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02 つねる

 
 頬をつねる、と言ったら何だか可愛らしいイメージがある。恋人同士のじゃれ合いだとか、母親 から悪戯息子へのお仕置きだとか、そんな他愛もないイメージ。
 
 だけど、渾身の力で抓られた場合、そんな他愛もないイメージなんか一気に吹っ飛ぶ。柔らかい頬肉は歪に捩れ、瞼は小刻みに痙攣し、次第に頬骨までぢんぢんと痺れてくる。五分以上経過した今、もう頬肉どころか左顔面の感覚がなくなりかけている。
 
 頬を抓られたまま、涙目で真樹夫さんを見上げる。数ヶ月前、ゴミ捨て場から俺を拾い上げてくれた恩人で、ヤクザの組長の息子で、初対面から俺の歯を二本折った理不尽で不条理な人。唇はにんまりと柔らかい笑みを浮かべながらも、俺を見下ろす目は冷たい。一番辛いのはそれだ。頬を抓られる事よりも、抓られている理由が解らない事よりも、真樹夫さんの冷めた目が一番辛くて怖い。
 
 
「ま、まひぃおひゃん…」
「御前、さっき誰と喋っとった」
 
 
 寒々とした声に背筋が小さく波打つ。真樹夫さんの言っている言葉の意味が解らず、目をぱちぱちと瞬かせる。すると、百八十度回転しそうなほど頬肉を捻られて、口から「いぎぃ」と奇妙な呻き声が零れた。
 
 
「御前がさっき喋っとった男、誰だか解っとるんか?」
「ひゃ、ひゃべっへあ、おひょこ…?」
「吾妻真澄、吾妻組長の息子や」
 
 
 尖った真樹夫さんの声を聞いて、脳裏を過ぎったのは、気弱そうな面をした優男の姿。数十分前、突然降り出した雨にズブ濡れになった姿でこの家を訪問して来た。真樹夫さんに話があるからとやって来た男に対して、タオル一つ差し出さない組員の姿に不穏な気配は感じ取ったものの、びしゃびしゃな靴下で廊下を歩かれるのは堪らなくて、結局自分は「どうぞ」とタオルを渡してしまった。優男は少し面食らった顔をした後に「ありがとう」と微笑んだ。その笑顔が一瞬泣いているように見えて、思わず「大丈夫っすか?」と尋ねていた。優男は「夏だから風邪は引かないと思うけど」と笑って答えた。聞きたかった答えはそれじゃないんだとは言えなかった。
 
 でも、たったそれだけの事だ。タオルを渡して、一言言葉を交わしただけ。それの何が悪かったのだろう。組長の息子、真樹夫さんの兄弟に対して気安く喋りかけたのが悪かったのだろうか。真樹夫さんの兄弟なんだから、もっと懇切丁寧に接するべきだったのだろうか。解らず、目を白黒させる。
 
 
「ま、まひぉひゃんの、おひょうひょさん?」
「あんなん弟やない」
 
 
 噛み締めて、吐き捨てるような口振りだった。真樹夫さんの指が更に頬に食い込んで、肉厚な頬肉がぺちゃんこになってしまいそうだ。きっと明日には紫色の痣になるだろう。
 
 
「おひょおひょ、ひゃない?」
「覚えとけ、あいつがこの家来ても相手にするな。喋るな、目を合わせるな、存在を認めるな。あいつはいない人間だ」
 
 
 関西弁が消えた真樹夫さんは一等に怖い。関西弁の時は胡散臭いけど、関西弁じゃない時は真樹夫さんの本気が伝わってきて心臓がぶるぶる震える。だけど、それ以上に何でだかさみしい。『いない人間』と評される吾妻真澄という男、真樹夫さんの兄弟、泣いてるような笑顔を浮かべる人、その存在を見てみぬフリをするなんて、余りにもさみしい。だけど、
 
 
「わひゃりま、ひひゃ」
 
 
 寂しさを押し殺してでも、従わなくちゃいけないことがある。俺は真樹夫さんに拾われたモノだから、真樹夫さんの言うことは何でも聞かなくちゃいけない。【YES】だけで【NO】はない。それは此処に来た時、一番最初に教えられた言葉だ。忠実に、堅実に、愚直に、俺は真樹夫さんを絶対的に信じる。
 
 頬を抓る真樹夫さんの指先からゆっくりと力が抜けていく。頬肉がふくよかな曲線に戻っていく度に、微かな疼痛が針のように頬骨を刺した。
 
 
「まき、おさん」
「あいつとは関わるな」
 
 
 真樹夫さんの平坦な声が胸を突き刺す。
 
 
「真樹夫さん」
「あいつに関わると、ろくなことにならん」
「ろくな、こと」
「泣きたくなる」
 
 
 そう呟いた真樹夫さんの声は自嘲的で、少し掠れていた。真樹夫さんは薄笑いを浮かべて、曖昧に首を左右に振った。弟に対する卑下を繰り返す真樹夫さんは偏執的でもあった。それは真樹夫さんが弟を虐げながらも、その弟に囚われている証拠のような気がした。きっと、真樹夫さんは解ってる。血の繋がるものを蔑む自分の滑稽さや惨めさ空しさに。解りながら、解らないフリをして、弟を疎み続けるこの人の不器用さが愛しかった。
 
 
「触ってもいいですか?」
「何?」
「手を、触りたいんです」
 
 
 焦れるように言って、攫うように真樹夫さんの掌を両手で掬い取った。尊いものに触れていると思う。尊いというよりも大切な、哀しい、静謐な、愛しい、絶対的で、破滅的で、混沌に塗れて、大きくて、小さくて、可愛くて、切ないものに。捧げ持った手の甲に、そっと額を寄せる。
 
 
「何しとんや」
「祈ってるんっす」
「何を」
「それを言ったら祈りじゃないスから、言わないっす」
 
 
 生意気な奴やな、と真樹夫さんの指がまた頬を抓った。過敏になっている頬を抓られるのは、痛くて堪らなかったけど、それでも真樹夫さんが笑ってくれるのなら構わないと思った。
 
 この手がどうか、いつか、今にも泣き出しそうなあの人に優しく触れますように。もし優しく触れることが出来ないのであれば、頬を抓って、いっそ泣かせてあげて下さい。泣くのを我慢して笑うあの人の姿は、とても寂しい。
 
 そうして、その寂しい人を見つめる真樹夫さんの目も、切ない。どうか哀しい兄弟がいつかただの兄弟に戻れるように。俺はもう喋ることも目をあわすことも存在を認めることも出来ないけど、祈ることだけは出来るから。
 
 雨がやんで、灰色の薄雲から太陽の光が透けてみえた。あの人はもう雨に濡れてないだろうか。暖かいと感じているだろうか。きっと、そうであればいいと他愛もない願いを想った。
 
 

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Published in touch'ボコ題

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