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57 解ってしまった

 
 自分の心がひどく平らかなのが金田には不思議だった。昨日はあれほど荒れ狂ったというのに、今は嵐直後の凪の時間ように心には波一つない。
 
 厨房への続く廊下を歩きながら、金田はじっと自分の心を覗き込もうとした。いつもならどす黒く、濁った泥沼しか見えない自分の心の奥底に、今は何も見えない。ただ、ふわふわと奇妙に心地よいような、柔らかな空気を感じるだけなのだ。
 
 その空気が自分のどこから湧いてきたのか、金田には解らない。ただ、いつその空気が生まれたのかは、はっきりと解っていた。
 
 葛之宮に掌を握り締められる度に、胸の奥底から言いようのない、むず痒い感覚が込み上げてくる。もどかしいような、唾棄したくなるのに、その一方で胸に抱き締めたくなるような温かで奇妙な何かが。
 
 
「何かご用ですか?」
 
 
 不意に、声が掛けられた。気が付いたら、厨房の前にぼんやりと立っていた。やや背中が丸まっている中年の下男が不思議そうに金田を見つめている。
 
 
「あぁ、すまない。皿を下げに来たんだ」
「わざわざ恐れ入ります。言って下されば、下げに伺いましたのに」
「言いに行くのも、自分で持って行くのも同じようなもんだ」
 
 
 軽口じみた金田の口調に、下男は小さく笑みを浮かべた。金田が持っていた盆を受け取ると、下男はふと思い出したように、少々お待ち下さい、と言った。そのまま、ぱたぱたと厨房へと入ると、数分も経たぬうちに再び出てきた。その腕には、木製の籠が抱かれている。
 
 
「うちで取れたイチジクです。少し熟れすぎているやもしれませんが、味は悪くないです。よろしければどうぞ」
「好物だ。ありがとう」
 
 
 ころりと太ったイチジクが数個入った籠を受け取ると、下男は小さな目を更に細めるようにして微笑んだ。
 
 
「何か良いことでもありましたか?」
「良いこと?」
「昨夜と比べて、今朝は随分と表情が柔らかく見えましたので」
 
 
 ご無礼だったら申し訳ございません。と続ける下男の言葉を聞きながら、金田はやや唖然とした表情で下男を見つめた。だが、数秒後、自分の顔が猛烈な勢いで熱くなるのを感じた。頬を赤くする金田を見て、下男が僅か驚いたように目を瞬かせる。
 
 その顔を二度見ることもなく、金田は片腕で顔の下半分を隠して踵を返した。そのまま挨拶もせずに、ずかずかと廊下を大股で歩いていく。
 
 下男から遠ざかっても、なかなか頬の熱さは引かなかった。耳元で下男の言葉がリフレインされる。
 
 
『何か良いことでもありましたか?』
 
 
 良いことなんて何一つとしてない。相も変わらず、金田は崖っぷちに立って、くだらない英雄ごっこをしているだけだ。敵を殺して、味方を見殺しにして、挙句の果てに馬鹿共のせいで神殺しの責まで背負おうとしている。こんな人生に良いことなんて一つもあるわけがない。
 
 昨日もそうだ。金田の言葉を盗み、歴史に残る大罪人になろうとする貴族のお坊ちゃんを殴り殺してやろうと思った。天道と坂東との会議を続けている間も苛立ちが止まらず、無表情の下でふつふつと怒りをたぎらせていた。もし機会があったのなら、金田は葛之宮の首をへし折っていただろう。
 
 だが、ふと思ったのだ。なぜ、葛之宮は金田の言葉を奪ったのかと。ふつりと生まれた疑問は、金田の脳内で綿菓子のように大きく膨らんで行った。
 
 葛之宮の考えが解らなかった。金田の言葉を盗んだところで葛之宮に得はない。むしろ、その言葉を口に出せば、未来永劫この国に呪われることは分かっていたはずだ。それなのに、なぜ言った。
 
 そして、不意に解ったのだ。葛之宮は金田の言葉を奪ったのではない。葛之宮は金田の“代わり”に言ったのだと。金田に罪を負わせないために、自分が罪を被ることを選んだのだと。そう、解ってしまった。
 
