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56 解っている

 
 その後の会議は、つつがなく終わった。葛之宮は左頬を腫らしながらも、先ほどと変わらない態度で将子や天道に意見を述べ、受け答えをした。金田は、厳しい表情のまま終始無言を貫いた。
 
 会議が終わると、用意された宿舎へと向かった。移動中の馬車の中でも、金田は一度たりとも口を開くことなく、葛之宮の方をちらりとも見なかった。葛之宮はそれに対して、何の不満も不安も抱かなかった。というよりも、抱けなかった。あの会議での発言以降、自分の感情がどこか遠くへと離れてしまったような感覚があった。喋っていても、歩いていても、どこか他人事のように感じるのだ。
 
 
 宿舎に付いた頃には、日も暮れていた。食事の用意ができていますが、という従者の言葉は耳に入ったが、葛之宮は、不要だ、と一言答えた。それを答えたのが自分だという自覚もなかった。昼から全く何も口にしていないというのに、なぜだか腹が減っていない。むしろ、胃の中で大量の芋虫がぐにぐにと蠢いているような吐き気すら感じる。
 
 一刻も早く一人になりたかった。足早に部屋へと向かう。部屋に入って扉を閉めた瞬間、込み上げた。吐き気が胃袋から食道へと逆流していく。口を片手で覆っても、遅かった。指の隙間から吐瀉物が溢れて、板張りの床をしたたかに汚す。
 
 えずく音を漏らしながら、床へと跪いた。消化し切れなかった固形物と胃液がすべて床へとぶちまけられる。ツンと酸っぱい胃液の匂いが鼻腔に潜り込んできて、余計に背筋が波打った。
 
 言葉にできない、震えが這いのぼってくる。まるで極寒の地にいるかのように、全身が冷たく凍えていた。涙が出そうなのに、出ない。泣く権利はないんだと、自分自身で解っていた。
 
 
「馬鹿が」
 
 
 頭上から声が聞こえた。開いた扉の前に、金田が立っていた。扉の隙間から、真っ暗な部屋へと廊下のランプの光が細く射し込んでいる。
 
 ごぶっごぶっと吐瀉物が咽喉の奥で鈍い音を立てるのを感じながら、葛之宮は肩越しに金田を睨み付けた。金田は、酷く冷たい眼差しで葛之宮を見下ろしている。
 
 
「だから、俺が言うべきだったと言ったんだ」
 
 
 冴え冴えとした金田の声は、それが紛れもない真実なのだと伝えてくる。葛之宮の身に余ると、金田は初めから知っていたのだ。葛之宮には、数え切れないほどの人間の生き死にを背負う事は出来ないと。
 
 吐瀉物で口元を汚したまま、葛之宮は唸るように言った。
 
 
「黙って、ください」
 
 
 意外にも金田は反論しなかった。ただ、静かに扉を閉めると、葛之宮の傍らにしゃがみ込んだ。金田の無骨な掌が葛之宮の背に滑らされる。
 
 
「全部吐け」
 
 
 背筋を撫でる手付きに、また吐き気が込み上げた。葛之宮は情けなく床に跪いたまま、胃の中が空っぽになるまで吐き続けた。
 
 胃液すら出なくなると、金田は取り出した布で雑に葛之宮の口元を拭った。腕を肩に担がれて、そのまま寝台へと運ばれる。寝台へと横向きに置かれた後、金田が水と盥を持ってきた。茶碗を差し出されて、うがいをしろと命じられる。言われるままにうがいをして、盥へと吐き出す。それを何度も繰り返した後、今度は水を飲めと言われた。水を飲み込むと、胃液で痺れていた咽喉が柔らかくほぐれていくのを感じた。濡らした布で再び口元を拭われる。
 
 
「…かねだ、少佐」
「少し眠れ」
 
 
 掠れた声で呼ぶと、すげなく命じられた。乾いた掌で目元を覆われて、暗闇が広がる。目蓋に触れた金田の掌は温かい。生きている人間の体温だと思うと、胸が苦しくなった。
 
 
「どうして…」
 
 
 気持ちが言葉にならず、呻くように声が零れた。どうして、こんな事をしてくれるのか。どうして、自分を見捨てようとはしないのか。なぜ葛之宮を労るような事をするのか。
 
 吐き出す息が情けなく震える。長い沈黙の後、金田の声が聞こえた。
 
 
「解っている」
 
 
 何が、何を解っているというのか。
 
 
「俺だって、解っている」
 
 
 目元を覆っていた金田の指先が葛之宮の前髪をゆっくりと掻き上げた。さらりと揺れる前髪が額にかかる。目を開くと、どこか遠くを見つめている金田の姿が見えた。
 
 
「なにを、見てるんですか…」
 
 
 問い掛けると、金田の視線が葛之宮へと向けられた。じっと斜め上から見下ろされる。
 
 
「お前が言ったことを、ずっと考えている」
「僕が…言ったこと…?」
「美しい地」
 
 
 それは金田の名前の由来を説いた時に話した言葉だ。囁くと、金田は再び視線をふっと遠くへと向けた。
 
 
「美しい地というのは、どんな場所だろうと。どんな花が咲き、どんな色や光に満ちているのか。俺には想像もできない」
 
 
 酷く切ない言葉だと思った。彼は生まれてからこの方、美しいものを見たことがないのだ。もしくは美しいものをすべて忘れてしまった。殺戮に身を浸して、忘れようとした。血と死に満ちた場所で、美しいものは致死量の毒と同じだから。
 
