりと短刀を引いていく。それと同時に、葛之宮はうずらの首筋から刃を遠ざけた。互いに武器を構えたまま、静かに距離を取っていく。
 
 
「部屋から、出て行って下さい」
 
 
 声が震えないようにするのが精一杯だった。咥内に溜まった嫌な唾を、音を立てないように嚥下する。
 
 かずらは確かめるようにうずらの首筋を撫でた後、冷めた眼差しを葛之宮へと向けてきた。
 
 
「コウカイするよ、くずのみやくん」
「後悔?」
「おれらを敵にまわして」
 
 
 嘲るようなかずらの声音に、葛之宮は呆れた声を返した。
 
 
「おれら、じゃなくて、僕の敵は君だけだ、苗代かずらくん。うずらくんは、君じゃない。弟を君と混合するな」
 
 
 言い放つと、かずらの目に再び憎悪が灯った。憎々しげな眼差しで葛之宮を睨み付けてくる。
 
 
「おまえに、なにがわかる」
「君達のことなんて、僕には何も解らないよ。だけど、違う二つのものを無理矢理一つに合わせるような事をしていたら、いつか取り返しのつかないことになる」
「とりかえしがつかない、だって?」
 
 
 かずらがせせら笑う。その薄ら笑いを眺めながら、葛之宮は静かに呟いた。
 
 
「どちらか片方が死んだらどうする」
 
 
 あまりにも残酷な言葉だった。その残酷さを自覚しながらも、葛之宮は言わずにはいられなかった。いつか訪れるかもしれない悲劇を、目の前の双子に自覚して欲しかった。
 
 かずらの顔色がさっと変わる。かずらは下唇を噛み締めると、何も言わずに部屋から出て行った。その後ろをうずらが追いかけていく。扉から出て行く直前、うずらが振り返って、べーっと舌を突き出してきた。
 
 
「うるせぇ、ばぁーか!」
 
 
 幼稚な罵りに、肩の力が抜けるのを感じた。矢張りうずらは幼い。幼すぎるぐらいだ。だから、兄の背を追うことしかできないでいる。
 
 二つの足音が遠ざかっていく。足音が消えてから、葛之宮は自分の膝頭が小さく震えている事に気付いた。虚勢を張るのも、いい加減に限界らしい。
 
 よろよろと壁に凭れるようにして床に座り込む。握り締めていた刃を床へと落として、葛之宮は震える掌で顔を覆った。
 
 今思い出しても自殺行為のような台詞ばかりを吐いてしまった。かずらがいきり立つのも解る。だが、たとえ葛之宮が懐刀を出さなくても、どうせかずらは葛之宮を殺そうとしていただろう。葛之宮がかずらの立場だったら、何年も恋い焦がれていた相手を横からかっさらった男を許す筈がない。葛之宮が抵抗していなければ、間違いなく葛之宮は今この場で血を垂れ流して死んでいただろう。その確信がある。
 
 嗚呼、それにしても馬鹿げた事を言ってしまった。まるで恋人気取りで、嫉妬深い男のような……思い出すだけで羞恥で悶えそうになる。それでも、一度口に出した言葉を撤回しようという気にはなれなかった。
 
 
 あの人は、渡さない。絶対に、誰にも渡したくない。たとえ一生葛之宮のものにならなくても、他人のものになるのだけは許せない。あの身体の甘さを知っているのは自分だけでいい。もし誰かがあの人の身体に触れたら、そいつの指を切り落としてやる。
 
 
 凶暴な衝動が込み上げてくる。これが自分なのかと思う。こんなのが自分だったのか。こんな獰猛で、利己的で、ろくでもない――
 
 唇から震える息が零れる。たかが恋に溺れて、今まで築き上げてきた自分がこんなにも脆く崩れてしまうものなのか。今までの二十年間は何だったんだろう。ただ、呼吸をして、生きているつもりだっただけなんじゃないだろうか。
 
 恋をしている筈なのに、何も楽しくない。浮かれた気持ちに一切なれない。ただ、ひたすら沈んでいくような感覚があるだけだ。あの男に溺れていく。それが恐ろしい。それなのに離れられない。出来ることならずっと傍に居たいと願ってしまう。そして、叶わないと解っているけれども、ほんの一欠片だけでもいい。あの人に好かれたい。好きだと言ってもらいたい…。
 
 
 絶望的な願望に頭を抱えていた時だった。不意に部屋の扉が叩かれる音が聞こえた。蹲っていた身体を無理矢理起こして、扉を開く。
 
 そこに立っていたのは、胡散臭い笑みを浮かべた男だった。天道光一は片手に持っていた扇子をパチンと音を立てて閉じると、何とも楽しげな口調でこう言った。
 
 
「部隊の方を起こして、直ぐに出発の準備を整えて下さい。皆様を天都へお招きいたします」
 
 
 
 
 
 
 
 金田中尉と葛之宮少尉および、総勢二十二名の小隊が天都へと向かった後、臼長井基地を中心として東国軍防衛線が張られた。一万にもおよぶ兵を投入し、西国軍駐屯地を監視。西国軍は沈黙を続け、その後三ヶ月程の膠着状態が続くこととなる。
 
 
 夏が終わり、東国に凍て付く冬が来る。
 
 

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Published in 地平の戦争

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