 その瞬間、猛烈な憎悪が込み上げた。膨れ上がる憤怒のせいで腹の中の内臓がすべて破裂しそうに思えた。頭を掻き毟って、感情のままに喚き散らしそうになった。
 
 
『巫山戯んな、手前は何様のつもりだ! 何も知らねぇ貴族のクソ犬が舐めたことしやがって!』
 
 
 女のような甲高い声が喉元まで這い上がって、それからしゅわしゅわと萎んで行くのを感じた。憤怒と憎悪を押しのけるようにして、奥底に埋めていた記憶が走馬灯のように過った。
 
 
『かあさん、ごめんなさい』
 
 
 母親の死体に縋りながら、惨めに泣きじゃくる幼い頃の自分の姿が。
 
 不意に、猛烈に目の奥が熱くなった。自分が泣きそうになっているとは信じたくなかった。
 
 葛之宮が憎らしかった。息が詰まるくらい悔しかった。胸倉を掴んで恫喝して、俺を馬鹿にするな、と叫びたかった。俺を庇う必要なんてない。守ってくれなんて一言も頼んでいない。俺はもう十一歳の子供じゃない。だから、そんなことはしなくていいんだ、と。
 
 憎悪と悲哀が混ざり合って、自分の心が制御不可能だった。幼い子供のように容易く揺さぶられる自分が吐き気がするほど憎らしかった。言い様のない自己嫌悪に歯噛みしていると、背後から声が聞こえた。
 
 
「せんぱい」
 
 
 やや舌ったらずにも聞こえる声だ。振り返ると、うずらとアサトが立っていた。その組み合わせに、金田は僅かに目を見張った。苗代兄弟が片方だけで行動するとは随分と珍しい。
 
 
「うずらか。かずらはどうした?」
「けんかした」
 
 
 拗ねた口調で、うずらが呟く。喧嘩とは、ますます珍しい。この双子とは長い付き合いになるが、喧嘩をしている姿など今まで一度も見たことがなかった。うずらが俯いたまま、ぼそぼそとした声で続ける。
 
 
「おれとかずらとで、いけんがわかれた」
「どんな意見だ?」
 
 
 問い返すと、うずらは数度もごもごと唇を動かした。だが、その口からは結局言葉らしい言葉は出てこなかった。うずらが僅か怒ったような眼差しで金田を見つめてくる。
 
 
「くずのみやくんは、どこですか?」
 
 
 噛みつくような口調に、金田は小さく肩を竦めた。
 
 
「あいつは部屋にいる。何か用でもあるのか?」
 
 
 問い掛けると、うずらはグッと眉根を寄せた。怒っているというよりかは不貞腐れているような表情だ。アサトは口を閉じたまま、横目でうずらの様子を窺っているようだった。
 
 
「……ちょっと、はなしがあって」
 
 
 その声音はややバツが悪そうにも聞こえる。微か躊躇を滲ませたうずらの言葉を聞いて、金田は緩く顎をしゃくった。
 
 
「俺も今から向かうところだ。一緒に来い」
 
 
 金田の言葉に、うずらは子供のようにこくんと小さく頷いた。歩き出すと、その後ろをうずらとアサトがついてくる。
 
 廊下を進み出してすぐ、アサトが金田の横へと小走りに駆け寄ってきた。
 
 
「ありがとう」
「あぁ?」
 
 
 不意のお礼の言葉に、金田は訝しげに眉を顰めた。怪訝そうな金田の顔を見つめたまま、アサトが続ける。
 
 
「あんた、本当にオレを養子にしてくれたんだろう?」
「もうお前の耳まで入ってるのか」
 
 
 うんざりした気持ちで金田は呟いた。アサトを養子に迎えるよう天道たちに依頼をしたが、もうアサト自身の耳にまで届いているのか。随分と迅速なご対応で、と嫌味の一つでも言いたくなる。
 
 苦虫を噛み潰したような金田の表情にもかまわず、アサトは淡々と続けた。
 
 
「今朝方、事務官だとかが来て、出身だとか年齢だとか色々聞かれた」
「何歳だと答えたんだ」
「十五歳」
 
 
 平然としたアサトの返答に、思わず噴き出しそうになった。せいぜい見繕っても、十二前後にしか見えない容姿のくせに、よくもそんなバレバレな嘘がほざけるものだ。図々しいというか、肝が据わっているといおうか。
 
