Skip to content →

01 たたく(上)

 
 何だか獣くさい。
 
 ゴミ捨て場に仰向けに倒れたまま、鼻先をすんと動かす。腐って液状になった生ゴミの臭いに混じって、動物の体臭やら糞尿の臭いがどこからか漂ってくる。
 
 ピカピカとけばけばしい光を放っていたネオンから目を逸らして、背後へと視線をやれば納得した。ゴミ捨て場の右斜め後ろにペットショップらしき店があった。看板は酷く薄汚れているけど、色褪せた文字で『かわいいワンちゃん、かわいいネコちゃん』と書かれているのが見える。だけど、何でだか犬猫の鳴き声は聞こえない。もう夜の二時過ぎだから動物たちは皆眠っているのだろうか。くぅくぅと寝息を立てる犬や猫の姿を想像して、無意識に口元に笑みが浮かぶ。
 
 途端、殴られた頬がぢんと痺れるように痛んだ。ヴぅ、と小さく呻くと、今度は散々蹴られた腹が痛む。苦痛と同時に込み上げてきた吐き気に、咽喉が膨れ上がる。下から上へと胃液で半分溶けた食物が逆流して、食道を通り抜け、血色の悪い唇から吐き出された。
 
 
「ぐ、げぇぇ」
 
 
 カエルのような声が出たことが、何だか無性に笑えた。俺、カエルかよ! もう人間ですらなくって、カエルなのかよ! 胸中で突っ込んでみると、更に笑えてきた。固形物とも液体とも付かない吐瀉物を際限なく吐き出しながら、顔面だけが壊れたピエロみたいに笑う。
 
 数少ない通行人が俺を気味悪そうに見ているのが判った。だけど、嘔吐が止まっても笑いは止まらない。切り傷だらけの唇に胃液が沁みて、顔が痛くて、蹴られた腹が苦しくて、心臓がじくじくして、もう落ちるとこまで落ちたなって気がした。そう思った方が楽になれるのかもしれないと思った。
 
 子供の頃からろくでもなしだった。頭が悪くって、直情的、考えなしに嫌いなものを嫌いと殴り飛ばして、何度も母親に泣きながら頭を下げさせた。俺自身は一回も頭を下げた覚えなんてない。優等生な姉貴の評判を落とすだけ落として、一言も謝った覚えもない。
「片親の子供は」なんて言葉を周りから幾度も浴びせかけられた。俺はその言葉を聞くと速攻でキレるから、たぶん俺の何倍も何十倍も母親と姉貴は聞かされただろう。
 
 中学生からは母親の財布から金を抜いて、シンナーを吸い始めた。吸い過ぎで呼吸麻痺に陥って死に掛けたこともある。救急車が来るまでの間、母親と姉貴が人工呼吸と心臓マッサージをしてくれたらしい。目が覚めて一番に見えたのは、母親と姉貴の泣きじゃくる顔だ。きっと応急処置をしてくれてるときも泣いていたんだろう。唇の内側にしょっぱい味がまだ残ってる気がした。まだこんな俺でも泣いてくれるのかと、堪らなくて、俺も泣いた。
 
 だけど、結局高校には行かなかった。勉強するのは嫌いだったし、たぶんまた誰かを殴って退学になるだろうと思った。近くのコンビニでアルバイトして、一週間目に店長を殴って辞めた。三駅離れたパチンコ屋で、初日に椅子で客をボコボコに殴って辞めた。流石に警察沙汰になって母親に泣かれた。
 
 今度こそは真面目に平穏にやると母親に誓ったものの、五駅離れたお好み焼き屋は一ヵ月後にアルバイトの男の頭を叩き割って辞めた。その男が俺の姉貴と同じ高校で、姉貴のことを「アソコ硬そうなガリ勉女」と言ったからだ。ガリ勉だと言うのは良い。俺も姉貴のことは正直ガリ勉だと思う。だけど、姉貴を性的な目で見られるのだけは我慢ならなかった。だから、傍にあった三十センチ物差しで男の頭を何度も叩いた。セックスのことしか考えてないような馬鹿男の脳味噌なんてグチャグチャに飛び散っちまえば良いと思った。男は二ヶ月入院した。
 
 それからは、バイトをしては暴力沙汰を起こして辞めるという事が延々と続いた。一年後には、俺を雇ってくれるようなとこはもう何処にもなかった。俺も期待しないことにした。
 