 
「だが、一つだけ確かなことがある」
 
 
 揺るぎなく、確信に満ちた声が聞こえる。
 
 
「俺は、きっとそんな場所へは行けない」
 
 
 手が勝手に動いた。金田の手をキツく掴んで、葛之宮は呻くように声を漏らした。
 
 
「僕が、あなたを…」
 
 
 だが、続く言葉が出てこなかった。僕があなたを連れて行く、なんてどうして口に出来る。葛之宮は今日、何千何万人もの人間を地獄へ落とす言葉を口にした。歴史に残る大悪党がどうして誰かを美しい地へと導くことなんか出来る。
 
 想いが絡まって、咽喉が震える。なぜ、どうして、こんなつもりではなかった。誰かを死なせたいわけじゃない。だけど、選ばなくてはならなかった。誰かが、自分がそうしなくてはならなかった。
 
 金田の手を握り締めたまま、葛之宮は言葉を失った。まるで赤子のように身体を丸める葛之宮を見下ろして、金田が口を開く。
 
 
「解っている」
 
 
 だから、一体何を解っているというのだ。それなのに、そのたった一言が胸の奥に染み込んでくる。葛之宮は、おそらく永遠に世界から呪われる。だが、その世界でたった一人だけででも解っていると言ってくれる人がいるなら、救われる気がした。
 
 葛之宮は両手で金田の手を包んだまま、酷くか細い声で囁いた。
 
 
「少佐、申し訳ございません…」
「いいから、眠れ」
「…申し訳、ございません、でした…」
「もういい」
「ごめんなさい…」
 
 
 まるで子供のように謝罪を繰り返す葛之宮の目元を、再び金田の掌が覆う。それは既に金田に対する謝罪ではなくなっていた。葛之宮は、この国に住むすべての民に許しを乞うていた。それがどれだけ愚かで、恥知らずな事だと知りながらも、謝らずにはいられなかった。
 
 咽喉が嗚咽に震える。目元を覆う金田の掌が濡れていた。では、とうとう自分は泣いているのだ。その事実に、引き千切れそうなほどの自己嫌悪を感じた。泣く権利はない。泣くなんて虫が良すぎる。選んだのは自分自身なのだから。
 
 
「誰かが言わなくてはならなかった。それだけのことだ」
 
 
 金田の静かな声が聞こえる。それは先ほどの会議で葛之宮が言った言葉だ。だが、今の金田の言葉は、葛之宮に対する慰めのように聞こえた。金田は最初から解っていたのだ。綺麗事を信じようとする、愚直で臆病な二十歳のお坊ちゃんが自分の選択の重さに潰れてしまうことを。
 
 ふっと金田の掌が目元から外れた。暗闇の中、寝台に腰掛ける金田の姿がぼんやりと見える。背筋はまっすぐ伸び、その眼差しはどこか遠くを見つめていた。
 
 
 
 
 
 目を覚ますと、薬品のような清涼とした匂いが漂っていた。朝日が射し込む小窓を眺めてから、身を起こす。いつの間にか服がさらりとした寝間着に変わっていた。着替えた記憶がないという事は、金田が着替えさせてくれたのだろうか。
 
 妙に歯痒いような、むずむずした心地を噛み締めていると、部屋の扉が開いた。
 
 
「起きたか」
 
 
 お盆を持った金田が立っていた。部屋に入ると、金田は雑に足で扉を閉めた。確か扉前辺りに盛大に吐いていたはずだが、その残骸は残っていない。空中を漂う薬品のような匂いは、床掃除をした後の匂いだろうか。
 
 
「…すいません、あの…あれを片付けて頂いたようで…」
 
 
 申し訳なさに声が小さくなる。上官にゲロの始末をさせるなんて最低も良いところだ。額に手を当てたまま俯く葛之宮を見て、金田は、あぁ、と短く相槌を漏らした。
 
 
「別に構わん。部下のゲロには慣れてる。二等兵共の初陣なんかは大抵ゲロまみれになるもんだ」
 
 
 と金田が笑えないことを言う。寝台の端に腰掛けると、金田はお盆を傍らへと置いた。お盆の上には、玉子粥と水が入った腕がある。
 
 
「食え」
 
 
 匙を差し出される。受け取ろうと手を伸ばしたが、寝起きなせいか指先に力が入らず、布団の上に匙が落ちた。
 
 
「あ……申し訳ございません」
 
 
 小さく謝罪を漏らして、匙を拾い上げようと手を伸ばす。だが、それよりも早く金田が匙を掴んでいた。そのまま、玉子粥を掬って、葛之宮の口元へと近付ける。
 
 
「口を開け」
「あの、しかし…」
「黙って、口を開け」
 
 
 一単語ずつ区切って言い聞かせるように言われる。僅かな躊躇いを残しつつも口を開くと、口の中に匙が差し込まれた。ふんわりと柔らかい温度の粥が舌の上に乗せられて、匙が引き抜かれる。ゆっくりと咀嚼して飲み込むと、再び匙が寄せられた。されるがままに粥を胃袋へと流し込んでいく。
 
 一皿空になると、金田は水の入った茶碗を傍机へと置いて立ち上がった。盆を持ったまま扉へと向かう金田の背へと慌てて声をかける。
 
 
「少佐、どちらへ行かれるんですか」
 
 
 まるで母親に置き去りにされる子供のような心細い声音だ。そのことに自分自身、堪らない羞恥を覚えた。扉に手を掛けたまま、金田が振り向く。
 
 
「厨房に皿を戻しに行く。すぐ戻る」
 
 
 すぐ戻る、という言葉に、ほっと身体から力が抜けた。明らかに安堵を滲ませる葛之宮を見て、金田が口角に小さく笑みを滲ませた。
 
 
「本を用意して待ってろ」
 
 
 短く命じる声に、葛之宮は、はい、と従順な子供のように返した。
 
 

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Published in 地平の戦争

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