 
「その事務官は、お前を十五だと信じたのか?」
「栄養が足りなくて、身体の成長が遅いんだって説明した。それでも信じられないなら金田少佐に確かめればいいって言ったら、納得してくれた」
「それは納得したんじゃねぇだろう」
 
 
 呆れた声が漏れる。おそらく事務官は、わざわざ金田に確かめるよりも、嘘の書類を通す方が楽だと判断したのだろう。
 
 アサトが前を見据えたまま呟く。
 
 
「オレも、この戦争に参加する」
 
 
 金田は、自分の胸元よりも背の低い子供を横目で見下ろした。徴兵年齢が十五まで下げられたことをアサトは知っているのか。事務官から聞いたのか、それとも苗代兄弟が聞き耳を立てていたか、どちらかは判らないが。
 
 
「何のために」
「生きるためにだ」
「お前の言っていることは、ちぐはぐだ。生きるために戦争に参加するって言うのか」
「そうだ。あんたには解るだろう」
 
 
 断定の口調で、アサトは金田へと言い放った。子供とは思えぬ鋭い眼光が金田を睨み据えている。その生意気な眼差しに苛立ちが募る。怒りに任せて口を開こうとした瞬間、言葉は咽喉の奥に詰まるのを感じた。
 
 子供を戦場へと引き摺り込む選択をしたのは葛之宮だけではない。金田も同罪だ。そんな人間が戦争に参加すると決意した子供に対して何が言える。怒鳴る権利も、諭す義務も、憐れむことすらもう許されないのだ。
 
 黙り込んだ金田の後ろから、恨み言じみた声が聞こえてくる。
 
 
「ばかやろう」
 
 
 うずらが唸るように呟いていた。その目はアサトの背を真っ直ぐに睨み付けている。
 
 
「おれは、ほんとうの年をいえっていった」
「うずら、怒るなよ」
 
 
 まるで本当の兄弟のように、慣れた口調でアサトが言い返す。アサトは歩調を弱めると、うずらの横へとピッタリとくっついた。うずらよりもアサトの方が頭一つ分小さい。うずらの肘をそっと横から掴んで、アサトが宥めるように声を上げる。
 
 
「オレは、お前とかずらが心配なんだ」
「おまえなんかにしんぱいされるほど、おれらはおちぶれてねぇ」
「わかってる。オレが傍にいたいだけだ」
 
 
 金田は振り返らないまま、二人の遣り取りを静かに聞いた。驚いた、随分と親密になったものだ。
 
 
「おまえなんか、せんじょうにでたら、いっぱつで死んじまう」
「お前たちがオレに戦う方法を教えてくれたんだ」
「そうだ。おれらは、にんげんをころすやりかたを、おまえにおしえた。かんたんに、ころすやりかたを」
 
 
 どこか遣る瀬無い声音でうずらは呟いた。
 
 
「にんげんは、かんたんにころせる。でも、かんたんにころせるってことは、かんたんに死ぬってことだ。おまえだって、あっけなく死んじまう」
 
 
 幼稚なうずらにしては、珍しく淡々とした物言いだった。肩越しに見遣ると、うずらはしょんぼりと床を見つめていた。いつもニタニタと笑っては気狂いな事ばかり喚いている苗代兄弟とは思えないほど、その表情は寂しげに見えた。
 
 
「それはお前だって同じだろう。お前だって、死ぬときは死ぬ。だから――」
「おれは、いっしょだからいいんだ。死ぬときは、かずらがいるから」
 
 
 アサトの言葉を遮って、うずらが静かな声で呟く。その言葉に、アサトが僅かに息を呑む音が聞こえた。視線を遣ると、怒りに赤らんだアサトの顔が見える。美しい顔立ちを悪鬼のように歪めて、アサトはうずらの顔を睨み付けていた。ギリギリと奥歯を噛み締めて、眦を尖らせたまま呟く。
 
 
「オレも一緒にいるだろうが……」
 
 
 酷く未練がましい、妬ましさを滲ませた声だった。その声に、ふと思った。
 
 この子供は、生も死も共有しようとする双子を分離させようとしているのだろうか。
 
 

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Published in 地平の戦争

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