 ろくでもなし仲間を呼んで、いっそ晴れ晴れした気持ちでシンナーを吸い散らかした。久々のシンナーは脳細胞の隅々まで染み込んで、脳組織をバラバラに壊した。黄土色やドブ色がマーブル状になった世界に、意識がぐるぐると沈んで行く感覚。その感覚の中で、俺はたぶん泣いてた。シンナーの袋を口に当てたまま、あんまりな情けなさに涙が出てきて、泣きじゃくりながら「たすけて」と繰り返した。
 
 こんなろくでもなしな俺を誰でもいいから助けてくれ。
 
 朦朧とした意識の中、仲間の数人が部屋から出て行ったのにも気付かなかった。隣の部屋で、押し殺された姉貴の悲鳴がしたのにも、俺は気付けなかった。
 
 次の日の朝、目が覚めたら、まず姉貴の足が見えた。マニキュア一つ塗ってない綺麗な爪、視線を上げていくとスカートの狭間から姉貴の太股に白い液体が伝っているのが見えた。それから、真っ赤に膨れた姉貴の顔。綺麗に結われていた三つ編みがぐちゃぐちゃに縺れていた。般若だ、とそのとき思った。
 
 
「巫山戯んな千春!」
 
 
 シンナーで鈍くなった頭に、キンキンと叫び声が突き刺さる。姉貴の素足が振り上げられて、その爪先が鳩尾に食い込んだ。頭を真っ赤に染め上げるような鮮明な痛みに、ギャア、と汚い悲鳴が口から溢れた。ビニール袋に入れてたシンナーが零れて、色褪せた臙脂色した絨毯に染み込む。
 
 腹を抱えて、芋虫みたいにゴロゴロと絨毯の上を転げ回っていても、姉貴は容赦しない。巫山戯んな、巫山戯んな、と繰り返しながら、俺の頭や顔や胸や足や股間すら踏みつけて、踏み潰そうとしてくる。
 
 
「やぁめ、やめぇおよぅ!」
 
 
 シンナーのせいで舌がカラカラに乾いて、上手く言葉が言えない。
 
 姉貴の足が俺の顔面を踏んで、踵でぐりぐりと鼻やら目やらを踏み躙って来る。頑是のいかない子供みたいに四肢を振り回して、俺はひたすら喚いた。姉貴まで俺を虐げるのかと悲しくなった。
 
 
「あんたのせいで、あんたのせいで!!」
「なんだおぉ、おれが、なにひたって、言ぅうんだおぉ!」
 
 
 濁った目で見上げれば、姉貴が射殺しそうな眼差しで俺を睨み付けた。その目は明らかに俺を殺したがってた。きっと、もし法律がなくって、それから母親がいなかったら、姉貴はその時俺を殺してただろう。それぐらい姉貴は俺を憎んでた。
 
 姉貴の手がスカートに伸びて、その長いスカートが勢いよく捲り上げられる。見えたのは、姉貴の性器だ。性器というよりも傷口だ。痛々しくて、切ない傷口。傷口から、むっと青臭い臭いのする白い液体が零れ出ていた。姉貴の性器が泣いているようにも見えた。
 
 姉貴はスカートを捲ったまま、目を白黒させる俺を見据えて冷たく言った。
 
 
「あたしは処女だった」
「ぅえ?」
「だけど、昨日処女じゃなくなった」
「な、にぃ?」
「手前の馬鹿友達にレイプされたんだよ!!」
 
 
 絶叫だった。だけど、怒声というよりは悲鳴に近かった。悲しくて鳴くから、悲鳴。
 
 俺の息は止まった。どうせなら、その時そのまま息が止まり続けて死んでしまえば良かったのに。
 
 そうして、姉貴はあの言葉を言った。
 
 
「何にもわかってないのはあんただけ。あたしも母さんも、とっくにあんたのことなんか見捨ててるのに。いい加減気付きなさいよ、馬鹿」
 
 
 もう姉貴は俺を叩かなかった。何も言わなかった。ただ酷く無関心な眼差しで俺を一瞥して、背を向けて出てった。そうやって、俺は見捨てられたことにようやく気付いた。
 
 

< back ┃ topnext

Published in touch'ボコ題

Top